パンギャの実とケポポホッパ
うわぁ、とニーナは思わず苦い顔になる。
遥か頭上、木に登ることができないニーナに代わって果実を採りに行ってくれたシャンテの顔面に、熟れたパンギャの実がぶつけられた。どろりと果肉がはみ出し、白いクリームのようなドロッとした液体がシャンテの凛々しい顔を汚す。身に降り注いだ突然の出来事に思考が固まったのか、シャンテはその動きを止めてしまった。
ややあって、悲劇を確かめるように付着した果肉をゆっくりと指でなぞり、一言。
「……なにこれ。臭い」
これまでに聞いたことがないような低い声に、ニーナは自分が怒られたわけでもないのに竦み上がる。
静かに怒りをあらわにするシャンテの目の前では、サルに似た生き物が尻尾を器用に使って逆さ向きにぶら下がり、能天気に手を叩いていた。その行為はシャンテをからかうような仕草にしか見えなかった。
「アンタ、よくもやってくれたわねぇ……!」
汚れを拭い落しながら、眼前の生物をこれでもかと睨む。しかしサルに似た生き物は、ホッ、ホッ、と独特な鳴き声を発しながら笑っている。しかもどうやらこの生き物は一匹ではないようで、揺れる木の葉の音に混じって周囲の至る所から聞こえてくる。
──たしかあの生き物はケポポホッパだっけ。
マヒュルテの森にのみ生息するサルの仲間で、黒くてまん丸の目に、蛸のように突き出た口元、そして顔は仮面でも被っているかのように赤い。ふさふさとした体毛はくすんだ白色で、小柄ながらも尻尾は体長と同じぐらい長い。そんな尻尾をうまく活用しながら、大半の時間を木の上で過ごすのだと、以前読んだ<ハンターズブック>という名の森の生き物図鑑に書かれてあった。
「なになに。これなにごと?」
上を向くなと命じられているロブが状況を訊ねてくる。
「えっと、シャンテちゃんが<パンギャの実>を採りにいこうとしたらサルに似た生き物が立ちはだかってきて、それでどういうわけか<パンギャの実>を投げつけられました」
「えっ、なに、それじゃあ臭いと評判の果実をぶつけられたってこと?」
「はい……」
それも顔面に、である。
「あっ……!」
ニーナが見上げる目の前で、シャンテが跳んだ。枝の上でぐぐっと体を縮めて、さながら猫のように跳びかかったのである。
しかし相手の動きも早かった。尻尾の力は相当強いのか、手を使わずにさっと体を引き上げて躱したのだ。捕まえ損ねたシャンテは振り返って悔しそうな表情を浮かべている。
そこへさらに周囲に潜んでいたケポポホッパたちが、シャンテ目掛けて一斉に<パンギャの実>を投げつけた。これにはたまらず、シャンテは地上へと避難するが、そこへ追い打ちとばかりに空から黄色い果実が雨あられと降り注ぐ。
「シャンテちゃん!」
──べちゃっ!
駆け寄ろうとした、そのとき。ごつん、とニーナは後頭部に衝撃を受ける。続いてすぐ側から異臭が。不快感極まりない臭いが鼻につき、ニーナは恐る恐る手を後ろへとやった。
「うへぇ、最悪だ……」
べとつく感触が手に触れてしまった。匂いを嗅いでみると、それはもう臭いのなんの。思わず顔をしかめていると、そこへさらに足元に<パンギャの実>が落ちてきて、ニーナの靴まで汚してしまった。
このままでは悲惨なことになりそうだと、ニーナはロブを頼ろうとするけれど。
「あれ、ロ、ロブさん!?」
──な、なんでひっくり返ってるんですか?
すぐ側にいたはずのロブが、ぽてんと、横になって目を回しているのである。しかもよく見ると鼻の周りに白くねばつく液体が付着していた。
──もしかして、鼻が利きすぎてダウンしちゃった!?
ブタの嗅覚は地中に埋まる<トトリフ>を探し当てられるほど敏感だけれど、今回はそれが仇となったのかもしれない。でもまさか、頼りにしていたロブにこんな弱点があったなんて思いもしなかった。
「こうなったら……こうだっ!」
嘆いていても仕方がない。
ニーナはポシェットから<拡縮自在の魔法瓶>を取り出すと、それを頭の上へ。投げつけられる<パンギャの実>を直接採取してしまおうと考えたのだ。
「ほらほら、こっち。よく狙って!」
大きな素材でも収納できるように、瓶はある程度まで大きくできる。同時に瓶の口元に素材を持っていくと吸い込み、小さくして収納することもできる。これらの特性を活用して<パンギャの実>をどんどん吸い込みながら採取していく。
そんなニーナの考えも知らず、ケポポホッパたちは<パンギャの実>をもぎっては投げ、もぎっては投げ。そのすべてをうまくは拾えないけれど、頭や顔を守りながら採取できるこの作戦は、まさに一石二鳥だった。シャンテもすぐにニーナを真似て、大きくした魔法瓶を頭の上にかざす。
すると、初めのうちは面白がって果実を投げつけてきたケポポホッパたちも、次第にニーナたちが嫌がっていないことに気付いたらしく、今度はわざわざ木から降りて、そして横から投げつけてきた。しかも何匹かは近寄ってきて、尻尾で攻撃するそぶりまで見せるではないか。
「うひゃぁ! もう怒ったよっ!」
胸元をべっとりと汚されたニーナは瓶を小さくすると<七曲がりサンダーワンド>に持ち替え、全方位に向けてデタラメに雷撃を飛ばした。どうせよく狙っても当たらないので、それなら矢継ぎ早に攻撃を繰り出そうと考えたのだ。これにはケポポホッパたちも慌てふためき、地上へと降りてきていたものは急いで木の上に逃げ込もうとする。
「逃がすかっ!」
そこへシャンテが槍を手に跳びあがる。そしてするすると木を登っていくケポポホッパの長く伸びる尻尾の先端を斬り落とした。穂先には炎を灯しており、尻尾が燃えたケポポホッパは奇声を上げながら木から落下。そのままじたばたしてなんとか尻尾の火を消したあと、なりふり構わず走って逃げていった。他のケポポホッパたちも同様に逃げ出したようである。
「ふんっ。これに懲りたら二度とアタシたちに歯向かわないことね」
遠ざかっていくケポポホッパの背中を見ながらシャンテはそう言った。最後に仕返しができて満足そうである。
──ガサガサ!
