アンラッキー・デイ①
昼食後はまた自由に分かれてスケッチする時間を取った。ニーナも先ほどと同じ場所に腰を下ろして続きに取り掛かることにする。初めはミスティのためを思ってピクニックに来たはずが、いまや誰よりも熱心にスケッチブックと向き合っている自分がいた。大作が生まれる予感がする。私はこれを完成させなくてはいけない。湧き上がる衝動をそのままスケッチブックに描き出す。有名な画家にでもなった気分だった。
そうしてそれから二時間ほど描写を続けた結果、ついにニーナは満足のいく絵を描き切る。結局のところ時間が足りず、鉛筆による白黒のラフスケッチが完成しただけなのだが、それでも線の強弱や陰影をつけたりと、とにかくこだわって描いた渾身の力作だ。きっと本職の画家と比べれば技術的にまだまだな部分も多いのだろう。けれど初めて本気で風景画というものに取り組んでみた割には上手に描けたのではないか。もしかしてこっち方面の才能もあったりして。なんてことをニーナは大まじめに思った。
けれど、ニーナはふと我に返る。
──あっ、しまった。今日の目的忘れてた。そろそろミスティさんの絵もちゃんと見なきゃだよね。
ここまでずっと自分のことばかりでほったらかしにしてしまった。それでも彼女のことだから、別に一人でひたむきに練習を続けているだろうけれど、さすがに放置はまずい。仮に相手がなんとも思っていないとしても、先生として、そんなことではいけないと今頃になって思ったのである。
見晴らしの良い場所ということもあって、探すまでもなくミスティの姿は簡単に見つけることができた。滝つぼを背に、丸い石の上にちょこんと座りながらスケッチブックと向き合っている。描いているのは。
「調子はどうですか?」
「あっ、ニーナさん。えっと、まだ描き始めたばかりなんですけど……。先ほどの絵、完成したんですか?」
頷くと、ぜひ見せてくださいとせがまれた。ここへはミスティの絵を確認するために来たのだけれど、興味を持ってもらえるのが嬉しくて、ニーナは完成したばかりの絵を掲げてみせる。その絵をミスティはまじまじと、食い入るように見つめた。
「すごい……。鉛筆一本でこれだけ世界を表現できるなんて、どうやったらこんなすごい絵を描けるんだろう」
「いやぁ、時間ばかりかかっちゃいましたけどね」
「それだけ集中していたってことなんだと思います。そこが私と違うんだろうな」
「えっ、いやいや、そんなこと全然ないです。ミスティさんだって昨夜は遅くまで頑張ってたじゃないですか。コツコツと真面目に取り組むことができる姿勢はとても尊敬しちゃいます。それに教えたこともすぐに取り入れてくれるので、私も嬉しくなってくるんですよね」
「ありがとうございます。私は学び始めるのが遅かったので……皆さんに追いつくためにも常に意識を高く、向上心を持って学んでいきたいと思っているんです。ただ、ここぞという時の集中力は全然敵わないなと、今日改めて感じました」
「夢中になりすぎて周りが見えてないだけなような気もするんですけどね。シャンテちゃんにもしょっちゅう怒られてます。それよりミスティさんの絵も見せてくださいよ」
「ニーナさんの絵を見せてもらった後で見てもらうのは若干気が引けるのですが……」
そう言いつつもミスティはスケッチブックを一枚めくって、先ほどまで取り組んでいたスケッチを見せてくれる。モチーフとなっているのはどれも小さな花。それらを様々な角度から見方を変えて何度も描写している。より深く、花というものを理解しようとする気持ちが絵を通して伝わってくる。
「あっ」
ニーナが絵を眺めていると、なにかに気付いたらしいミスティが腰を浮かし、前かがみの姿勢でゆっくりと手を伸ばす。彼女の視線の先を追ってみると、そこには一匹の愛らしいウサギの姿が。そういえばミスティは動物が好きで、家ではマルの他に二匹の猫を飼っているのだと聞いたことがある。シャンテと違って虫に触れるのも平気で、森での採取活動にも積極的だった。
──あれ、でもこのウサギって……
待って、と叫ぶのとほぼ同時に、ウサギが身構えた。跳躍に移る動作。それを見たニーナの脳裏に蘇るのは、ドロップキックによって遥か遠くへ蹴飛ばされたロブの姿だった。
ぴょんと跳びあがり、無警戒のミスティのおでこに両足を添えるウサギ。そして次の瞬間、ウサギは足にぐっと力を込めて、壁を蹴るように、ミスティのことを思いっきり後ろに蹴飛ばした。そんなミスティのことをニーナはとっさに後ろから体を支えようとしたが踏ん張りが足りず、巻き込まれる形で二人して吹き飛んでしまう。
──ばしゃん!
