そうだ、海に行こう!
穏やかな時間が流れる良く晴れた日の午後。
ニーナたちはリビングにてそれぞれの時間を過ごしていた。
魔女の一件があった日から数日が経過した。シャンテの誕生日を盛大に祝い、プレゼントもどうにか渡すことができた。アルベルから教えてもらった洒落たお店でディナーを予約して、特別な日に特別な贈り物を渡した。シャンテはとても喜んでくれて、涙ぐんでしまうシャンテのことがどうしようもなく愛おしく感じて、一緒に泣いてしまったのもいまとなってはいい思い出である。
あれからの日々は、基本的には変わりなく、相変わらず調合と探索を繰り返している。
けれど、いつまた魔女が襲ってくるかわからないからと、三人はどんな時でも一緒に行動するようになっていた。いまも調合中のニーナと同じリビングに、シャンテとロブはいてくれている。シャンテはテーブルの前に座り、新聞とチラシに目を通している。ロブはソファの上でだらけていた。
ニーナはテーブルの上の<神秘のしずく>が入れられた小瓶を手に取る。
──ぼふんっ。
錬金釜から立ち上る煙の色は、残念なことに黒かった。
ニーナはけほけほと咽込みながら目元を擦る。煙が目に染みて涙が出てきた。
とはいえ、この涙は煙だけが原因では無かったが。
実を言うと、あの日以来ニーナの調子は良くない。錬金釜を見るとどうしても魔女に邪魔された日のことを思い出してしまって、落ち着かなくなる。<かき混ぜ棒>を握る手が震えてどうしようもなくなってしまう。簡単な調合すら失敗してしまう現状では、いま取り掛かっていたような難しい錬成が成功するはずもなかった。
けれど二人に心配をかけたくなかったニーナは、そのことを口にはしなかった。なにを訊かれても大丈夫だよ、と笑って誤魔化した。
もちろんシャンテとロブが、ニーナの強がりに気が付かないはずがないのだが。
「おー、今日もアイマスクの改良か?」
ニーナが目元の涙を拭っていると、慰めようとしてくれているのか、ロブが足元まで来て寄り添ってくれる。
「うん、そうなの。メイリィさんからの宿題で、契約に向けてタイマー機能を追加しようと思っているんだけど、案外これがなかなか難しくて、また失敗しちゃった」
<絶対快眠アイマスク>のセールスポイントは、どんな状況下でも熟睡できること。だから例え目覚まし時計のような大音量を耳元で鳴らしても、目が覚めることは決してない。それがこの作品の最大の長所なのだが、製品化するにあたっては短所にもなっていた。
使用者が望む時間に目が覚めるように、タイマーをセットした時間に効果が切れるような仕組みを作るか、勝手に耳から外れてアイマスクがずれ落ちるようにするか。なにかしらアイデアを捻りだして、それを調合に反映させないといけない。
そのことを話すとロブは、なるほどなー、と頷いた。
「でも根を詰め過ぎてもよくないし、ちょっと休憩するといいと思うんだぜ」
そうよ、とシャンテも同意する。
「ポーションや入浴剤のおかげで生活も安定してきたし、今月の家賃だってもう収めているんだから、なにも焦る必要はないわ」
「うん、そうだよね……」
口ではそう言いつつも、納得はできない。
いつまでも魔女に心を乱されている自分が情けなかった。
「へぇ……ねえニーナ、こういうの興味ない?」
シャンテはなにか面白いチラシを見つけたようだ。テーブルの上に置かれたそれを一緒になって覗き込む。
「なになに、無人島ツアー?」
「そうなの。マーレ海沖に浮かぶ列島の一つ、セオドア島にてキャンプでもしませんか、というチラシみたい。もちろん海が綺麗なところだから、泳ぐのもありよね」
海で泳ぐ、という単語を訊きつけたロブが椅子に飛び乗り、鼻息を荒くする。
「つまり二人は水着に着替えるという……」
──どごぉ!
