胸に秘めたる変身願望
もう朝だよ、と体を揺らされて、シャンテは重いまぶたを擦った。シャンテは昔から早起きが苦手だったが、それでも日ごろから規則正しい生活を心がけており、寝坊することは滅多になかった。ニーナと一緒に暮らすようになってからも、声をかけられることはあれど、こうして両手を使ってまで起こされたことはない。今日は随分と寝過ごしてしまったみたいだ、とシャンテはそんなことを考えながら薄っすらと目を開ける。
「……誰?」
目の前に知らない人がいた。
その人は二段ベッドの二階部分で眠るシャンテの上に、馬乗りのような姿勢になって瞳を覗き込んでいた。垂れるココア色の髪。くりりとした琥珀色の瞳。聞きなれた声。けれど髪はシャンテがよく知る同居人よりも随分と長く、顔つきからはあどけなさが消えている。そして何より、目の前にどんと突き出された豊満な胸の、二つの丘が演出する谷間が、彼女がニーナではないことを物語っていた。
「誰?」
シャンテはもう一度訊ねた。その人はにこっと笑う。どこかで見たことある、自信たっぷりな笑みと似ていた。
「私だよ。シャンテちゃんと同じ家に住んでて、同じ部屋で眠っているニーナだよ」
「アタシにニーナという友達はいても、そんな胸の大きなニーナは知りません」
シャンテはそう言って頭から布団をかぶりなおす。
これは夢。だったらもう一度眠ってしまう。
「あっ、待ってシャンテちゃん」
がばっと、布団が強引にめくられた。シャンテは露骨に嫌そうな表情を見せるが、馬乗りになっている少女は気にも留めない。この良くも悪くも他人を巻き込んでいくマイペースな少女は、間違いなくシャンテがよく知る人物だった。
これが夢でないというのなら、答えは一つだ。
「ついに完成させたんだ」
「うんっ!」
にんまりと、ニーナは笑う。けれど、いつもと違った大人びた顔つきに、強調された胸の谷間が妙に色っぽく感じられて、距離もすごく近くて、相手がニーナだというのにどきりとしてしまう。
「あれ、シャンテちゃん、顔が赤いよ?」
「うっさい」
「あっ、そうだ」
シャンテの言葉を適当に聞き流しながら、ニーナはポケットをまさぐる。
「はい、これ、シャンテちゃんの分」
「は?」
目の前、というより口元に差し出されたそれは一欠片のチョコレートだった。訊ねるまでもなく、これこそが完成した<大人顔負けグラマラスチョコレート>なのだろう。ただシャンテは、ニーナの前で変身願望を語ったことなどないし、実際、なりたい姿など特にない。
「いや、アタシはいらないんだけど」
「まあまあ、そう言わずに。もう一度ロゼッタさんに失敗作を渡すわけにもいかないし、かといって他の人にお願いするわけにもいかないし。せめてもう一人ぐらいは試してみて欲しいんだよね」
もっともらしいことを口にしながら、ニーナがチョコレートを近づけてくる。欠片の端っこでつんつんと唇をつっつき、かと思えば、今度は上唇と下唇を押しのけて無理やり食べさせようとする。体勢が不十分ということもあって逃げ場もなく、ついにシャンテはそれを口に含んでしまった。
「理想の姿を思い描きながら、じっくりと味わって食べてね」
「別に理想なんて……」
口答えしつつも、シャンテは無理やり入れられた甘味菓子を味わう。悔しいけれど、甘くて美味しい。ほんのりとメロンの味がした。
喉がコクリと動く。食べたわよ、とシャンテは素っ気なく言った。無視したいわけじゃないけれど、これ以上ニーナのペースで事が進むのは癪だった。
「というか、いつまで馬乗りになってるつもり? 早くどきなさいよ」
「あぁ、ごめんごめん」
ニーナはそう言って離れるものの、でもおかしいなぁ、と首を捻る。
「このチョコレートは即効性のある発明品のはずなんだけど、シャンテちゃんは変わらないね」
「そう? 効き目が表れるまでには個人差があるんじゃないの?」
「うーん、そうなのかなぁ」
訝しみながらも、ニーナがはしごを使って降りていく。シャンテも布団から抜け出して、ベッドから降りた。そして大きく伸びをする。
すると、あれ、とニーナが琥珀色の目を細めた。
「もしかしてだけどシャンテちゃん、少しだけ身長伸ばした?」
──ぎくり。
「そ、そんなことないわよ?」
「でも私、お姉ちゃんと変わらないぐらいの身長を願ったから、いまはシャンテちゃんより背が高くないとおかしいのに、あんまり変わらないように思うんだけど」
「それは……気のせいじゃないかな」
