35話 生命の木を繋ぐ旅路へ
外は季節の変わり目特有の空気が漂い、湿度の高い部屋はちょっぴり居心地が悪い。オレは、ケージの中でふと目を覚まして大きなあくびを1つ。
「ふぁあああっ」
酸素不足なのかそれともただの疲れなのかは定かではないが、じっとりとした気候はチワワの小さな身体には負担だ。今日はいつもよりも遅く目が覚めたせいか、朝ごはんも新しい飲み水も既にケージ内のセット済み。
「あら、ようやく目が覚めたみたいね。おはようハチ。今日は、朝早くから使いの人が来たり、忙しかったんだけど、ハチは寝てたみたいだから起こさなかったのよ」
「くいーん(ごめん、ブーケ姫)」
いわゆる寝坊状態になってしまった今日のオレだがブーケ姫曰く、早朝から来客があって忙しかったようだし、オレはスヤスヤと夢の中にいて丁度良かったのだろう。
規則正しい生活のリズムから少し離れてしまったことに反省しつつも、小型犬なりに朝の身支度を整えて今日の訓練に備える。ブーケ姫は毎朝オレに簡単な魔法訓練を行ってから仕事に行っていたので、てっきり今日もそうなるのかと思い込んでいたが、実は予定が違うらしい。
メイドのリオがオレの餌を片付けながら、今日のスケジュールを説明してくれる。
「実は、今日はパピリンが産んだ子犬の名前が判明した重要な日なの。もしかするとハチにも関係あるかも知れないから、今日の散歩と訓練はちょっとだけ保留よ」
「きゃん?」
「うふふ。いい子だね……ちょっと休んでいてね」
オレの頭を撫でるとケージを一旦閉じて、空気の入れ替えと掃除をし始めた。ひんやりとした空気が、小さな窓から入ってきて気持ち良い。いつものように、丸ごと部屋の空気を入れ替えることはしなくても、やはり換気をするのとしないのとでは大違いだ。
ヒラヒラと揺れるリオのメイド服を眺めつつ体力を維持していると、ブーケ姫が資料を整理している姿が目に飛び込んでくる。2人とも今日は、外には出ずに部屋の片付けをメインに行うのだろうか。改めて資料を見直すブーケ姫は、オレの方をチラチラと気にしながらも、資料にデータを付け加えていく。
(ブーケ姫もリオも落ち着かない様子だけど、何か大きな変化があったのかな?)
2人がしきりにオレのことを気にする理由は、テチチとパピリンの間に産まれた子犬達の最新情報が原因だった。
* * *
聖なる獣と謳われる神の使いテチチとパピヨン犬の間に生まれた子犬達は、これまでにない新たな犬種として認定された。人間達は、この新たな犬種の名を『チワワ』と名付けたそうだ。この情報は、子犬を産んだパピヨン犬の本来の飼い主であるブーケ姫の耳にも入った。
「チワワ……パピリンが産んだ子犬達の犬種名は『チワワ』なのね。あらっ? そういえば、ハチの首輪に記されていた犬種名にもチワワという名前が付いていたような」
「ブーケ姫様、確かハチの首輪についているプレートには産まれた年や飼い主の名前なども書いてあったんですよね。犬種名も詳しく記されていたような……」
「ええ、情報が本当ならハチは未来の魔王城でブルーベルという少女に飼われていたはずよ。何だかんだハチが未来からの来訪者であることを改めて認識せざるを得なくなるけど。思い切って……もう一度、ハチのプロフィールを調べてみましょう」
そう言いながらブーケ姫は、オレが休むケージを開けて、優しくオレの小さな身体を抱き上げた。地球でもチワワという名称で親しまれているが、これらの生き物の名称が異世界と地球の両方で共通しているのは不思議な気がする。
(もしかすると、生き物の呼び名などは神様が異世界でも地球でも同じような名前になるように、促しているのかも)
抱きかかえられながらそんな風に考えていると、ブーケ姫はオレをソファに移動させて、首輪の情報を細かく手帳にメモし始めた。
「どれどれ……確か情報はここに。ハチは、小型犬の中でもテチチに似ているものね。今回誕生したチワワという犬種の流れを組んでいるに違いないわ」
