もしもし私だよ、ニーナだよ!
「えっ、嘘でしょ? ほんとにニーナなの?」
こんな時間にいったい誰が電話をかけてきたのだろう?
ロマナは不思議に思いながらも受話器を手にして、そして思わず問い返してしまった。なにせニーナが家を出て行ってからの二か月ものあいだ、<気まぐれ渡り鳥便箋>を通じたやり取りはあっても、電話がかかってくることなど初めてだったのだ。
「そうだよ? もう、私の声忘れちゃったの?」
受話器の向こう側から聞こえてくるお調子者の声は、たしかにニーナの声そのものだ。
「珍しいから驚いただけよ。でもこんな時間に電話してどうしたの?」
この世界において電話は普及し始めたばかり。まだまだ通話料金だって高い。だからこそこれまで魔法の便箋でやり取りしていたのだけれど、こんな時間にわざわざ電話してきたということは、きっと世間話がしたいわけじゃないはずだ。
とはいえ、向こう側から聞こえてくる声色は明るい。決してお金に困って電話をかけてきたというわけでもなさそうね、とロマナは受話器を握りしめながら思う。
「うん、ちょっと明日のイベントでヤギミルクとヤギミルクを詰める瓶が欲しいなぁと思って電話したの。具体的に言うとミルク瓶200本。いまから黒猫印の箒郵便さんに頼んで取りに行ってもらうから、えっと二時間後? までに用意して欲しいんだ」
「は?」
「だから……」
「いや、内容は聞こえてたわよ。じゃなくて、そんなのなにに使うの?」
「もちろん錬金術にだよ? あっ、そうそう、ついさっきね、<ヤギミルクたっぷりヌルテカ泡ぶろ入浴剤>が完成したんだよ。で、それが家で作ってた時と違って液体なの。白くてとろーりとしたミルクみたいな液体の入浴剤で、これをミルク瓶に入れて販売したら雰囲気出るかなって思ったんだ。それでね、せっかくなら実家のヤギミルクを使って、私の家で使ってる瓶を使用したら、リンド村のいい宣伝になるかなーって思うんだけど」
「えっとつまり、完成した品物を販売するための容器として、うちでヤギミルクを売るときに使ってるミルク瓶を200本欲しいってこと?」
そういうことっ、とニーナの明るい返事が返ってくる。
相変わらず妹は思い付きで行動しているらしい。あれでよくクノッフェンでやっていけているな、と正直思う。手紙では、同い年ぐらいの女の子と、ブタになってしまったお兄さんとの共同生活だと聞いているけれど、うちの妹が迷惑かけていないか非常に心配だ。
「さすがに私ひとりじゃ決められないから、ちょっとお母さんたちと相談してみる。またすぐに折り返し電話するから、あんたは受話器の前で待っておきなさい」
「わかった。あっ、ミルク瓶だけじゃなくて、ヤギミルクもお願いね。この前もらった分は入浴剤とポーションづくりでほとんど使い切っちゃったから」
「……さすがにそれは嘘でしょ?」
だって数日前にも頼まれて、樽のような容器に目一杯に詰めて送ったばかりなのだ。あれが一週間も経たないうちになくなるなんて信じられない。
しかしニーナは電話の向こうから、全部使っちゃった、とあっけらかんとした口調で言う。
「いま<青空マーケット>っていうイベントに参加してるの。大都会らしく、人がうわーって押し寄せるようなイベントなんだけどね、今日がその初日でさ、たった一日で私の発明品が10万ベリル以上も売れたんだよ。でもだからこそそのぶん追加で調合しなくちゃいけなくてさ。別にヤギミルクぐらい他のところから調達してもいいんだけど、こっちで手に入るミルクより、うちで採れたヤギミルクのほうが意外と品質が良くてさ」
「意外と、は余計よ」
それにしても、あの<ガラクタ発明家>でしかなかった妹の作品がちゃんと売り物になっているとは、これぞまさに意外である。案外、素材さえあれば私だって、と旅立つ前に口にしていたニーナの言葉は真実だったのかも。
──ううん、それはないわね。きっと同居人の方が素晴らしい人なんだわ。
「……ねえ、お姉ちゃん聞いてる?」
「うん、とりあえずそれも含めてお母さんに相談してみるから、ニーナはお金の準備しといて」
「へっ、お金とるの?」
「当たり前でしょ。今日すごーく儲けたんなら、それぐらい余裕で払えるでしょ」
受話器の向こう側でぶつぶつなにか言っているが、ロマナはそれを笑って聞き流した。そして、また折り返すからと受話器を一旦置いて、父と母に相談に行った。話をすると両親と祖母はとても驚いていたが、それでも二つ返事で協力すると言ってくれた。
ロマナはすぐに電話をかけ直して、そのことを伝えた。お金は取るが、それでも通常の卸値の半額以下の価格であることも伝えた。代わりに完成した入浴剤のあまりを持ってこさるようにと約束させると、ニーナはついでに新作のポーションも送ってくれるという。激辛から改良されたそうだが、楽しみなような、怖くもあるような。
──まあ、妹が頑張った成果を送ってくれるというのなら、ここは楽しみに待つべきよね。
受話器を置いたロマナの表情からは自然と笑みがこぼれていた。
◆
