33話 心の寂しさに寄り添って
ブーケ姫の愛犬パピリンが、何者かに連れ去られてから1カ月ほど経った。もし、連れ去られた先で順調に出産できていれば子犬が産まれているだろう。
「パピリン、今頃どうしているかしら? あの子を連れ去った連中は聖なる獣が欲しいのだろうから、きっと出産はさせると思うけれど。やっぱり心配だわ」
この1ヶ月間は、パピリン連れ去りはもちろんのこと、魔王城周辺で起きた精霊の反乱騒ぎや何者かの攻撃による記憶喪失者が数人出たことなどで皆疲労していた。魔族のみで構成されているはずの魔王城内において、内部の裏切り者が手引きをして反乱を起こしたと推測されるのも皆が疲労する原因だろう。今までのように、同族だから安心……と、心を許せるような状況ではなくなってしまったからだ。
ブーケ姫は、魔王城の跡取りではないものの『魔王の娘』という立場から皆を励ます役割を与えられていた。精霊騒ぎで傷ついた市民達に声をかけて回復呪文を施したり、食糧の足りない地域に出向いて炊き出しを手伝ったりと非力な姫でも出来る仕事をこなす。
ほぼ1ヶ月働き通しだった姫だが、だいぶ市民達も平常通りの生活を取り戻し始めたため、今日は久しぶりに休みを取ることになった。
拠点としている魔王城別棟でミルクティーを飲み心身を癒すブーケ姫は、以前よりもわずかに痩せたように感じられた。珍しく椅子ではなくソファにもたれかかって、天井を仰ぐようにぼんやりする姿はかなり気持ちが参っているように見える。
「大丈夫ですよ、姫様。幸か不幸か、聖なる獣を崇めている占星術師達は、小動物を傷つけるようなことはしないそうです。子犬を産んだ後の母犬は、大抵保護ドッグハウスに預けられて余生を送るそうですよ。まぁ連れ去られた先が、人間や占星術士サイドであれば……の話ですが」
メイドのリオが人間サイドの情報を伝えて、落ち込むブーケ姫を励ます。神から選ばれた種族である象徴として子犬達を利用するのだろうから、晩年まで生きていけるように注意を払うだろう。
「パピリンを必要としていそうなところなんて、聖なる獣を欲しているところくらいでしょうし。ほぼ間違いなく、人間サイドだと思うのだけど……。偵察部隊が人間の国でパピリンの情報を調べてきてくれているから、報告待ちするしかないか」
辛そうな姿を見ていられなくて、思わず『くうーん』と泣きながらブーケ姫に寄り添う。尻尾をわずかに振って、好意を示しながらトコトコと床の上を歩いてブーケ姫の足元へ。
「くいーん、きゃうん(ブーケ姫、元気出して)」
こんな時に、チワワのオレに出来ることなんて側で慰める事くらいだが。未来ではアニマルセラピーというものが存在していたし、オレの毛並みをモフることで元気になるかも知れない。
「あら、ハチ慰めてくれるの? それともあなたも寂しいのかしら、私と同じで。ふふっいい子ね……おいで」
「きゅうーん」
オレの行動を慰めと捉えるか、それとも姫に甘えてきていると捉えるか……。実は、この行動の意味や奥底にある『何か』の正体は……オレ自身だってよく分からないのだ。
淡い水色のワンピースの上にちょこんと乗せてもらい、ブーケ姫の膝の上で丸くなる。オレがこの時代の送られる前日の夜……本来の飼い主であるブルーベルの膝の上でこうやって休んだっけ。いつのまにかこの時代がオレが住む時代のような気がして、ブルーベルという少女は夢の中の存在のように感じることさえあった。
ブーケ姫は現在18歳……女性としてもっとも美しいとされる年頃だ。身体つきはすでに大人の女性のしなやかなものとなっていて、その膝もしっかりとしていながら女性特有の柔らかで心地よいものだった。けれど頭を撫でられて毛並みを整えられながら、思い出すのはやはり本来の飼い主であるブルーベルのことだ。
