聖女のくちづけ
シャンテから引き放されたアデリーナはそのまま大部屋の中央まで、見えない力によって吹き飛んだ。それはロブが行使した魔法によるものであり、規格外の力を見せつけるアデリーナを対抗するために、ロブは早くも変身するほかなかった。
「ロブさん……」
「彼女の相手は俺に任せろ。代わりに、シャンテの側についていてやってくれ」
ニーナは素直に頷いた。この戦いでは自分もシャンテも足手まといとなってしまう。それに、例えいまの人間離れした動きを見せるアデリーナが相手だとしても、ロブが負ける未来がまるで見えなかった。
けれど心配なこともある。ここで力を使ってしまうということは、この後に控えるリムステラへの対抗手段を失ってしまうことを意味するからだ。
ニーナは不安に負けないようにシャンテの手をぎゅっと握った。
シャンテもまたニーナの手を握り返した。
アデリーナが新たに現れた敵を排除しようと襲い掛かる。
低い姿勢から放たれた矢のように、最短距離を一直線に跳びかかったのだ。
しかしながらこれをロブは身動き一つせず、見えない壁で弾き飛ばしてしまう。
吹き飛ぶような格好となったアデリーナは、空中で反転して両足で着地。ここで<武雷刀>を鞘から抜いた。
本来騎士は人を斬り殺さないために、どんなことがあっても鞘から刀身を引き抜くことはない。代わりに、どんな悪人が相手だろうと鞘にまとわせた雷によって無力化する。これは持ち手と鞘を<誓いの鎖>で雁字搦めにすることで、騎士たちは自らに殺人を禁じているからなのだが、この誓いをアデリーナは破ったのだ。
そして再び、アデリーナは真正面からロブに向かっていく。
「まさに獣だな」
騎士の戦い方とは程遠いアデリーナの姿を嘆きながらも、ロブもまた見えない壁を展開し、これを防ぐ。そして続けてアデリーナの手から<武雷刀>を弾き飛ばした。そのまま刀は壁面に突き刺さる。
武器を失ったアデリーナだったが、それでも彼女は戦うことを止めない。紅蓮の髪を振り乱し、猛然とロブへ向かっていく。魔法の力で弾かれてもお構いなし。見えない壁を狂ったように殴り付け、どうにかしてロブの首を取ろうと手を伸ばす。すでに身につけていた黒手袋は破れて、その隙間から見える肌は血だらけだった。骨だって折れているのだろう。
それでも彼女を突き動かすのは<狂人化の仮面>によるものなのだろうか。
「ちっ、もう止めろ!」
ロブは心を痛めながらもアデリーナを弾き飛ばす。強い力で押さえつけようとすればするほど、アデリーナを傷つけることになってしまうが、しかし手加減をすればアデリーナはいつまでも戦い続けることになり、結果としてより深い傷を彼女に負わせてしまうこととなる。いつものように全身を氷漬けにしようにも、半端に凍った状態で体を無理に動かせば最悪の場合に手足が千切れて、出血多量で死んでしまうことも考えられた。
それならと、ロブはこれまでに使用したことのない新たな魔法を即興で編み出し、魔力の波動をアデリーナに叩き込む。それは不可視の攻撃であり、ニーナたちにはなにをどうしたのか目で見て理解できなかったのだが。
「あっ……!」
アデリーナが膝をつく。それでも立ち上がろうとするものの、よろけて、今度は尻もちをついて倒れた。
どことなく既視感を覚えたニーナたちだったが、その一方で不可解な出来事を目の当たりにしたリムステラは、ふうん、と面白くなさそうにする。
「ねえ、いまなにをしたのか、説明してくれる?」
「……魔力の波動を脳に叩きつけた。<骨伝導ソード>から発想を得た技だ。脳を激しく揺さぶられた彼女は平衡感覚を失い、しばらくのあいだはまともに立つこともままならないだろう」
ロブの言う通りアデリーナは何度も立ち上がろうとしたが、その度にふらつき、崩れるようにして倒れてしまう。そうこうしているあいだに体の方がついに限界を迎えたのか、アデリーナは血反吐を吐いて倒れた。仮面の奥から滴る血の量は思いのほか多く、薬の力で無理やり体を動かした代償は相当大きいようだった。
「さて……」
ロブがリムステラのほうへと向き直る。張り詰める空気。周囲を取り巻く空間が軋むかのような錯覚すら覚える。二人の魔力が極限まで高まっていくのがニーナにも感じられた。
ロブは宙に無数の氷刃を生みだし、それをリムステラに向けて飛ばす。
対する魔女は、部屋の端で転がっていた海賊の体を操り、氷刃から身を守るための盾とした。ロブはなんとか海賊に突き刺さる前に氷刃を制止させるが、その隙にリムステラは反撃に転じる。漆黒のスカートの裾から巨大な植物の鞭のようなものをうねらせ、それを用いてロブを狙った。