そのままニーナはお尻から着水し、さらに勢い余ってひっくり返った。全身に感じる水の冷たさ。幸か不幸かそこは浅瀬で、流されえる心配はまったくなかったが、いまやニーナは頭から足先まで全身ずぶ濡れだった。一緒になって吹き飛んだミスティも腰まで水に浸かってしまっていた。
「うぅ……」
「だ、大丈夫ですか? 怪我はありませんか? 首とか痛めてませんか?」
「はい、どうにか……」
ミスティは額を抑えつつも、なんとか受け答えはできている。どうやら大事には至らなかったようだ。
「あの、いまのは?」
「さっきミスティさんが触れようと思ったのは<マッスルウサギ>という、見た目に反して凶暴なウサギさんなんです。物凄く力強いわりに警戒心が強くて、そのくせ自分よりも大きな存在にも果敢に攻撃を仕掛けるウサギなんですけど、思いっきり蹴られちゃいましたね」
といっても、先ほどのあれは恐らく挨拶代わりの一撃といったところだろう。本気だったならばこの程度の怪我では済まなかった。ロブがドロップキックを喰らったときのことを思えば、これでも幸運だったといえるだろう。
この騒ぎに様子を見に来てくれたシャンテが手を取って引き起こしてくれる。なにがあったのと訊ねられたので<マッスルウサギ>に蹴飛ばされたのだと正直に話すと、「今日の夕食はウサギの肉ね」とシャンテは物騒なことを呟いた。
「……さぶっ」
思わずニーナはぶるりと体を震わせる。アルベルに連れられて初めてこの滝を目にしたときから季節は移り、いまは秋。日差しは出ているが、風は冷たく、そのうえ服も下着も髪の毛も全部びしょ濡れだった。
「このままじゃ風邪を引いてしまうわ。兄さんに頼んで乾かしてもらいましょ」
「ううん、そうしてもらいたいところだけれど、もう少し我慢する。ロブさんの力はギルドに戻ってから頼ることにするよ」
今しがた、この森はやはり危険だと再認識したばかり。<まんぷくカレービスケット>は持ってきているが、それでもロブの魔法はいざという時のために温存すべきだ。
「ニーナがそれでいいなら別に構わないけど、ミスティはどう? 我慢できる?」
「はい、私はニーナさんが庇ってくれたおかげで上のほうはあまり濡れていないので。……あの、本当にすみませんでした。私が軽率な行動をとったばかりに、またしてもニーナさんに迷惑をかけてしまいました。せっかくニーナさんが描いた絵も濡らしてしまい、本当に申し訳ないです……」
「いやいや、全然気にしないでください。たしかに残念で無いと言えばウソになりますけど、今日の目的は絵を描くことを通じてイメージする力を養ってもらうこと。今日という一日がミスティさんのためになったなら、それでじゅうぶんなんですよ」
「ニーナさん……」
「そんな顔しないで、とりあえず今日はもう帰りましょ? はやく家に戻って温かいお風呂に入りたいです」