すでに女性として花開いているブーケ姫と異なり、11歳という少女盛りのブルーベル姫は身体つきも華奢でその膝の上も随分と頼りないものだった。おそらく小型犬のチワワでさえ、ブルーベルにとっては膝の上に抱えることは重かっただろう。それなのに、オレの毛並みを整えて頭を撫でるために、ブルーベルはオレを膝の上で可愛がってくれていた。
(優しく愛らしい少女のブルーベル……オレのもう二度と会えないかもしれない本当の飼い主。本来の歴史とは変わりつつあるこの過去の世界の影響で、ブルーベルの存在の可否が危うくなってしまったら……)
不安な気持ちに襲われていると、何かを察知したのかブーケ姫がポツリポツリと連れ去られた愛犬パピリンとの思い出を語り始めた。
「パピリンもね、私が寂しそうにしているとこうして膝の上に乗ってきて、毛並みを触らせてくれたの。可愛くて優しくて、本当に素敵なパートナーだった。ねぇハチ、あなたの飼い主のブルーベル姫も、あなたにこういう風に接していたのかしら?」
「くいーん(うん、そうだよ)」
「ふふっ私達って、似た者同士なのかも知れないわね。ハチ……私ね、いろいろと考えたんだけど、あなたをきちんと元の時代へと返してあげられるように頑張るから。離れ離れになって寂しい思いをするのは、私とパピリンだけで十分だわ。ちゃんとブルーベル姫の元へと辿り着けるように、魔法陣を調べるから安心して……」
それ以上は、ブーケ姫の言葉が途切れていき……会話にはならなかった。子犬と魔族の姫君のこの会話を果たしてきちんとした『意思の疎通』と見做すかは、人それぞれだと思う。でも、オレとしてはこうして膝の上に乗せてもらいながら、ゆったりとした時間を過ごしながら聞く人間の話は『犬と人間の会話』として成立していると考えている。きっと、生まれ変わる前の人間の頃だったら、そんな風に思わなかったかも知れない。
コンコンコン!
珍しく、別棟のドアをノックする音が外から聞こえてきた。来客はそれほど多くない場所だし、何より精霊騒ぎの一件でブーケ姫は働きづめだったから、今日ここに留まっていることを知るのは限られた使用人だけだ。
「はあーい、どちら様ですか?」
「私です。庭師のメイアです!」
「今開けますから、まっててくださいね」
小屋の番人をしていた庭師の女性は、記憶喪失になったものの体調は次第に回復し、再び庭師としての仕事に従事している。彼女を出迎えるために、パタパタと用事を片付けて玄関へ向かうリオ。
記憶を失う前に比べると、庭仕事の知識が格段に減ってしまったらしいが、それでも魔王城の役立てるようにと新たに勉強し直しているそうだ。
来客ということでオレはケージに戻らさせて、ブーケ姫は庭師が持ってきた資料に目を通す。すると、ふとその手が止まったように見えたが、それも一瞬のことで……あとは何事もなかったように資料を再び封筒にしまった。
「魔王城の偵察部からの資料、どうもありがとう。無理すると良くないし、今日は早めに休んでちょうだい」
ケージの中で眺めるブーケ姫は、仕事のできる大人の女性といった雰囲気で、なんだか遠い人のように感じる。庭師が例の小屋に戻ると、そわそわと資料をもう一度見直し始めた。
「姫様、その資料に何か重要な情報があったのでしょうか?」
「ええ……連れ去り犯に殺されかけたメイアの手前、あまり資料を広げられなかったけれど……ほら、これ。パピリンは……パピリンは聖母と呼ばれる犬として生きているわ」
そこにはあの日以来、動向がわからずじまいだった愛犬パピリンのその後の生活についてが細かく記されていた。