しなる茨の鞭をいつものように光の壁で弾くが、リムステラはこの鞭をさらに複数展開し、そのうちの一本をニーナとシャンテに向けてきた。
「ひゃあっ!?」
ニーナは衝撃に備えて身を竦めたが、これもロブが光の壁を用いて防いでくれる。
ここまではリムステラの魔法を上回る対応を見せるロブだったが──
「守らなくちゃいけないものが多くて大変ね」
額に流れる汗。ロブが人間の姿を保っていられる時間にも限界が近づいていたが、けれど守りに手を取られて攻撃をねじ込む隙が無い。
それでもリムステラが繰り出す茨の鞭を風の刃で全て切断して見せたものの、ぼふんと煙をあげて、そこでロブはブタに戻ってしまった。
「ふふっ、これで終わりね」
ようやくこのときが来たとばかりにリムステラは微笑み、横たわるロブに手をかざす。怪しげな紫の炎が灯り、呪い殺そうとするかのようだったが、その炎がロブに触れる直前、シャンテが伸ばしたワイヤーがロブを救出する。
宿敵を殺す間際に邪魔をされたリムステラだったが、それでも浮かべるのは余裕の笑み。最大の障壁であるロブの魔力が切れたことで勝利を確信している様子だった。
そこへ、クリストフが一歩前に出る。
「ありがとう。ここまでよくやってくれた。あとは私たちに任せてくれ」
「いいの?」
シャンテの問いにクリストフは敵を見据えたまま頷く。
「ああ、じゅうぶんだ。君たちをこれ以上危険な目に合わせるわけにはいかない。ここから抜け出すこともまた苦労するだろうが、どうにかして脱出してくれ」
ニーナは本当にここで逃げてしまっても良いのか戸惑ったが、シャンテは迷うことなく、空腹に目を回すロブを抱えて立ち上がる。そして、行こう、とニーナの手を引っ張った。
しかし、このチャンスをリムステラが逃すはずがない。外へとつながる唯一の扉を無数の蔦が覆って閉ざしてしまったのだ。
シャンテがこれを炎を灯したフレイムスピアで薙ぎ払おうとするが、蔦が再生するスピードは凄まじく、外へと脱出することができない。せっかくクリストフたちが身を挺してくれているというのに、ニーナたちは大部屋に閉じ込められてしまった。
さらにジェラルドが、気絶したままだった海賊たちに次々と注射器を使って薬を投与することで、意識を取り戻した男たちが騎士たちに襲い掛かっていた。
ニーナはどうすることもできず、途方に暮れながら戦いの様子を見守っていたのだが。
そこへ聖女が歩み寄りシャンテに声をかけてきた。
「あの、こちらのブタさんはもう変身することができないのですか?」
「残念ながら見ての通りよ」
そのとき、ロブのお腹がぎゅるるるるぅ、と鳴った。
空腹なのですか、と聖女は首を傾げる。なんともややこしいタイミングでお腹が鳴ったものだ。
「空腹もそうだけど、それだけじゃなくて魔力がもう空っぽなの。一時的とはいえ<動物化の呪い>を解くためには大量の魔力を消費するらしくてね」
「なるほど。でしたら……」
聖女が両手を伸ばしロブを迎え入れようとする。なにをするつもりなのかはわからなかったが、悪意を微塵も感じさせない澄んだ青い瞳を見て、シャンテはロブを彼女に預けることにした。
見つめ合う二人。
かと思えば、聖女はロブに口づけをした。
「ええっ……!?」
こんなときだったが、ニーナとシャンテは二人して声を上げて驚いた。
ロブは目を丸くし、フラウも口元に手を当てて唖然とした。
「んんっ!?」
するとロブの体が跳ねた。まるで電流が走ったかのよう。いや、きっと歓喜が体中を駆け巡っているのだろうと、ニーナとシャンテは思ったのだが。
ぴょんと、聖女の手から跳びはねるロブ。そしてなんと、ロブは再び人間の姿へと戻った。表情はきりっと。肌は心なしかいつもよりみずみずしく、普段よりも二割増しでかっこよく見える。──えっ、いや、でもなんで?
「私の魔力を少しばかり分け与えました」
──そんなことが可能なんですか?
けれどロブの姿を見ればそれは疑いようもないことだった。
ロブは力を与えてくれた聖女の手の甲に軽く口づけを落とすと、リムステラのほうに向かって悠然と歩いていく。
再び力を取り戻したロブ。その姿を見たリムステラが苦々しい表情を浮かべたのは、言うまでもない。
アデリーナが身につけていた黒手袋は<絶縁体グローブ>と呼ばれるもの。<武雷刀>が発する電流から使用者の身を守ります。