久々のげんこつがロブの脳天にヒットした。続いて、このバカ兄貴っ、と罵声が飛ぶ。ロブは涙目である。
ニーナは苦笑を浮かべつつも、視線をチラシに戻す。そこには青空と、エメラルドグリーンの海と、そして自然があふれる島の様子が見て取れる。
「こんなきれいな海で遊べたら楽しいだろうなぁ。ねえ、バーベキューもできるかなっ?」
「ええ、必要なものはレンタルできるって書かれてあるからできると思うわ。テントも借りられるみたいだから、泊りがけで遊びに行くのもいいんじゃないかしら」
「なーなー、それってつまり、俺も二人と一緒に狭いテントのなかで寝ていいってことか?」
「そこは男女別でしょ」
「えー、そんな殺生なぁ」
あはは……
男といっても相手はロブなのだから、その日ぐらいは良いのでは、とニーナは思う。近くにいてくれるのなら、なにがあっても安心だ。
チラシを手にするニーナは早くもその気になっていたが、一つだけ気掛かりもあった。
「泊りがけで行くのなら、そのあいだは調合できないんだよね? メイリィさんから急な納品を頼まれたらどうしよう?」
「そこはまあ、アイツらをうまく使えばいいんじゃない?」
シャンテは目を細めてニヤリと笑った。
◆
あれからほどなくして、ニーナたちの家の前には手もみをする三人の男たちの姿があった。いずれも年齢は三十代の半ば。そんないい年した大人の男たちが、年端も行かないニーナたちに愛想を振りまいている。
「そういうことだからアンタたちに留守を頼みたいんだけど、いいわよね?」
「もちろんです、姐さん!」
すっかり主従関係ができあがった様子に、つい苦笑いをしてしまう。
三人とも、そんな性格だったっけ?
その男たち──オドとバッカスとジェイコブの三人は、あのとき魔女に見捨てられた。薬を投与され、朦朧とした意識のなかでニーナたちに襲い掛かったものの、ロブの魔法の力で取り押さえられ、結果として燃え盛る家のなかから救助された。
リムステラに投与された薬の効果は一時的なもので、その後三人は意識を取り戻したのだが、同時に、オドたちは不運にも動物の姿に戻ってしまう。オドはネズミに、バッカスとジェイコブは鳥と蜘蛛の姿に。それがリムステラによってかけられた呪いの効果であることは明白だった。
そんな三人はシャンテにより、ひとまず瓶に入れられた。そしてニーナが意識を取り戻すのを待って、オドたちをどうするのか三人で話し合った。騎士に突き出すか、それとも森の中に逃がしてやるか。
けれどそのときニーナは訊ねた。この三人をもとの人間の姿に戻してあげることはできないかな、と。この三人が魔女の被害者に思えてならなかったからだ。
それにシャンテは反対したが、ロブはできないことはないと言った。
「俺に呪いをかけた杖は<世界樹の輝く葉>を素材とした世界に一つだけのものだったが、いまあいつが使っている杖は、それとは別だからな。俺の魔法で呪いを解くこともできると思うよ」
ロブが言うには、オドたちにかけられた呪いは<アニメタモルの呪い>とは似て非なるものらしい。自分の呪いを解くために身につけた知識をもとにすれば、オドたちの呪いを解けるだろうと言った。そして本当にロブは三人の呪いを見事に解いてみせたのだった。
そうした経緯もあって、いまやオドたちはニーナたちの忠実なる僕となった。<バケツ雨の卵>を割ったことや、魔女に情報を流してニーナの誘拐に加担した罪を償いたいという。
ちなみに<太陽石の粉末>が入った瓶を隠したのも三人だったらしい。魔女は、ロブとは会いたくないが、かといってロブたちが家から出ていったあとすぐに調合に取り掛かられると、家に入れてもらえないかもしれないと考えて、素材の瓶を隠すようにと三人に命じたのだとか。つまりは時間稼ぎである。そうして魔女は、ニーナが素材を買って戻ってきたところを、何食わぬ顔をして家の前で待っていたということだ。
そんなこんなでニーナたちに協力する姿勢を見せる三人は、いまはニーナたちと同じようにイザベラから家を借りて、ここから数分のところにある場所で暮らし始めた。そしてシャンテから<パンギャの実を集めてフランベする係>に任命されて、その役目を果たしてくれている。バッカスは大柄で間の抜けた顔とは裏腹に料理が意外と得意で、フランベする係にうってつけだった。さらにジェイコブは、これまた意外にも錬金術の知識があり、簡単な調合なら任せられる。
だからニーナたちが数日のあいだ留守にしても、立派に代役をこなしてくれるはずだ。
「さてと、これで気兼ねなくバカンスに行けるわね!」
振り返って笑みを浮かべるシャンテに、うんっ、とニーナは元気よく返事をする。クノッフェンに来てからはがむしゃらに、ひたむきに、ずっと忙しい日々を過ごしていたけれど、たまにはゆっくりしてもいいのかもしれない。そう考えたニーナは、あのエメラルドグリーンの海を思い浮かべながら、早くも期待に胸を躍らせるのであった。




