知らせ
目が覚めたとき、部屋の中は薄暗かった。
二段ベッドの下の階。ニーナは布団の中で仰向けのまま、ぼんやりと思う。
──喉、乾いたなぁ。
体調は眠る前よりも随分とましになったように思う。まだ少し頭が痛いけれど、寒気は特に感じない。むしろ汗を掻いてしまったぐらいだ。
ベッドから降りたニーナは窓の外を見る。空は夕焼け色を超えて紫色をしていた。夏頃よりも日没が早いとはいえ、けっこう眠ってしまったらしい。
とりあえずコップに水を入れて、それからまたベッドに戻ろう。それぐらいの軽い気持ちで階段を降り始めたときだった。リビングのほうからシャンテとロブの声が聞こえてくる。
「やっぱり心配だわ。あのミスティが連絡もなしにこの時間まで帰ってこないなんておかしいもの。探しに行った方がいいんじゃないかしら」
「……だな。でもニーナはどうする? 置いていけないぜ?」
「フラウにお願いしてみるのはどうかしら?」
「良い案だと思うが、フラウってミスティの顔知ってたっけか?」
「あぁ……。写真でもあればよかったんだけど」
「ねえ、ミスティさんがどうかしたの?」
シャンテが驚いた顔でニーナを見た。
「ニーナ! もう起きてきて大丈夫なの?」
「うーん、まだちょっと頭は痛いけど、だいぶ気分はましになったかな。お水をもらおうと思って来たんだけど、ミスティさんは? 帰りが遅いって話が聞こえたように思うんだけど」
「そうなのよ。あのあとすぐに、アタシがミスティに買い物をお願いしたの。市場まで行って夕食と、明日の朝食ぶんの食材を買ってきて欲しいって。たぶん十五時を過ぎたあたりのことだったと思うんだけど、それがまだ帰って来てないのよ」
ニーナは壁に掛けられた時計に目をやる。時刻はあと少しで十八時になろうかという頃だった。市場までは片道で三十分もかからないぐらいの距離だから、それから買い物に時間を使ったとしても、確かに心配になる遅さだ。
「あの子落ち込んでたみたいだから、買い物に行く前に<寄り道してきてもいい>とは言ったのよ。それでも真面目な性格だから、暗くなる前には帰ってくると思ってたんだけど」
「うん、確かに心配だよね。探しに行くべきだと思う」
「それじゃあ俺がちょっくら探してくるかね」
「え、私も行くよ?」
「いやいや、アンタは病人でしょうが」
「そうそう、ここは俺に任せておくんだぜ」
二人にそう言われたら、ニーナとしては頷くしかなかった。まだ何かあったと決まったわけではないし、それにロブが探しに行ってくれるなら安心だ。
「どこにいようとも、ミスティの匂いを嗅ぎ分けて見つけ出してみせるぜ」
「……普通のことを言ってるはずなのに、兄さんがそう言うとなんだか変態っぽく聞こえるのはアタシだけかしら?」
「おいおい、俺は大真面目に……って、あれ、なんか聞こえね?」
……ほんとだ。犬の鳴き声が聞こえる。
ニーナは反射的にミスティたちが帰ってきたのだと思った。たぶんシャンテも同じように思ったのか、すぐにドアに駆け寄ろうとする。
けれど、ニーナは鳴き声に耳を傾けているうちに疑問がわいてきた。
この声がマルのものだとして、どうして吠えているのだろう? マルは賢いからよっぽどのことが無いと吠えないし、ミスティが一緒ならそれこそ吠える理由がないはずだ。
シャンテが扉を開ける。
ミスティの姿はない。そればかりか、マルの姿も見当たらない。
「マル!?」
声を上げたのはシャンテだ。そのシャンテが、家の外へと飛び出した。ニーナとロブもそのあとを追う。
マルは玄関から遠く離れたところにいた。それでいてミスティの姿はやはり見えない。ニーナは胸騒ぎを覚えた。その嫌な予感は、マルの姿を間近で見て確信に代わる。
「え、この怪我……。いったいどうしたの? それにミスティさんは?」
マルは怪我をしていた。特に左の後ろ脚が痛いらしく、足を引きずっている。ここまで、上り坂ばかりの街を歩いて帰ってくるだけでも大変だったはずだ。
「待ってて!」
そんなマルが怪我を押して戻ってきたということは、なにか伝えたいことがあるに違いない。きっと、ミスティがいないことと関係があるはずだ。ニーナはその言葉を受け取るために、寝室に置かれたミスティのかばんから<ドッグイヤーパーカー>を取り出した。
──借りますね、ミスティさん!
フードを被りながら階段を駆け下りる。頭が痛むことも忘れて、ニーナはマルの元まで走った。
──わんわん!
訊ねるのはもちろんミスティの居場所だ。マルの声が<ドッグイヤーパーカー>を通して人の言葉に変換されていく。
──えっ、誘拐!? どこに連れていかれたのか居場所はわかる!?
マルは助けて欲しいと言った。老婆に扮した女に騙されて、家まで連れ込まれてしまったらしい。ご主人様を助けようとマルも必死になって抵抗したが、取り返すことは叶わず、ニーナたちを頼るしかなかったらしい。
──ありがとう、知らせてくれて。ここまでよく頑張ったね。
ニーナはマルの頭を優しく撫でた。そしてシャンテたちに、ミスティが誘拐されたことと、その居場所をマルが覚えていることを伝えると、すぐに「助けに行こう」と言った。
「私も行くよ! 待ってなさいって言われてもついて行くから!」
「えっ、でも……ううん、わかった。一緒にいきましょ」
「だな。今回の件がリムステラと無関係とも言い切れねーし、一緒に行動した方がいいだろ」
そうだ。相手は誰かわからないのだ。だからこそ、一刻も早くミスティを助け出さないと。
「アタシがハネウマブーツでみんなを背負って走る。ニーナは道案内を。マルの言葉をアタシに伝えて!」
「わかった!」
素早く装備を整えて、そしてシャンテの背中に乗りかかる。マルはシャンテの腕のなかへ、そしてロブはニーナの背中に。
「よし、行くよ!」
魔法の靴を履いたシャンテが力強く地面を蹴った。緩やかにカーブした下り坂を一歩一歩、確かな足取りで下っていく。歩幅は大きく、ダイナミックに。人を背負っていることを感じさせない軽快な走りで、紫色の夕闇の中を前のめりになって駆け抜けていく。
「わんっ!」
「次、左!」
跳んで、飛んで、翔んで。
風を切り裂き、スカートをはためかせながら、見える景色の全てを置き去りに。
すれ違う人たちは皆一様に目を丸くしてこちらを見たが、そんなこと気にしてはいられなかった。
もし誘拐犯の目的がミスティを誰かに売り捌くことだとしたら、そう長く同じところに留まってはいないだろう。手が届かない場所まで連れ去られてしまう前に、なんとしても見つけ出さなくては。ニーナの心臓は走ってもいないのにドクン、ドクン、と早鐘を打つ。
「わんっ!」
「そこっ、左手の細い道を曲がって!」
そしてついに、ニーナたちは誘拐犯のアジトと思しき民家へと辿り着いた。