その同時刻、ニーナとロマナが会話に華を咲かせ、シャンテが新たなラベル作りを依頼するために<ココ・カラー>へと急ぎ向かったころ、とある三人組の男たちは鬱蒼と木々が覆う森のなかの、これといって変わったところのない樹木の前に立っていた。
男たちは名をそれぞれオド、バッカス、ジェイコブという。バッカスは巨漢で、丸顔。最近は抜け毛に悩んでいる。ジェイコブは小柄で、特徴的な鷲鼻を持つ。あと手先が地味に起用だ。オドは三人のなかではまだまともな外見をしているが、久しく散髪をしていないため、髪の毛がぼさぼさに伸びきっていた。
三人はいずれも年齢は三十代半ばの冒険者崩れだ。腕っぷしには自信があったが、冒険中にへまをしてしまい借金まみれとなった。それ以来酒に溺れて、ろくな生活を送っていない。三人は薄汚いぼろ布を纏い、肌は浅黒く、何日も風呂に入っていないがために近づくだけで顔をしかめてしまうような異臭を放っていた。
月の光すら届かない様な真っ暗な森のなか。オドの目の前にそびえたつ樹木は秘密の入り口。魔女が住まう隠れ家とつながる、誰も知らない秘密の通路である。
当然、ここを通れるのは選ばれしものだけなのだが。
「魔女様の好物はブタの丸焼き!」
オドは秘密の合言葉を唱えた。すると目の前の空間がゆらぎ、次の瞬間にはぽっかりとあいた空洞が目の前に出現していた。何度見てもおかしな現象に、オドは口をへの字に曲げる。
樹木の内部に表れた空洞は、地下へとつながる<穴>であり、不気味なほど真っ暗だ。先なんて少しも見通せないばかりか、見ていると心が不安定になりそうな黒色である。すべてを呑み込んでしまいそうな、そんな気さえしてくる。本当に地下へと通じているのかもよくわからない。ここから落ちたら次こそは陽の光を見ることはできないかもしれない。
「……そんじゃまあ、行くか」
──どうせ、大した人生を生きているわけじゃないしな。
独り言とも、後ろの二人に話しかけたとも取れるような曖昧な言葉を残して、オドはその真っ暗闇に身を投げ出した。
その穴はどこまでも続いているように思えた。なにも見えない。なにも感じない。落ちているのか、ただ宙を漂っているのか、それすらもわからない。それは永遠とも感じられたが、実際には数秒にも満たないのだろう。気付いたら地面を踏みしめていた。振り返るとバッカスとジェイコブも間の抜けた表情で突っ立ており、見上げると、やはり先を少しも見通せない真っ黒な空洞が口を開けていた。
視線を前に戻す。木製の半円状の扉に、その上には温かみのあるランプが取り付けられてある。ここが魔女様の家の玄関口だ。
ノックしようと近づくと、触れてもいないのに扉が開いた。なかへはいれということだろう。初めて訪れたときは随分と戸惑ったものだが、かれこれ三度目ともなるとさすがに慣れていたので、オドは招かれるままに家のなかへと足を踏み入れた。
魔女の家はお世辞にも広いとは言えない。天井も低い。照明は赤みがかっていて、空間の余白を埋めるように草花が咲き誇っている。花といっても優しい印象とは程遠く、赤や紫など、そのどれもが毒々しい派手な色をしていた。陽の光など当たらないはずなのによく育つものだなと不思議に思うが、ここは魔女の家なのだから疑問に感じてはいけないのだろう。
そこは寝室のようで、入って正面に大きなベッドが置かれている。魔女は、そのベッドに無防備な姿で腰掛けていた。足元には白くて毛の長い猫が。気品あふれる猫はオドたちを見ても退屈そうにしている。いかにも<良いもの>を食べさせてもらっていそうに見えるが、しかし見た目とは裏腹に残忍で、ネズミを追い回して喰らっている姿をオドは目にしたことがあった。
「よく来たわね。それで、お店の様子はどうだった?」
美しい黒髪をなびかせる魔女が妖艶なる微笑みを浮かべて訊ねてくる。
その姿を一目見て、オドはごくりと喉を鳴らした。
魔女はつい先ほどまで湯あみでもしていたのか、その真っ黒な髪は濡れていた。ざっくりと胸元の空いた薄紫色のネグリジェ。白い肌に、玉のような水滴がまだ残っている。すらりとした白い太ももの先はネグリジェの裾で隠れてしまっているが、かなり際どいところまで見えてしまっている。下着は身につけているのだろうか? つけているとしたら、その色は? 赤と金の左右異なる瞳の色に魅入られて、オドは呆然と立ち尽くしていた。
──ああ、そうだ。俺は危険だとわかっていても、利用されているとわかっていても魔女様に会いたかったのだ。彼女に会えるのなら、二度と太陽の下で暮らせなくてもいい。そう思わせるだけの魅力が彼女にはある。俺はこの高慢勝気な女を滅茶苦茶にしてやりたいと願う一方で、クズみたいな自分を罵って欲しいとも思っている。触れたい。その白い柔肌に触れてみたい。欲情を掻き立てられ、利用され、最後にはぼろ雑巾のように捨てられるのだろう。
でも、それでかまわない。どうせクズみたいな人生だ。ならば酒に溺れるように、いまはなにも考えずにこの危険な香りに身を任せてしまおうと思うのだ。




