その煙の色は?
「──あっ、黒い煙だ」
街を歩くシャンテは、青空に溶けて消えていく白い煙たちに混じって、一本だけ伸びる真っ黒な煙を見た。
その色は、調合が上手くいかなかったことを示す<失敗の証>である。
◆
おかしい。
こんなのおかしいよ。私は絶対に信じない。
震える手。次第に早くなる鼓動。どんどんと黒く濁る錬金スープ。
同じだ。夢で見た光景となにもかもが同じだ。もしかしてまだ夢でも見ているのかな。そんなことを本気で考えてしまうほど、悪夢と目の前の現実が酷似していた。
認めたくない。たとえ夢と同じ道を辿っていたとしても、結末まで同じにはさせない。ニーナは涙目を凝らし、錬金スープの些細な変化も見極めようとする。けれども、見れば見るほど悪夢と同じ。どこで間違えたのか、それともまだ間違っていないのか、それすらも分からなくて。
(黒く濁ってきているけど、きっとこれが正しいんだ。だからここから挽回できるはずなんだ!)
突きつけられた現実を信じたくない一心で、錬金スープをかき混ぜ続ける。
静かな家のなかでは、浅い呼吸の音と、すすり泣く音がやけに響いて聞こえた。
濁った錬金スープはやがて粘り気を帯びてくる。ねっとりと、粘着性の液体が<かき混ぜ棒>に絡みついてくる。ニーナは頬に伝う涙を拭うと、これまで以上に力と魔力を両手に込めた。この錬成は失敗はできない。やり直せるだけのお金がないのである。だから必ず成功させてみせるんだ。ニーナは残っていた<マージョリー製の切れない糸>と<風の結晶体>を投入し、最後の工程に望みを託す。
けれども──
「うぅ……」
涙が止まらない。かき混ぜればかき混ぜるほど<錬金スープ>は黒くなり、誰がどう見ても取り返しがつかないほど状況は悪化していた。もはや黒一色。あらゆる光を呑み込みそうなほど黒い液体の水面は、ニーナの顔すらも映さない。いつのまにか棒を握りしめたまま、かき混ぜることを止めてしまっていた。
嗚咽も止まらない。なんだか吐き気までする。調合していてこんな気持ちになったのは初めてだった。失敗できないプレッシャーがニーナの心を追い詰めすぎて、吐き気となって襲ってきていたのだ。
それでもニーナは<神秘のしずく>が入った小瓶を手に取る。錬金スープに形を与えるために。失敗したと分かっていても、一縷の望みすらないと理解していても、どうしても目の前の現実を認めたくなくて。
──ぼふんっ!
もくもくと立ち上る煙。その色は黒。
調合は失敗してしまった。分かりきっていたけれど、それでも悲しくて、黒煙を吐き出し続ける錬金釜の前でしゃがみ込んでは泣いてしまった。心のなかがぐちゃぐちゃで、夢なら覚めて欲しいと、それだけを願ったけれど、やっぱりこれは現実で。だから悲しみに暮れる子供のように、みっともなく泣き続けるしかなかった。
◆
それからほどなくして玄関の扉が開く音がした。座ったまま動けずにいたニーナは、首だけを動かすようにして音がしたほうを向く。
「シャンテちゃん……」
真っ赤に腫らした両目でシャンテを見る。すがるように、あるいは叱責が欲しくて。
けれどもシャンテは、ニーナのことなどさほど興味がないと言わんばかりに一瞥すると、修理から戻ってきたばかりの槍を玄関側の壁に立てかけて、それからニーナを素通りしてキッチンへと向かう。
「お昼ごはん、作ったら食べる?」
「うぅ……」
答えの代わりに嗚咽が漏れる。なにが悲しいのかも分からない。
失敗しちゃった。ニーナはやっとの思いで、その言葉を口にした。
「知ってる。帰り際に煙突から黒い煙が見えたからね」
シャンテは背を向けたまま淡々とした口調で言った。
軽快な包丁の音だけが室内に響く。
「……ごめんなさい」
「なにが?」
「……失敗しちゃって、ごめんなさい」
「失敗はいけないことなの?」
それは……
ニーナは口を開きかけて、けれど結局はつぐんでしまう。
大発明は、失敗を積み重ねた先にあるもの。以前なら自信をもってそう答えただろう。けれど実際に、シャンテの反対を押し切ってまで購入した素材を台無しにしてしまった今は、なんと答えたら良いのか分からなくなっていた。
