お客さんが来ないのならば
ほっ、よっ、たぁっ!
よく晴れた日の昼下がり、今日もクノッフェンの空を見上げると、一人の少女が背中にミニブタを背負いながら、軽やかな足取りで屋根から屋根へと飛び移っていた。右手にはなにやらチラシが握られている様子。
オルドレイクが起こした騒動から二週間余り。
事件解決の立役者でもあるシャンテは、ニーナからプレゼントしてもらった<ハネウマブーツ>を使いこなせるようになるため、こうして晴れた日は毎日のように空を駆け巡っていた。本来なら人様の家の屋根を走るのは迷惑な話かもしれないが、いまやシャンテはこの街の有名人。笑顔で手を振られることはあっても、嫌そうな顔をされることはないので、堂々と街中を練習台として使わせてもらっていた。
そんなわけで、今日もシャンテは上り坂だらけの街を誰よりも速く駆けあがっていたのだけれど。
「うわっ、まずい!」
オレンジ色の屋根から屋根へ。低いところから高いところへと飛び移ろうとした。
ところで、落下地点に一匹の猫がいた。屋根の上なら誰もいないと油断していたシャンテは慌てて、どいてっ、と叫ぶ。猫はすんでのところで飛びのいてくれた。
「ふぅ、危なかった。驚かせてごめんね。……って、話しかけてもわかんないか」
猫は少し距離を置いた状態でシャンテのことをじっと見ている。ふさふさの毛で覆われた灰色の猫。威嚇する様子もなく、かといって怯えている様子もなく、ただシャンテのことを見つめている。
「兄さんと違って利口そうな猫ね」
「そうかぁ? なーんも考えてなさそうだけど」
「兄さんだって日ごろはご飯のことしか考えてないじゃない」
「おー、今日の昼めしも楽しみにしてるぜ」
まったく、皮肉も通用しない兄である。
ぶれないところが兄さんらしいけど、とシャンテは小さく微笑んだ。
「それじゃあ急いでるからもう行くね。バイバイ!」
シャンテは猫に手を振って、その場をあとにした。
◆
ただいま、という声がして、ニーナは顔を上げた。同居人であるシャンテとロブが帰ってきたのである。紙袋を抱えているので、どうやら買い出しに行っていたようだ。
そのシャンテが、ニーナの様子を見て目を丸くする。
「どうしたの? なんだか今日はやけにお疲れ気味じゃない」
椅子に座るニーナは、上半身をテーブルに預けるような格好でぐったりとしていた。ノースリーブのワンピースに、足元は裸足。いまはシャンテが帰ってきたので顔を上げているが、顎はテーブルにくっつけたままである。
「まあ、ここ数日は依頼品の制作で忙しかったみたいだし、疲労がたまっても無理ないか」
「うーん……いや、ね、疲れてるわけじゃないんだよ」
「それじゃあなに? お腹が空いて動けないとか?」
「違うよぉ。ロブさんと一緒にしないで」
「ふーん。それじゃあいまからお昼ご飯作ろうかと思ったけど、ニーナはいらない?」
「いる。お願いします」
シャンテはニーナの向かい側に荷物を下ろして、まずは買ってきた食材の整理から始める。ジャガイモなどの土ものは湿気や光を嫌うので、手ごろな箱に入れて、上から新聞紙で蓋をする。葉物野菜は湿らせた新聞紙にくるんで冷蔵庫へ。サラダに使う予定のレタスやきゅうり、それに大玉のトマトなども冷蔵庫で保存する。旅しているあいだは必ずしも自炊する暮らしが続いたわけではないが、ロブが呪われてしまってからの節約生活で、この辺りの知恵は自然と身についていた。
「で、ぐったりしてる理由はなんなのよ?」
「依頼が来ない」
「は?」
シャンテは若干の苛立ちをもって問い返す。
ニーナはたまに言葉を省略するから困る。
「だから、依頼されてた品物を全部納品しちゃったから暇なんだよ。私はもっとお仕事がしたいんだよ。もっと有名になって、忙しくて手が回らないぐらい錬金術に取り組みたいんだよ」
煩悩を包み隠そうとしないニーナに、なるほどね、とシャンテは半ば呆れ気味に笑う。
けれど、実にニーナらしい悩みだなと思って安心した。
「せっかく有名になったんだし、もっと依頼が来てくれてもいいと思うんだよね。シャンテちゃんだって毎日のように宣伝してくれてるのにさ」
「いや、別にアタシは靴の宣伝のために出歩いてるわけじゃないからね?」
えっ、そうなの、とニーナはきょとんとした顔を見せる。
シャンテはまたしても呆れながらも、そういうことならと、あるものを差し出す。
「はい、これ」
「うん、チラシ?」
「そっ。街に出かけたときたまたま見つけて持って帰ってきたの」
なになに、と体を起こして書かれている内容を眺め始める。
