街を駆ける
ロゼッタから依頼を受けた翌日、素材屋へと向かうニーナはそわそわと、両手でポシェットを大事そうに抱え込んで歩いていた。腕のなかの小さなかばんには前金として受け取った大金が。誤って落としてしまわないようにと、いつになく慎重になっていた。いつものリュックではなくポシェットを選んだのも、肌身離さず抱きしめておきたかったからである。
そんなニーナの隣を歩くシャンテは呆れ顔。もっと堂々としなさいよと言う。
「そんなにおどおどとしてたら逆に怪しいわよ。不審者と間違われても知らないからね」
「そんなこと言われたって……」
受け取った金額は25万ベリル。さすがに全額を持ち歩く勇気はないので、そのうちの10万ベリルをもって素材屋に向かう途中だった。これほどの大金を手にするのは旅立つ時以来であるが、いまだに報酬を受け取ってよかったのかと後ろめたい気持ちがあったニーナは、なんだかお金を抱えているだけでいけないことをしている気分になってしまう。まだ何も成し遂げていないのに。そんな気持ちが強かった。
交差点を左に曲がる。周囲にはオレンジ屋根の民家が建ち並んでいる。ニーナたちが選んで歩く道幅は広く雰囲気も明るいが、脇道も多く、この辺りは入り組んだ迷路のような地形となっている。好奇心旺盛なニーナは普段ならそうした入り組んだ道を好んで歩くのだが、今日に限っては程よく人目のある大通りを選んでいた。
ニーナはポシェットのなかを覗き込む。<小言うるさいガマ口財布>と目が合った。大金をくわえこんでにんまりと満足げに笑っている。もうすぐ中身がごっそり減ることも知らずに呑気なものだなと、そんな事を思いながらニーナも微笑みを返した。こうして数分おきに財布が無事かどうかを確かめないと落ち着かないのだが、隣ではシャンテが、確認の度に小さくため息をついていた。
それにしてもニーナって意外と心配性なんだな、とロブがのんびりとした口調で言う。
「この街に来たときにも家族からもらったお金がたっぷり入ってたのに、そんなに警戒してたっけ?」
「あの時はほら、家族からもらったとはいえ自分のお金だったけど、このお金はロゼッタさんから預かってるようなものだし。それに街には意外なところに悪い大人が潜んでいるかもしれないと思うと、どうしても心配になっちゃって」
「あー、たしかに。ムスペルみたいな奴がいるかもしれないもんな」
紳士を装い、いかにも無害そうな顔して近づいてきた老人のことをニーナは忘れてはいない。夢みる若者を利用しようと企む大人は、予想だにしないところに落とし穴を掘って待ち伏せしているかもしれない。だからこそニーナは用心するに越したことはないと思っていた。
──どんっ。
「うわっ!?」
それはちょうど次の交差点に差し掛かろうかというとき。曲がり角の向こうからやってきた一人の少年がニーナとぶつかったのである。あまりに突然のことで倒れそうになるが、ニーナはこれをなんとか踏ん張った。
「おっとっと。……えっと、きみ、大丈夫?」
ニーナよりも小柄だから、きっと随分と年下なのだろう。そう思ってニーナは優しく声をかけた。
しかし少年は急いでいたのか、ぺこりと頭を下げると、そのまま走り去ってしまう。フードを深く被っていたので顔もよく見えなかった。かろうじて目元を隠す灰色の髪の毛が瞳に映っただけだ。少年だと判断したのも服装を見てそう思っただけで、もしかしたら女の子だったのかもしれない。
──去り際にくぐもった変な声が聞こえたような気がするけど、たぶん気のせいだよね。
そんなことを考えながら、ニーナは遠ざかっていく背中をぼんやりと眺めていたのだが。
「ニーナ、財布は!?」
隣で短く息を呑んだかと思えば、シャンテが慌てた様子で訊ねてきた。もちろん財布はポシェットのなかにあるはずだ。そう思いながらも、ニーナも嫌な予感を感じてなかを覗き込む。
「えっ、うそ……?」
「アイツだ!」
すべてを言い終わらぬうちに事態を把握したシャンテは、身をかがめるように低い姿勢を取ると、強く地面を蹴り、放たれた矢のように一気に加速した。目標はさきほどのフードを深く被った少年。財布を盗んだのは間違いなくアイツだと、シャンテは<ハネウマブーツ>を駆る。遅れてニーナとロブも走って追いかける。
「待てぇ!」
一陣の風の如くシャンテは大通りを疾走する。人通りはまばらだが、それでも他人を巻き込まないように気を配らなくてはならない。
とはいえ<ハネウマブーツ>があれば楽々追いつけると思っていた。
ところが振り返った少年は、急接近するシャンテを見ても慌てることなく路地裏へと消えた。シャンテもすぐさま角を曲がって追いかけるが、再び少年の背中を視界に捉えたときには、もう次の角を曲がるところだった。もちろんシャンテも諦めずに追うが、いくら追い掛け回しても距離は一向に縮まらない。なんだかからかわれているようで、シャンテは次第に苛立ち始める。
