リトリアの花
次の瞬間、ゲパルたちはロブに背を向けて一斉に逃げ出した。まるで蜘蛛の子を散らすように、なりふり構わず、一目散に。
しかし、それを許すロブではない。逃げ道を塞ぐように、ロブは悪魔ガレハドを召喚する。あの呪いの指輪に封じられていた、黒い雄牛の姿をした人口悪魔である。元々は指輪の製作者であるリオンの手によって生み出された存在なのだが、どういうわけかロブも呼び出せるらしい。
あるいは、これはロブが作り出した幻覚なのかもしれない。
しかしそんなことを知る由もないゲパルたちは怯え、一か所に固まって身を寄せ合う。シャンテより二回り以上大きいであろう巨体も、いまは小さく見えた。
「さて、俺に歯向かう気概の在る奴はいないのか? いたら一歩前に進み出ろ」
ロブはそう言って凄んでみせる。ゲパルたちは首を横に振るだけで、誰も前に出ようとはしなかった。その後ろではガレハドが手のひらの上に灼熱の火球を作り出している。じりじりと肌を焦がす熱波。周囲の温度が瞬く間に上昇する。口の中の水分も一気に奪われた。ガレハドはただの幻覚に過ぎないと思っていたが、もしかして本物なのだろうか。
「誰も来ないのか? 拍子抜けだな。ならば、まずは見せしめとして誰かにここで死んでもらおうか。案内役は一人でじゅうぶんだからな」
「タ、タスケテ! コロサナイデ!」
「これはまたおかしなことを言う。お前たちは目の前で襲われていたであろう俺の仲間を助けたのか? むしろ襲われるのを見て楽しんでいたんじゃないのか?」
ソレハ、とゲパルたちは口ごもる。
そんななか、一匹のゲパルが低姿勢のまま一歩前に進み出た。
「オレ、ソノ子助ケル方法知ッテル! 花ノアルトコロ案内スル!」
「ア、オ、オレモタスケル! オレノ背中ニミンナノッケテヤル! アンゼンナ場所マデ連レテク! オレ、トッテモヤクダツヨ!」
「オレモ!」
ダカラコロサナイデ。そう言ってゲパルたちはロブに懇願した。
「なるほど、そこまで言うのなら、今後、俺に忠誠を誓うというのだな?」
「チカウ! ヤクダツ! ソノ子タスケルノ手伝ウ!」
もう脅しはじゅうぶんだと悟ったのだろう。ここでロブは変身を解いた。同時にガレハドも霧散するように消える。ゲパルたちは揃って安堵する様子を見せた。
信じちゃっていいの? シャンテは兄に問いかける。
「歯向かうようなら殺す。それだけだ」
その言葉に、え、と言いかけて、シャンテは口をつぐむ。
ロブがアニメタモルの呪いに抗い、変身できるのは一日に一度まで。だからもう一度変身できるだけの魔力は残されていないはずなのだけど。その秘密は黙っておいたほうが良さそうだ。
「サア、ハヤクノッテ!」
ゲパルは背中に乗れとばかりに腰を下ろし、おんぶする姿勢を取る。ロブの機嫌を損ねないように、とことん媚びる気なのだろう。
「オレ、ソノ子カカエル。オレ、チャントマモル」
粘つく糸を気にすることもなく、ゲパルはニーナのことを大切な宝物のように優しく抱きかかえる。
その様子を見ながら、ゲパルにニーナを預けてしまっていいのだろうかと、シャンテは不安に思う。まさか油断させておいて、このままニーナを人質にするつもりなんじゃないだろうか。そんなことがシャンテの頭を一瞬よぎった。
しかし、それはさすがにそれは考え過ぎだろうということにした。ロブの本気を目の当たりにして、反抗する気力はとっくに折れているはずだから。
それにしても、とシャンテは眉間にしわを寄せる。ゲパルの体毛は紫がかったピンク色。なんとも毒々しい色をしている。
これ、触っても大丈夫なんでしょうね?
「シャンテ、早く乗れよ!」
一足先にゲパルの背中に乗ったロブが急かしてくる。アレクももう、ゲパルの背中の上だ。
たしかに、いまは迷っている場合じゃないな。シャンテは意を決して、ゲパルの背中に乗った。
「イクゾ。振リ落サレナイヨウニ気ヲツケロ」
そう言って走り出したゲパルの乗り心地は、ハッキリ言って最悪だった。基本は四足歩行。熊が走るみたいに、前足も使ってリズミカルに駆けていく。それに合わせてシャンテの体も上下する。
しかし、ここまではまだいい。
問題は、世界樹の<うろ>を抜けだしてからだった。
「ちょっと、これ、大丈夫なんでしょうね!?」
エルフロードはゲパルたちにとって庭みたいなものだった。跳躍に次ぐ跳躍。体全身を使って、幹から幹へと飛び移るのである。時にぐるんと一回転しながら楽しそうに飛び跳ねるゲパルの背中に、シャンテは必死にしがみつく。シャンテもニーナを背負って走ることは多いが、屋根から屋根へと飛び移るときでも、ここまで荒っぽい動きはしたことがなかった。
そんなわけで乗り心地は最悪だったが、おかげでゲパルたちが暮らす住みかまでは一瞬だった。しがみついていた時間はわずかだったが、これまでの遅れを取り戻せたのではないかとも思う。
ゲパルたちは、世界樹にできた大きな窪みを住みかとして利用しているようだ。窪みといっても先ほどのような<うろ>ではなく、奥行きはほとんどない。入り口は広く、風通しの良い場所で、雨を凌ぐことができる大きな屋根のある空間と言えるだろう。そこには他にもゲパルたちがいたが、好奇の目を向けられるだけで、誰も襲ってはこなかった。
ゲパルたちは背中からシャンテたちを下ろし、そしてニーナを仰向けに寝かせた。まだ、ニーナの意識は戻らない。
「それで、<リトリアの花>は?」
「スグソコダ」
ゲパルは仲間に指示をして、入り口の側に生えてあった白い花を摘ませた。
なるほど、こんなにも近いところに生えていたのか。ゲパルとの戦いを避けていては見つけられなかったという意味では、「絶対ニ手ニイレラレナイ」というゲパルたちの言葉もあながち間違いではなかったわけだ。
それは百合の花に似て、トランペットのような形をしていた。花びらの色は白く、先端部分は薄っすらと水色に縁どられている。
花を受け取ったシャンテは、どうすればいいの? と、アレクに訊ねた。
「その蜜をお嬢ちゃんに飲ませてやっておくれ。口を開けさせて、その上に花を傾けてやるのじゃ」
「わかった。やってみる」
シャンテは言われた通りに<リトリアの花>を傾けた。とろりとした透明色の液体が垂れて、口の中へと流し込まれていく。ごくり、と上下する喉。苦しそうな表情を見るのは辛いが、飲み込んでくれたことにシャンテはひとまず安堵する。
「やれることはやったし、あとは目覚めるのを信じて待つだけだな。それまでゆっくりしてようぜ」
そうね、とシャンテは素直に頷いて、ニーナの手を両手で強く握りしめた。




