追う者、逃げる者、待ち受ける者③
ここを初めて訪れたとき不気味だと感じた。
その予感は決して間違いなんかじゃなかった。
巨大な蜘蛛が仕掛けた罠。その糸はとても細く、辺りの暗さに溶け込んでいてよく見えなかった。あるいは前方に注意を払いながら進んでいれば気付けたかもしれない。けれど逃げることに必死だったニーナは、後ろを振り返ってばかりで罠に気付くことができなかった。
頭上より、赤黒い背中をした蜘蛛がゆっくりと近づいてくる。このままでは食べられてしまうのも時間の問題だ。両手両足の自由が利かないニーナに残された唯一の抵抗手段は、魔法による攻撃だけだった。
「来ないで!」
ニーナはありったけの力を込めて魔法を放とうとした。ところが、杖の結晶部分がぱちぱちと青白くスパークするだけで、魔法が形になってくれない。
落ち着け。こんなときこそ落ち着くんだ。
ニーナはそう自分に言い聞かせると、深呼吸をして、そしてもう一度魔法を放つ。
しかし結果は同じ。どういうわけか魔法が発動しないのだ。
そんなニーナの必死の抵抗を馬鹿にするかのように、背後からゲパルたちの笑い声が聞こえてくる。ニーナはそのことが悔しくて、惨めでたまらなかった。泣きたくなんかないのに、勝手に涙も溢れてきた。そのことが余計に惨めに感じられて、けれどその涙を拭うことすらもニーナはできなかった。
「ドウシタ? モウ抵抗ハ終ワリカ?」
え、なんで?
ニーナは信じられないとばかりに目を見開き、肩越しに振り返る。
「オオ、イイ顔ダナ。オレ、ソノ顔スキ。ニンゲンノ言葉話トミンナオドロクカラ、スキ」
訊き間違いなんかじゃなかった。ニーナの目の前でゲパルが口を開き、人間の言葉を紡いでいたのである。
「な、なんで……?」
「ニンゲンノ言葉、トッテモ便利。オマエタチノ会話、ゼンブツツヌケ。オソウノ簡単」
片言のようなたどたどしい言葉遣いながらも、ちゃんと会話が成立していた。よく悪知恵の働く奴だとは思っていたけれど、まさかこんなにも賢い生き物だったなんて。
「ソンナコトヨリ呆ケテイテイイノカ? ユックリシテルト女王ニ喰ワレルゾ?」
ニーナは我に返り、真上を見上げた。ゲパルと話しているあいだに、巨大な蜘蛛の顔がすぐそこまで迫っていた。その凶悪な顎はニーナの頭なんか簡単に噛み砕いてしまいそうに見えた。
「た、助けて!」
もうなりふり構ってなんていられなかった。ゲパルが意思の疎通ができる生き物だということが、唯一の救いのようにすら思えた。
「イヤダ」
「どうして! お願い、助けてよ!」
「オレタチノ目的、タノシムコト。オマエヲ追イ込ンデ、女王ノエサニスル。オレタチ、ソレヲミル。タノシイ」
まさか、ここまで全部ゲパルたちの思惑通りだったの?
悔しさなんかよりも恐怖心がより一層込み上げてきた。怖い。純粋にそう思った。
「もうじゅうぶん楽しんだでしょ!? だからもう助けてよ!」
「ダメ。オマエ、オレタチノ仲間イッパイ傷ツケタ」
「謝るから! ごめんなさいってするから!」
「エー、ドウシヨッカナー」
「ごめんなさいごめんなさいごめんなさいごめんなさいごめんなさいごめんなさいごめんなさい……!」
何度も懇願し、許しを請うニーナの肩に蜘蛛の足がかかる。
「うああ、あぁ、いやぁぁああぁァあぁアアっ……!!」
──ブスリ。
なにか針のようなものが、ちょうどニーナの肩と首の付け根の辺りに刺さる。これって、まさか毒針? ニーナはいよいよ恐怖に耐えられなくなり、ボロボロと大粒の涙をこぼす。手足が震えているのは怖いからなのか、それとも痙攣しているのか、それすらもニーナにはわからない。
体が急速に冷えていく感覚。漏れるうめき声。ゲパルたちの笑い声がどこか遠くに感じる。目の焦点も定まらず、世界がぐるぐると回って見えた。
そうしてニーナはそのまま意識を手放した。
◆
「本当にこの中に入っていったの?」
「世界樹の内側に呼ばれておるんじゃろ? じゃったら、この辺りなら入り口はここしかない」
マージョリーが作ってくれた服には、ニーナの居場所を教えてくれる魔法がかけられている。ちょうど手で裾をクイクイと引っ張るようにして、ニーナの現在地まで案内してくれる。そういう作りになっているのだが、その魔法の服が引っ張っていったのが、ニーナが見つけた巨大な空洞の入り口だった。
クンクンと、ロブがニーナの痕跡を探す。
「うん、ここにニーナが来たことは間違いないんだぜ。でも同時に獣の臭いもすんだぜ」
だとしたら、本当にここにニーナが。普通ならこんなところ、いくらニーナが好奇心旺盛だからといって一人で入ったりなんかしないだろう。ニーナは珍しい素材を見つけると周りが見えなくなることもあるけれど、なんだかんだ怖がりだ。それでもここに入っていったということは、そうせざるを得ない状況に追い込まれていたということなのだろう。
「しかしまずいのう。ここは危険な毒蜘蛛の縄張りじゃぞ」
「え、蜘蛛?」
シャンテは蜘蛛が死ぬほど嫌いだ。うじゃうじゃと足の生えたものが苦手なのである。
「そうじゃ。それはもう巨大な毒蜘蛛での、世界樹の内側にたくさん巣を張って獲物がかかるのを待っておるのじゃ。しかもそやつが吐き出す粘着性の糸は、どういうわけか獲物の魔力を分散させる力があってのう、うまく魔法を扱うことができなくなるんじゃ。じゃから一度罠にかかったが最後。力でも魔法でもその糸は切れん。お嬢ちゃんの燃える槍があれば話は別じゃろうが……」
「アタシなら助けられるかもってことね。じゃあ急ぐわよ!」
蜘蛛ごときに怯えてなんていられない。ニーナを危険な目に合わせたのは自分の失態。一瞬とはいえニーナから目を離してしまったことも、ゲパルたちの相手に手間取って合流できていないこの状況も、全部自分が招いてしまったこと。だから絶対にアタシの手でニーナを助けるんだ。そうシャンテは強く心に誓う。
そうしてシャンテは意を決して巨大な毒蜘蛛の巣窟に飛び込んだ。