「それに胸もちょっとだけ大きくしたよね? ふふっ、やっぱり小柄な体型を気にしてたんだ。うんうん、わかるよその気持ち。私もお姉ちゃんみたいに色々と大きくなりたかったし。でも背伸びする程度にほんの少しだけ理想に近づけるなんて、シャンテちゃんらしくてかわいいな」
「……うっさいわねぇ」
なんでこうもすぐにバレるのよ。
シャンテはもともと自分の容姿に不満はない。けれどやはり、背の高い女性や胸の大きな女性にはちょっぴり憧れを抱いていた。ないものねだりをしているみたいで、願望はいつも胸の内に秘めているけれども、でももし魔法のチョコレートが願いをかなえてくれるというのなら、気分だけでも味わってみたかったのだ。
そんな自分の子供っぽい一面をニーナに見透かされたようで、シャンテはここ最近感じたことがないほど顔が熱くなるのがわかって恥ずかしかった。
◆
朝食を食べ終わったニーナは、散らかしたままだった調合道具を片付けて、ロゼッタに依頼品が完成したことを<魔法文>で報告して、それから寝室に戻ってひと眠りした。昨日は徹夜。舞踏会は明日の夕方から日付が変わるころまで開かれるそうだから、約束の期日まで時間が残されていなかった。昨夜は多少なりとも焦っていたこともあり、夜通しで調合に取り掛かっていたのだ。完成に漕ぎつけたいまとなっては、疲れがどっと押し寄せてきて、ついでに睡魔も襲ってきて、とても目を開けていられなかった。
昼過ぎにシャンテに起こされて、寝ぼけまなこのまま昼食を食べて、そういえば体が元に戻っているなと思いながらスプーンを口に運んで。シャンテに訊ねると、効果時間は四時間弱だったそうな。
食器洗いを引き受けて、スポンジを使ってゴシゴシと。しっかり水で泡を落として、乾いたタオルで水気をふき取る。こうして体を動かすことで、ようやく頭もクリアになってきた。さて、お昼からはいよいよ<青空マーケット>の出店準備に本格的に取り掛かろうか。そんなことを思っていると、玄関の扉を叩く音が聞こえた。はーい、と返事してシャンテがドアに手をかける。
「あっ、こんにちはロゼッタさん」
さっと手を拭いて、それから棚の上の小瓶をもってロゼッタに駆け寄る。右手には箒を。足元ではシャルトスが不満げな顔してこちらを見上げていた。
「お待たせしてすみませんでした。こちらの瓶に完成品が詰まっています。どうぞ!」
「そう。やっぱり中身はチョコレートなのかしら?」
「はい。ですが、今回は既に私とシャンテちゃんとで実験済みですからご安心を!」
不安がるロゼッタの前で、ニーナは自信ありげに胸を張る。
「一応使い方の説明をさせていただきますね。今回の調合品は<大人顔負けグラマラスチョコレート>といって、理想の自分になれるお菓子です。あくまでも自分の体をもとにするので、他人に変身するような使い方はできません。効果時間は少なくとも三時間。事前に手紙でもお伝えした通り、残念ながら舞踏会が開かれている間ずっと変身できるようなものには仕上がりませんでした」
「いえ、三時間もあればグローメルさんとも十分にお話ができますわ。それに途中から参加した方が人目を惹くこともできるでしょう」
たしかにロゼッタほどの美貌があれば、途中から会場に足を運んでも埋もれるどころか、かえって目立つのかもしれない。効果時間の短さも、特別感を演出してグローメルの気を惹くことができたなら、決して欠点にはならないだろう。
「それと、これはチョコレートといえど体を急激に変化させる劇薬の様なものなので、一日一個までという用量を必ず守ってください」
「心得ましたわ。報酬は明日にでもまた使いの者に持たせます」
「いえいえ、お金は舞踏会が成功に終わったあとで構いません」
ニーナは胸の前に小さく両手を上げて、首を横に振る。
「いいえ、成功するか否かにかかわらず、あなたはお金を受け取る権利がありますわ」
「そう……でしょうか」
「ええ。ただもう一つ、別にお願いしたいことがあるのですが、構いませんこと?」
「もしかして新しい依頼ですか?」
「そうね、依頼とは少し違うのだけれど……」
そう言ってロゼッタは気まずそうに目を逸らした。なにか頼みにくいことでもあるのだろうか。もし仮にそうだとして、けれど頼ってもらるというのなら、どんな望みでも叶えてあげたい。そうニーナは思った。
「あの、私なんでもやりますよ」
「……そう? それでは頼もうかしら。明日、シャルトスと一緒に舞踏会の様子を近くで見守ってくれませんこと?」
えっ?
ロゼッタからの新たな依頼は、それはそれは意外なものだった。