こうなったらと、シャンテは高々と垂直に飛んで屋根の上へ。そして遮るものがなにもない空の道を行き、ついには先回りに成功する。ちょうど少年は後ろを振り返り安どのため息をついていたが、その瞬間をシャンテは逃さない。
「捕まえた!」
空から降り立ち、着地と同時に少年を押し倒すつもりで両腕を腰に回した。完璧なタックルだったはずだ。
ところが、気付いたときには腕のなかに少年はいない。たしかに捕らえた感触はあったのに、するりと、いとも簡単に抜けられ、あれっと思ったときには後ろを走っていた。シャンテも慌てて追いかけようとするが、少年は家の塀を走って飛び越えてしまう。なんて身軽な奴だ。まるで猫みたいだ。そう思いながら、シャンテも塀の上に飛び乗るが──
「あれ、いない……?」
塀の上から見渡したときには、もう少年の姿はどこにもない。正面の門から出ていったのか、それとも家の裏手に回ったのか。あるいはその辺の茂みにでも潜んでいるのか。シャンテは再び家の屋根に跳び移って、周囲をくまなく探してみるけれど。
──ダメだ。完全に見失った。
おーい、と下から声が聞こえた。ニーナが息を切らしながらもロブと共に追い付いてきていたのだ。両膝に手をついて、はぁはぁと辛そうに呼吸を荒げている。シャンテは屋根から飛び降りると、どうだった、と視線を向けるニーナに申し訳なさそうに首を横に振った。
「そんな……どうしよう……」
ニーナとシャンテは二人して途方に暮れてしまう。ニーナのお金は同じ家で暮らすシャンテのお金でもある。そうでなくとも、目の前で犯人を取り逃がしてしまったシャンテの表情は暗い。ニーナもあれだけ警戒していたのに、まんまとお金をかすめ取られた自分が憎かった。相手が少年の姿をしていたこともあって油断してしまったのだ。
そんな二人を尻目に、ロブはクンクンと鼻を引くつかせる。
「なあ、シャンテ。もしかしてあいつはこの塀をよじ登って向こうに行ったのか?」
「そうだけど……」
「そっか。それじゃあ俺が追うから、ここでちょっとばかし待ってて」
そうか、ロブの嗅覚ならいまからでも少年を追えるかもしれない。待って、アタシも行く、とシャンテはロブと一緒に行こうとした。取り逃したミスを挽回したかったのだ。
ところがロブは珍しく、今回は俺一人でいいよ、と軽い口調で言った。いつもなら面倒ごとを嫌うロブが、である。
「ニーナも一人だと心細いだろうから側にいてやってよ。そんじゃあ」
任せとけとばかりにロブはにっと笑ってみせると、ブタの体に似合わず軽やかにジャンプした。それでも塀は高く、前足がかろうじて届いただけだったが、後ろ脚をバタつかせながらもなんとかそれをよじ登り、そのまま壁の向こう側へと消える。
「ロブさん……」
「まぁ……兄さんに任せれば大丈夫でしょ」
そう言いつつもシャンテの表情には雲がかかったまま。ニーナもこのまま見つからなかったらどうしようかと気が気でなく、おのずと二人に間に重苦しい沈黙が落ちる。
壁に寄り掛かるシャンテ。
軽くなったポーチを不安そうに抱えるニーナ。
二人は一言もしゃべらなかった。慰め合ったところで何にもならないと分かっていた。ただそれでも、ロブが気遣ってくれた通り一人で待っているよりかは気が楽だった。
そうして待つこと数分。おーい、と頭上から声が聞こえた。二人は同時に顔を上げる。
「ロブさん!」
少年を探しに行ったときと同じように、前足を塀に引っ掛ける形でロブがひょっこりと顔を出す。しかもその口には奪われた<小言うるさいガマ口財布>がくわえられていた。取り返してきてくれたロブに、ニーナはありがとうございますと心から感謝を告げる。
「これがなかったら錬成に取り掛かれないばかりか、ロゼッタさんに顔向けできないところでした。本当にありがとうございますっ!」
「いやいや、いいってことよ」
これぐらいお安い御用さ、とばかりにロブはにっと笑う。
「それにしてもよく捕まえられたわね。犯人は?」
「あー、相手には逃げられちまった」
「そっか。でもお金だけでも取り返せてよかったわ」
シャンテもほっとしたのか、これ以上は追及しない。とにかく戻ってきてよかったわと白い歯を見せる。ニーナも良かったねと、手のなかのガマ口財布に安堵の笑みを向けた。簡単に奪われ過ぎだぞ、というガマ口財布の小言もいまなら笑って受け流せる。
──いまにして思えば、あのとき聞こえたくぐもった声はガマちゃんの声だったんだろうね。でも、私から財布を奪ったあの少年は誰なんだろう。気になるなぁ。
後ろ髪を引かれながらも、ニーナは気を取り直して素材屋へと足を向ける。途中、街を巡回していた騎士と出会ったので、一応とばかりに一部始終を説明して、あとのことは任せることにした。そうして遠回りになりながらも、ニーナたちは木造りの扉を開けて素材屋バーニーへと入っていくのであった。




