アンラッキー・デイ④
買い物という目的を終えたミスティは無言で坂道を上り始める。頭のなかを巡るのはニーナのことと、自分の不甲斐なさ。足取りは自然と重たくなった。そうして紙袋を抱えながら俯きがちに歩いていると、隣でマルが「くぅん」と鳴いた。表情が暗かったから心配してくれたのだろう。ミスティは弱々しい笑みを愛犬に返した。
そんなときだ。細い脇道との交差点にて、ミスティはちょうど飛び出してきた女性と軽くぶつかってしまった。それほど強く当たったわけでは無いためミスティはふらつくこともなかったのだが、相手はその場で倒れ込んでしまう。
「だ、大丈夫ですか!?」
抱えていたものをその場に置いて、女性に駆け寄る。
見たところ相手は六十を超えた高齢の老婆で、手元には先ほどまで握っていたであろう杖が転がっている。どうやら足腰が弱いらしい。ただ転んだだけならいいが、相手の年齢を考えると、これは大変なことをしてしまったのではないかとミスティは気が気でなかった。
こういうときどうすればいいんだろう?
ひとまずお医者様を呼ぶべき?
「あいたたた……」
「あの、ごめんなさい。ちょっとぼーっとしてたみたいで」
「ああ、いいよ、いいよ。こっちこそぶつかっちゃってごめんねぇ」
とりあえず意識はハッキリとしているようでよかったと、ミスティはほっとする。
「立てそうですか?」
ミスティは老婆を支えようと手を伸ばす。
「大丈夫だ……あいたたた。腰が……」
「やっぱりいまので怪我を!? 早くお医者様を呼ばなくちゃ……!」
「いや、いいんだよ。医者はちょっと都合が悪くてね」
「えっ、都合が悪い?」
ミスティは思わず聞き返してしまった。
「あぁ、いや、お医者様に診てもらうとなるとお金がかかるだろう?」
「そんな、私が悪いのですから、もちろん費用は私が負担させていただきます」
「それは悪いよ。ほんと大丈夫だから気にしないでおくれ。もともと腰は悪かったんだ。それに家に帰れば孫もおるし」
そう言いつつも、老婆は痛そうに腰をさすっている。
「でしたら、せめて家まで送らせてください」
「そうかい? それは助かるけど、ほんとにいいのかい?」
もちろんです、と頷いて、老婆が立ち上がるのを手伝う。それから紙袋を片手で抱え上げて、そっと老婆の腰に手を当てて支える。
「それでは行きましょう。お家はどちらですか?」
「ああ、こっちだよ」
老婆はそう言って来た道を指さした。細い路地裏のほうから来たということは、これからどこかへ行く途中だったのだろうか。ミスティは気になって訊ねてみた。なにか特別な用事があってはいけないと思ったからだ。
「いいや、ただの夕方の散歩だよ。毎日少しずつでも体を動かさないと、いざという時に歩けなくなるからねぇ」
なるほど、確かにただの散歩なら、持ち歩いているのが杖だけというのも頷ける。
「それじゃあ家までよろしくね」
はい、と頷いて、ミスティは老婆と並んでゆっくりと歩き始める。
するとそのとき、どういうわけかマルが老婆に向かってわんわんと大きな声で吠えだした。普段は人懐っこいマルにしては珍しい行為だ。
「こら、マル。吠えちゃダメだよ」
「ふふふ、ご主人様がアタシに取られると思って嫉妬してるのかもねぇ」
「そうかもしれません。……もう、マルったら、吠えちゃダメって言ってるじゃない」
それでも吠えるのをやめないマルを、ミスティは開いている方の手で抱きかかえる。いつもなら人を困らせるようなことは決してしない子なんだけど。こういうときに<ドッグイヤーパーカー>が完成していればなぁ、と未完成品のことがミスティの頭にふとよぎった。
◆
「さあ、着いたよ。ここがアタシの家さ」
人気のない路地裏にひっそりと佇む民家。表札はなく、窓にはカーテンがかけられている。こじんまりとした印象で、あまり生活感が感じられなかったが、それを口に出して言ってしまうのはなんだか憚られた。
「ここがおばあさんのお家ですか?」
「ああ、そうだよ」
そう答えながら、老婆は何か気になることでもあるのか辺りを注意深く確認している。
「あの、家にはお孫さんがいるんでしたよね?」
「ああ、そうだよ。大きな男の子が一人ね」
「そうですか。それじゃあ私はここで。今日はぶつかってしまって、迷惑をかけてしまってすみませんでした」
「いやいや、こちらこそ助かったよ。……そうだ、せっかくならお茶でも飲んでいかないかい?」
「いえ、さすがにそれは……」
「遠慮なんかいらないよ。ほら、いまうちの鍵を開けるから」
「あれ? いまお婆さんの声が……」
──最後のほうだけ妙に声が若々しかったような?
気のせいかもしれない。けれどやっぱり気になって、もう一度訊ねてみようと口を開きかけたそのとき、老婆はすぐにくるりと背を向けて、それから無言でドアを強く叩き始めた。それも、見た目からは想像もつかないほど強く。
呼びかけに応じるように扉が開かれる。出てきたのは背の高い男性。彼が、老婆の言う孫なのだろうか。孫というよりは息子ぐらいの年齢のような気もする。背は随分と高く、こちらを見る目は妙に冷たい。
「あ、あのぅ……」
そのとき、不意に男の手が伸びてきた。