みんな逃げ出したと思って油断していたニーナたちは、すぐ側の茂みの揺れる音に対し反射的に身構えた。
ところが、ひょっこりと顔を出したのは、なんだか見覚えのある男の子である。
「あっ! お前たちの仕業だったのか! というかクサっ!」
その少年はニーナたちを見るなり、手で鼻を押さえた。
そしてすぐ後ろからもう一人、別の男が姿を現す。
「あ、アルベル! どうしてここに?」
「お前たちが悪いんだぞ!」
ニーナの疑問に、兄に代わって弟のレックスが答える。
「やけに騒がしいなと思ったら、こっちにまで雷玉が飛んできたんだ。しかも二回も!」
あちゃあ……
心当たりがあり過ぎて、思わず顔を引きつらせてしまう。
「あの、大丈夫でしたか? 当たったりしませんでしたか?」
「なんともない。不意にやってきて、かと思えば目の前で曲がってどこかへ飛んでいったからな」
アルベルの言葉に皮肉めいたものを感じるのは、恐らく気のせいではないのだろう。けれど今回は全面的にこちらが悪いのでなにも言えず、ただ迷惑をかけなかったことに安堵するしかなかった。
「で、君たちはそんな恰好でなにをしてたんだ?」
呆れたような目を向けられながら、ニーナは簡単に事情を説明する。<青空マーケット>に出品する新商品開発に取り組むため<パンギャの実>を求めたこと。そのためにシャンテが木に登って果実をもぎ取ろうとしたこと。ところがケポポホッパたちが邪魔をしてきたので追い払おうとしたこと。その際に<パンギャの実>をたくさんぶつけられたこと。
「なるほど、それでこの惨状か」
アルベルは話に耳を傾けながら、終始しかめ面だった。といっても話の内容が気に入らないのではなく、単純にこの場に立ち込める匂いに険しい表情をしているのだろう。
「しかし、この期に及んでまだ商品開発をしてるのか。イベントまでもう一週間もないと理解してるのか?」
「もちろんわかってるよ! でもぎりぎりまで改良して、良い商品を作りたいじゃんか」
「だとしても錬成素材に<パンギャの実>を選ぶとか正気か? なにを作ろうとこの不快な臭いがつきまとうぞ?」
「そんなの試してみなくちゃわかんないよ」
二人はそのまま睨み合った。アルベルはまだなにか言いたそうに見えるが、けれどなにを言っても無駄だと思っているのか、口元を一文字に結んだまま、冷ややかな目でニーナのことを見る。
やがてアルベルは振り返って、もう行くぞと弟に向けて言った。
そして後ろを向いたまま、僕たちはこれから素材を求めてウルドの滝に行こうと思う、と独り言のようにそう言った。
けれど独り言にしては大きな声だ。まるでなにか伝えたいことでもあるかのよう。
ただその意味が分からず、ニーナは首を傾げることしかできなかった。レックスも不思議に思ったようで、ぽかんと口を開けて兄の表情を窺っている。
「滝にでも打たれれば、その汚れた身も心も清められるんじゃないか」
──あっ、それって……
「もしかして連れていってくれるの?」
アルベルはニーナたちが森に不慣れだということに気付いていて、水辺まで案内しようとしてくれているのだろうか。だとしたらとても有難いことだけれど。
「……ついてきたければ勝手にしろ。ただしあんまり僕たちに近づきすぎるな」
アルベルはそう言って茂みの奥へと歩き出す。あくまで親切にするつもりは無いとでも言いたげだけれど、それでも水辺まで案内してくれるというなら助かる。この異臭がする服を着たまま家まで帰らないといけない事を思うと不快だし、森を抜けるには必ずギルド会館を通らなくてはいけないので、どうしても周りの目が気になって恥ずかしい想いをするところだった。
「意地を張っても仕方ないし、案内してもらおうか」
「そうね、ニーナがいいならアタシは賛成」
そうしてニーナたちはロブを抱え、草木をかきわけながらアルベルのあとを追うことにした。




