船乗りに伝わる伝説
初めこそゆっくりとした動き出しだった船もいまは風を味方につけて、大海原をぐんぐんと進んでいく。天気は良好。波はほどほど。振り返れば遠く向こうにマヒュルテの森の頭頂部と、悠然と聳える世界樹が圧倒的な存在感を放っていた。
視線を進行方向へと戻す。港を出発してから一時間。さすがにまだ目的地は影も形も見えず、代わりに見渡す限り海が広がっている。時折鳥たちが視界を横切り、魚が跳びはね、船のすぐ側を黒い影が通り過ぎた。船員のヤックとジョーは終始笑顔で、特にヤックはお喋りが好きなのか、冗談を交えながら海の素晴らしさをシャンテたちに語っている。
そんななかでニーナはというと。
「……うぷっ」
船の端っこにしがみつきながら、必死にこみ上げてくるものと戦っていた。
「ねえ、大丈夫?」
「なんか気分が悪くなってきた」
「でしょうね。顔が真っ青よ」
港では初めての船旅にあれだけ心を躍らせていたのに、まさか船に乗ることがこんなにもつらいなんて。
そんなぐったりした様子のニーナを見て、そいつは間違いなく船酔いだな、とヤックは白い歯を見せながら豪快に笑った。
「船酔いってなんですか?」
「波に揺られているとだんだんと吐き気がして苦しくなってくる現象さ。なんでそうなるかまでは俺も知らないが、きっと脳が揺さぶられて混乱してしまってるんだろうな」
「ヤックさんはどうして平気なんです?」
「もう慣れちまったってのもあるが、そういや俺は元からへっちゃらだったな」
乗り物酔いには個人差があるのよ、とシャンテが補足してくれる。
「ニーナだって馬車の揺れは平気だったでしょ? でもあれも、人によれば酔っちゃうのよ」
「そ、そうなんだ。ロブさんも平気なの?」
「おー、もちろんなんだぜ」
こういうときのロブは情けなく酔ってしまうイメージが勝手にあったけれど、どうやら本当になんともないらしい。ちょっと裏切られた気分である。
「うぅ……」
「あやや、あんまりにもつらいようなら箒にでも乗ります?」
「ううん、大丈夫。なんかもったいないし、もう少し頑張ってみようと思います」
意地というか、悔しいというか。せっかくの船旅なのだ。頑張る必要なんてないとわかっているけれど、もう少しだけ波に抗ってみようと思うのだ。
そんなときだ。もう一人の船員であるジョーが、反対側の海を見てくださいという。なにか珍しいものでも見つけたのだろうか。ニーナたちはそろってそちら側へと移動してみる。
「あっ、なんか跳びはねた!」
四匹の大きな魚が同じ方向を向いて順番にジャンプしている。大きな背びれが特徴的で、流線型のシルエットは美しくもある。
ただ、魚にしては大きいような……
「こいつは珍しい。あれはイルカだな」
「あれが……」
本で読んだ程度の知識しかないけれど、たしかとっても知能の高い哺乳類の仲間だったはず。音を使って仲間とコミュニケーションをとったり、エコーロケーションといって、音の反射を利用して、跳ね返ってきた音から物体の大きさや形を把握する能力が備わっているのだとか。あと、好奇心も旺盛らしい。
そうした特徴からか、よく童話の世界でも人間に味方をしてくれる生き物として描かれることが多い。人間の言葉をよく理解し、助けてくれるのだ。ニーナがイルカに興味を持ったきっかけも、昔おばあちゃんが読んでくれた本に登場していたからだった。
「ヤックさんたち船乗りからしても、イルカと出会うことができるのは珍しいことなんですか?」
「おうよ。初めての船旅でイルカを見ることができるなんて、お客さんはすごく幸運だ」
「えへへ、嬉しいな。あの、イルカってとっても賢いって話を訊くんですけれど、ヤックさんはイルカとお話したことはありますか?」
「俺はないけど、昔船乗りだった俺の親父が話したことがあるって言ってたな」
「そうなんですか?」
「ああ。といっても本当かどうかは疑わしいもんだけどな。なにせ親父のやつ、俺は人魚を見たことがあるなんて言いやがるしよ」
「えっ、人魚って実在するんですか!?」
「いやいや、もちろん嘘だとは思うんだ。まだ幼かった俺の前でカッコつけようとしただけなんだと思うんだが、けどな、海にはそうした言い伝えや伝説といったたぐいのものが結構あってな。たとえば海で人魚の怒りを買うと嵐を起こし、船を沈められてしまうだとか」
「えっと……それってあくまでも噂なんですよね?」
ニーナは実際に船が沈められてしまったときのことを考えて身震いした。こんな周りになにもないところで放り出されたらひとたまりもない。フラウが箒に乗って助けに来てくれることを祈るばかりだ。
「そう、なんの根拠もない噂話さ。ただ俺の親父が言うには、人魚の歌声ってのは聞きほれてしまうほど素晴らしいものらしい。怒りは買いたくないが、実際にいるというのなら声ぐらいは聞かせて欲しいもんだな」
「いいですね。私も会ってみたいです」
◆
「ふう、やっと到着だよぉ」
あれから二時間弱。船は順調に進んでいき、当初の予定通り無事にセオドア島へと到着した。桟橋へと寄せられた船の上で、ニーナは大きく深呼吸をする。
「お疲れさん。なんとか耐えきったみたいだな」
「はい、本当になんとかって感じでしたけれど、でもヤックさんのお話が面白かったので途中でリタイアせずに済みました」
ニーナは微笑み、そして真っ先に船の上から降りる。
「無人島へじょーりーく! やっぱり人間は陸の上が一番だよ!」
続いてフラウが、空に浮かぶ生活もなかなかいいものですよ、と言いながら降りてきて、そして最後にシャンテがロブを抱えて船から降りてきた。あれだけへっちゃらそうだったロブも情けないことに、最後の最後で船酔いになってしまったらしく、いまはぐったりとしている。なんだかロブさんらしいや、とニーナは秘かに思った。
「それじゃあまた三日後のお昼過ぎに迎えに来ますぜ。なにか日程などに変更があるようでしたら事前に魔法文を飛ばしてください。それでは良い旅を!」
「はい、ありがとうございます!」
「そうそう。ニーナさんはさっきここを無人島と言いましたが、実は一人だけここにお婆さんが暮らしてるんですよ」
「そうなんですか?」
これは初耳である。隣ではシャンテも同じように驚いていた。
「ええ。といっても、島の中央にある湖の側でひっそりと暮らしているだけなんで、近づかなければ会うこともないでしょうが。それに彼女とは話したことがありますが、別に悪い人ってこともないんで。むしろなにかお困りごとなら彼女を頼るといいですよ。お金と交換でいろんなものを分けてくれますから」
どうにも気になる話だけれど、襲われる心配はなさそうかな?
なにはともあれ今日から三日間、ここで友達と一緒に暮らすのだ。難しいことは考えずに、いまはこの島をめいっぱい楽しみたい。白い砂浜とエメラルドグリーンの海を前に、ニーナは満面の笑みを浮かべるのであった。