「すぐ作るから、後片付けでもして待ってなさい」
「うん……」
立ち上がってみる。錬金釜のなかには何とも言えぬ黒いぶよぶよとした物体ができあがっていた。触るとべとつくそれは、釜の内側にまんべんなく付着していて、このまま放置するとこびりついてしまいそうである。ニーナは重たい錬金釜を両手に抱えると、よたよたと、それを外まで持っていく。
<スロジョアトマト>が植えられた花壇横手の蛇口をひねり、ブラシを握ってごしごしと。瞳からはまた大粒の涙がこぼれてくる。
悔しくて、悔しくて……
つい数分前まではなにが悲しくて泣いていたのか自分でもわからなかった。
けれどいまならわかる。これは悔し涙だ。自分のふがいなさに腹が立っているのだ。
ごしごしと錬金釜を擦り続ける。
流れていく汚れ。黒い物体。シャンテの反対を押し切って買ってもらった高級素材。もう二度と、こんな贅沢な調合はできないかもしれないのに、その機会を台無しにしてしまった。
「もう一度、挑戦したかったなぁ……」
「──だったら、そうすればいいじゃない」
ニーナはゆっくりと顔を上げる。
開けはなった窓からシャンテが顔を覗かせていた。
「昼食の用意ができたわ。ほどほどにして戻っておいで」
蛇口をひねって水を止める。錬金釜は何事もなかったかのように綺麗になっている。
空を見上げてみる。雲一つない青空。太陽の眩しさが目に染みるようである。
濡れた錬金釜を壁に立てかけて、シャンテが待つ食卓へと向かった。
テーブルには出来立ての料理が並んでいた。今日のメニューはスパニッシュオムレツ。ジャガイモや玉ねぎ、それにほうれん草を使った卵料理である。それをシャンテが丁寧に切り分けてお皿に盛ってくれる。それに加えてサラダとスープがついてくる。野菜たっぷりの健康的な献立だ。
気まずいながらも椅子に座りフォークを手に取ろうとした。
ところで、シャンテから一枚の羊皮紙を渡される。
「突然だけど明日マヒュルテの森に行くわよ」
そこは世界樹が佇む森である。世界樹は比類なきほど巨大なマナの木であり、魔法の素となる<マナ>を生み出す。<マナ>で満たされたマヒュルテの森は、他では見られない生態系が築かれており、錬金術師にとってはまさに素材の宝庫と呼べる場所だ。
こんなときでなければ素材を求めて「行きたい!」と二つ返事で答えていただろう。
けれどいまはどうしてもそんな気分になれなかった。
しかしそんなニーナも、手渡された羊皮紙の内容を読んで目を見開くこととなる。
「これは依頼書? 依頼内容は高級食材である<トトリフ>の採取。報酬は<トトリフ>一つにつき……えっ!?」
「ふふっ、驚いた?」
依頼書とシャンテの顔を交互に見る。シャンテは口の端に笑みを浮かべている。
「なんで報酬がこんなにも高額なの?」
「そりゃあ簡単には手に入らないからよ。ニーナは<トトリフ>がどんなものか知ってる?」
「うん。実物は見たことないけど。確か土のなかで育つ珍しいキノコで、独特で芳醇な香りが特徴なんだよね」
「そっ。その香りの良さから、高級食材を扱う料理店で重宝されているんだって。一部では<黒いダイアモンド>なんて洒落た名前で呼ばれているそうよ」
「えっと、高値で取引される理由はよく分かったけど、でもそんな貴重なキノコをそう都合よく手に入れられるのかな? だって、滅多に手に入れられないから報酬も良いわけなんだし」
「そうね。アタシも見つけられる自信はまったくないわ」
あっけらかんと笑うシャンテ。
ニーナは、えっ、と絶句してしまうけれども。
そこでシャンテは、むしゃむしゃとスパニッシュオムレツを頬張るロブを抱きかかえて、顔のすぐそばに寄せた。
「兄さんの嗅覚を利用する。土の中に埋まるキノコを、ブタの嗅覚で探し当てるの。そうして運よく<トトリフ>を手に入れられたらすぐに換金して、そしてもう一度調合の素材を買い揃える」
それってつまり──
「お金の心配はいらない。だから成功するまで何度でも挑戦しなさい、ニーナ」