チラシの上には大きく「青空マーケット出店者大募集」とあるけれども。
ニーナは声に出して読み上げてみる。
「えっと……今年もやります。ミーミルストリートにて行われる大規模屋外イベント<青空マーケット>の開催が決定いたしました。つきましては、一緒に<青空マーケット>を盛り上げてくださる出店者の方々を募集します。自慢の逸品をもって、ぜひ奮ってご参加ください。鍛冶師や芸術家、料理人、そしてもちろん錬金術師の皆様方の申し込みをスタッフ一同心よりお待ちしております……って、これ!」
ニーナは声を弾ませる。つい先ほどまで覇気のなかった顔は、いまややる気に満ち満ちていた。
「もしかして私、自分のお店が開けるの!?」
「そうよ。ちょうど三週間後、二日間限定だけど、申し込めば誰でも参加できるみたい。クノッフェンは有名な錬金術師が多いから、とっても人気なイベントなんだって。遠方よりはるばる訪れる人も珍しくないんだとか」
「そっか。そうだよね。お客さんから依頼が来ないのなら、私からお客さんが集まるところに行けばいいんだ」
「そういうこと。しかも売り上げの良かった店舗には賞金と、さらには副賞までもらえるのよ!」
えっ、とニーナは今一度視線をチラシに向ける。
概要にあるのはこうだ。自作の創作品を販売する者は申込時に「調理部門」「装備品部門」「調合品部門」「ハンドメイド部門」の四つから一つを選びエントリーする(骨とう品や古着の販売など、自作品以外を出品する者もフリー枠で申し込むことは可能)。
それぞれの部門においてもっとも売り上げの良かった店舗には賞金として「10万ベリル」が、また各部門において上位三店舗には副賞が用意されており、見事調合品部門で入賞を果たせば、副賞として錬金素材である<一角獣のツノ>がもらえるとある。
ニーナはその副賞の欄に記された素材名を見て、目を見張った。
「あれ、たしか<一角獣のツノ>って……」
上目遣いで向かい側に座る同居人を窺うと、シャンテは口の端に笑みを浮かべる。
「そう。まさかのまさか。副賞として用意されているのは、兄さんの呪いを解く薬を作るための、六つの素材のうちの一つなのよ。しかも訊くところによれば、各部門で入賞を果たせばそれだけで一目置かれる存在となって、注目度もアップ。仕事の依頼もじゃんじゃん舞い込んでくるんだって。つまりニーナという錬金術師の名を売る絶好の機会でもあるの。これはもうエントリーするしかないと思わない?」
「すごい、すごいよ、シャンテちゃん!」
ニーナはチラシを握りしめたまま興奮気味に立ち上がる。頬はいつもより赤く、琥珀色の瞳は爛々と輝いていた。
「こんなチャンスを前にのんびりとなんかしてられないね! さっそく新商品の開発に取り掛からなくっちゃ!」
あぁ、忙しくなってきた!
お店を出すということは、それだけ並べる商品が必要だということ。いま手元にある商品のほとんどは、メイリィから没扱いを受けたものばかりだから、出店日までに新商品の開発は必須である。それにたくさん売ろうと思えば、その分だけあらかじめ商品を準備しておかなくてはならない。
とにもかくにも、まずは新しいレシピを考えなくっちゃ。
ニーナはレシピ帳を取りに二階に駆けあがろうとした。ところがそのとき、誰かが玄関の扉をノックする。もしかしてお客さんだろうか。ニーナは足の向く先を変えて、急いで玄関に駆け寄った。
「はーい、ただいまー……って、うわぁ……!」
扉を開けたニーナは、つい失礼な声を上げてしまう。
なんとドアの向こう側にいたのは、それはもうたくましい体つきの太った女性だった。
服装はとにかく派手な赤いドレスで、露出は多いのだが、正直この体型で肌見せするのは逆効果な気がする。唇はふっくらとしていて、赤いリップの主張が激しい。魅惑の唇といえばアデリーナを想像するけれど、目の前の女性は紅蓮の騎士とは似ても似つかなかった。ゆるくウェーブがかかったブロンドヘアーもなんだかくすんで見える。
そんな女性を目の前にして、言葉を失ったまま立ち尽くすニーナ。
そこへ、開いた扉からするりと、一匹の猫が家のなかに入ってきた。灰色の毛並みが美しい猫ちゃんである。
「あっ、その猫」
後ろからシャンテがひょっこりと顔を出す。なにやら猫に見覚えがある様子だ。
「もしかしてこの人はシャンテちゃんの知り合い?」
「いや、アタシが知ってるのはこの猫だけだよ。ついさっき出会ったというか」
「──踏まれそうになったんだよ」
うわっ、猫が喋った!?
ニーナとシャンテは驚き、目を丸くするのであった。