「くうーん」
未来から過去の転送されたと推測されているハチの首輪に記された情報を確認。銀色のプレートには『ロングコートチワワ』というチワワの一種であることが記されている。ベージュ色の長い毛並みはロングヘアと呼ぶには相応しく、大きな目や少し飛び出したおでこなど顔立ちはどことなくテチチに似ていた。
地球でもチワワはテチチと呼ばれる神の使いの子孫であり、やがてパピヨンやポメラニアンなどと合わさって『チワワ』と呼ばれる固定の種となった。この異世界のように、パピヨン犬とテチチの子供がすぐに『チワワ』と認定されたわけではないらしいが。だが、地球と異世界の犬種の定義づけとして見ても、血統の流れとしては遠くはないだろう。
「如何でしたか、ブーケ姫。やはり、この子はパピリンが産んだ聖なる獣テチチの子孫になるのでしょうか?」
「ええ……二百五十年後の子犬だから、間に別の種類の犬の血が入っているみたいだけど。もしかすると、ハチはうちのパピリンが産んだ子犬達の遠い子孫なのかも知れないわね」
突然、2人とも無言になりオレの小さな身体をじっと見つめて、何かを考え始めたようだ。ブーケ姫は、自分自身に言い聞かせるように、ひと呼吸置いてから再びゆっくりと会話を再開した。
「私、どこかでハチは未来の犬じゃなくて、この時代の迷い犬なんじゃないかって思い込もうとしてた。パピリンがいなくなったばかりだし、未来に返さずにここにいてくれたらって……そう願ってしまっていたのかも。寂しかったのね……きっと。でもね、ハチがパピリンの子孫である可能性がある以上、ちゃんと儀式をして元の時代へ送ってあげないとって改めて思ったわ」
「ブーケ姫、やはりパピリンの子孫がこの時代にずっといることに懸念しておられるのですね」
「ええ。先祖と子孫を繋ぐ生命の木は私達魔族も含めて、全ての生き物に伝わる大切なものだわ。パピリンが命がけで産んだ子犬が繋いだ生命の流れをここで切るわけにはいかないもの。本来は、この時代の犬じゃないハチが何かの間違いでこの時代の犬と子供を作ってしまったら生命の木が崩壊してしまう。それに、飼い主のブルーベルちゃんもきっと心配しているしね」
つまり、ブーケ姫は本当ならオレをこの時代に置いておきたいところを、生命の木の維持のために元どおりの時代に戻すことが重要だと気づいたのだろう。
「姫様、よく決意されましたね。時折、ハチを元の時代へ返すという話題は出ていましたけど。1ヶ月以上ハチはこの時代にとどまっているし、別れが辛くなっていたのも事実です。けど、ハチの生命の木の流れが判明することで決断の時が訪れたのでしょう」
なんとなく、元の時代へと帰る儀式を行う日が決まらない気がしていたが。本当に未来から来た犬かなんて、ブーケ姫達からしたら確信がなかったんだろうし、なかなか決断が出来なかったのかも知れない。
「今日は神官様に挨拶に行って、未来へとハチを返すための相談をしてくるわ。ここで話をすすめておかないと、また別れが惜しくなってしまうし」
「ハチも神官長の元へと連れて行かれるんですか?」
「多分、そうした方がいいわよね。小型犬の足では遠い道のりだしカゴを用意して……」
コンコンコン!
ブーケ姫がオレを神官長の元へと運ぶために雨対策を施しながらカゴの準備をしていると、コンコンコンとドアをノックする音が響く。
「あら、誰かしら?」
珍しくメイドのリオではなく、ブーケ姫自らが部屋のドアを開けたのは彼女の勘が働いていたと言って良いだろう。
「やあ……七年ぶりだね、ブーケ姫」
ドアの向こう側で妖しく微笑んでいたのは、行方不明となっていたはずのブーケ姫の婚約者だった。パピリン連れ去り事件と関わりが疑われる彼が、このタイミングで来訪したことは何か意味が?
――沈黙の中、胸騒ぎのような鼓動がオレの心に響き渡る。生命の木を繋ぐ旅路は果たして上手くいくのだろうか。