迎えた当日、世界樹の前でニーナたちは
いつも通りの、けれどいつもと違う朝が来た。
村で暮らしていたときの習慣から早起きが体に染みついているニーナも、今日はいつもより早く、日の出の時刻よりほんの少し前に目が覚めた。
ニーナはベッドから降りて、窓にかかったカーテンを開ける。クノッフェンの北西部。街のなかでも標高の高いところに位置する、この家の二階の窓からは、オレンジ色の屋根が並ぶ景色を一望できる。遠くに見える海の向こうから登り始めた太陽。朝焼けに染まりゆく街並みを、ニーナは目を細めて見守る。
──うん、今日はいつにもましていい朝だ。
天気は良好。
体調も万全。
緊張はしているけれども、新しいことに挑戦するときはいつもこんな感じ。だから良い傾向なんだと思う。
「この緊張もひっくるめて、今日はうんと楽しまなきゃね」
一つ、決意の言葉を小さく声に出すと、ニーナは手早く着替えてから、朝食の用意を始めるためにリビングへと向かった。
◆
三人が家を出たのは、まだ朝の早い時間だった。前日までに入念に準備を済ませていたので、朝食を終えてすぐに家を出た。目指すはもちろん世界樹。その前に冒険家のアレクとはギルド会館にて待ち合わせをしている。
「やあやあ、おはよう。調子はどうかのう?」
先に来ていたアレクが小さく手を挙げてニーナたちを歓迎する。今日も白くて長い顎髭は健在だ。
「全然だめです。ここ数日ワクワクが止まらなくてうずうずしてます」
「そりゃ重症じゃのう。そういうことなら、はよう登り始めんとな」
大きな体を揺らしながらアレクは笑う。それに合わせて背中の荷物も上下に揺れた。今日はみんな大荷物である。魔法の加護のおかげで見た目ほど重くはないけれど、このときばかりは身軽なロブのことが羨ましく感じた。
荷物だけでなく、服装についても今日は特別仕様。裁縫の錬金術師マージョリーに頼んで作ってもらったもので、動きやすさを重視した長袖にパンツスタイル。しかも丈夫で破れにくいだけでなく、汗もよく吸ってくれる。雨風にも強いと、いたせり尽くせりの魔法の衣服なのだ。
また武器となる杖や槍はかばんの側面に取り付けた<変幻自在のスライムグリップ>という発明品で固定してある。これはニーナが自作したもので、ぷにゅっとした球体状のスライムに武器の柄の部分を押し付けると、それだけでグリップに変形して武器を支えてくれるという代物だ。
取り外すときも簡単で、武器にほんのわずかな魔力を流し込むだけ。するとスライムが反応して武器を手放してくれる。これさえあれば通常は両手を自由に使える状態にしつつ、必要な時にすぐに武器を構えられる。
アレクを加えた一行がまず最初に向かったのは、施設内にある<風紋>が描かれた小部屋だ。
この<風紋>とは世界樹が蓄える膨大なマナを利用した<空間転移装置>であり、まさに錬金術と科学技術の結晶とも言える、すごい代物なのである。日ごろから冒険者たちは何気なく利用しているが、気軽に探索に行って帰ってくることができるのも、全部この技術のおかげ。この発明がなければマヒュルテの森の奥地を探索するのは、いまよりずっと困難なことになっていたに違いない。
ちなみに先日利用した<大陸間トランスポートシステム>はこの技術の応用である。世界樹近郊の、マナに溢れた土地に使用が限定されていた<風紋>を、世界各地でも転移できるように改良したもので、これはこれでやはり世界の在り方を変えるすごい技術なのだ。
「お嬢ちゃんたちはこの部屋を利用するのは初めてかのう?」
「いえ、何度もありますよ」
「それじゃあ説明は不要じゃな」
アレクが係りの者に、中央ベースキャンプに行きたい旨を告げる。マヒュルテの森は広大なので、冒険者たちの拠点となるベースキャンプ場も東西南北と中央の五つに別れている。これから向かう世界樹は中央ベースキャンプからが一番近くて早い。
淡い緑の光に包まれて、ニーナたちは一瞬にして森の中の拠点へと移動する。もう慣れたものだけれど、初めて経験したときの感動は今でもよく覚えている。
真っ白い壁に囲まれた薄暗い部屋。
そこから光に包まれて、次第に目を開けていられなくなって。
けれど少し経つとそれもだんだんと収まって、次に瞼を開いた時にはもう、そこは大自然の真っただ中だった。しかも周りを取り囲む木々の一本一本が想像していたよりもずっと大きくて。とにかく圧倒されたことを覚えている。
──でも、いまからもっともっと大きなものに挑戦するんだよね。
「うん、なにかいった?」
独り言めいた呟きが聞こえたのか、シャンテが後ろを振り返る。
「ううん、なんでもない。それより今日は頑張ろうね」
「ええ。なんたって今日のためにこれまでたくさん苦労してきたんだから」
「私は楽しいばかりで苦労だなんて感じたことなかったよ」
「まあニーナはそうかもね。……アタシも、なんだかんだ楽しかったわ」
そこから世界樹の根元に向かって少しばかり徒歩で移動する。目印である巨大な世界樹は森のどこからでも、なんなら街の外側からでもよく見えるため、絶対に迷う心配はない。それよりも魔物に襲われることの方を心配すべきなのだが、今日は幸運にも危険な生き物に出くわすことはなく根元まで辿り着けた。
「いやあ、こうして改めて見ると大きいというか、なんというか」
「うんざりするほどの高さよね。見上げていると首が痛くなるわ」
「だなー。面倒だし、もうやめとくか?」
どごぉ! と、本日一発目のげんこつが落ちる。
誰のためにわざわざここまで来たと思ってんのよ、とシャンテがもっともなことを言いながら兄を睨んだ。
「はっはっはっ。元気いっぱいじゃな。その調子で気合入れて登り始めるとしようか!」
「あ、ちょっと待って下さい」
ニーナはさっそく背中のリュックに手を伸ばして、中身をごそごそと漁る。
小さな手が掴み取ったのは、半透明の液体が入った小瓶だった。
「これ、私が調合したスタミナ系のポーションなんです。ちょっと酸味と辛みが強いかもですけど、でも効き目バッチリの優れもので、自信を持って人に勧められる商品なんです。世界樹を登り始める前に、よかったらアレクさんも一緒に飲みませんか?」
「おお、お嬢ちゃんが調合したポーションか。そりゃあ断る理由はないのう。どれ、一つもらおうか」
ニーナはアレクに<レモン香るピリ辛フルーツポーション>を手渡すと、シャンテとロブにも配り、四人は横一列に並ぶ。そして世界樹を見上げながら、登頂を祈願しつつ、みんなでそれをゴクリと飲み干した。




