29話 赤いインクの染みは、まるで誰かの血のようだった
「きゃんっっっ(ブルーベル!)」
伝記にかけられた魔法陣を介して過去の世界へと送り込まれたチワワのオレ。運良く眠りについている間に、伝記の中へと魂が潜り込めたようだ。この伝記の中でだけは、過去も未来も関係なく自由な時間軸でやり取りができる様子。
部屋の中でオレを求めて泣いている飼い主ブルーベルに無事を知らせるため、渾身の力で吼える。すると、願いが神に通じたのか……ブルーベルの耳にオレの声が聞こえたようだ。
「えっ……ハチ? 今、ハチの鳴き声がしたよね。ブルーベルって、呼んでいた気がするの」
「ええ。私もたしかに聞き届けました。チワワ特有の高い声で、飼い主を呼ぶような鳴き声が……」
いいぞ、早く気づいてくれ。チワワのハチはここにいる……伝記の中に閉じ込められて、過去の世界を彷徨っている。だけど、必ずブルーベルの元へと帰るから……泣かないでくれ!
「きゃんっきゃんっきゃおうん」
気づけ、気づけ、お願いだからオレが伝記の中に閉じ込められていることに気づいてくれ!
まるで、何かにせき立てられるように吼えるオレを放って置けないはずのブルーベルとメイドさん。キョロキョロと部屋の中を動き回り、そして……ようやく机の上に置かれた伝記へと目線が集中する。
「……この伝記、ローゼリアから貰ったチワワのご先祖様について記されている本。ハチの声は、この中から聞こえたわ」
「ええ、机の引き出しにも机の下にもハチはおりませんが。それでも、鳴き声はこの机から聞こえてきます。正確には、この伝記の中から」
「そうだよね……さっきから、ページがパラパラと捲られていて落ち着かない雰囲気があったけど。窓から風が漏れているのだとばかり思っていた。ハチ……そこにいるの? ハチは何処のページにいるの」
ゆっくりと、細く小さな手でブルーベルが一枚ずつページを捲っていく。昨夜一生懸命読んだ伝記だが、流し読みしていても分かるくらい内容が変化してしまっていた。その変化した内容に……驚きのあまり、ピタッとページを捲る手が止まる。
「如何されました、ブルーベル姫」
「あのね、この伝記……昨日読んだ内容と、なんだか展開が全然違うの。私の記憶違いでなければ、ブーケ姫は長年行方不明になっていた婚約者と再会して、2人で闇に閉ざされた森を復活させるはず。けど……このストーリー展開は、まるで」
どうやら、ブルーベルの手元にある伝記にはオレの目線では知ることが出来ない情報がいくつか書かれているようだ。物語の本筋なら、ブーケ姫の婚約者が帰ってくる頃合いだったのだろう。だが、ブーケ姫の婚約者はまだ出てきていないし、愛犬パピリンの出産に向けて小屋で準備中だ。
今のところ、ブルーベルの読んだ話の筋とは離れていると言っても良い。しかし、問題点は婚約者が戻らないことそのものではないらしい。
「落ち着いてくださいな、姫様。まずは、この物語の本筋と改変されたストーリーの違いを見極めなくては……。失礼、私も一緒に内容を読ませていただきますね……」
メイドさんは物語を読むことに慣れているのか、まるで語り部のようにストーリーの大まかな筋を抜き出して読んでいく。
『魔族の姫君であるブーケの元に現れたのは、未来からやってきた子犬でした。彼の名はハチ……未来の姫君が飼っている優秀な使い魔候補です。彼が過去に召喚されたのには訳がありました。ブーケ姫のかつての婚約者であるあの人から……この魔王城を守るためです……?』
意外な内容に驚いたのか、思わずメイドさんが本の読み上げを辞めてしまう。昨日までの話の展開が本筋なら、ブーケ姫の元婚約者は一緒に闇の森を再生させてくれる良い人のはずだ。その設定が捻じ曲げられて、一転して悪役になってしまっているではないか。
「ハチがこの伝記の中に呼ばれた本当の理由は……未来からやってきた別の派閥に対抗するためだって、この伝記には書いてある。大丈夫かな? ハチはまだきちんと魔法を覚えていないのに……戦うなんて無茶だよ。それに、どうして良い人だったはずのブーケ姫の婚約者が、悪役として登場するの? まるで、本の設定が誰かの手によって歪められてしまったみたい」
「そうですね……しかも、未来からの来訪者とは一体。万が一、本当にこの伝記が真実で……現在進行形で歴史が改変されてしまったら。この時代の魔王城や我々の歴史にも変化があるやも知れません! 大変だわ……姫様、ハチはストーリー上まだ無事のようですし。取り敢えずは、魔王様に現状を報告致してきます」
「う、うん。気をつけて……私は、ハチが今どの部分にいるか調べるから」
慌てて部屋を飛び出すメイドを見送り、再びパラパラとページを捲り始める。チワワのハチがブーケ姫の仮使い魔になり、ミルク粥を作ってもらい、初めての戦闘。
ジャーキーをご褒美に貰ってだいぶブーケ姫に懐いてきたところで、目的地の小屋に到着。疲れてしまったハチはスヤスヤと眠り……夢の中で元の飼い主に話しかける。
「あった! 多分このページだよね。あれっ……ハチが眠ったあとは余白になってる……真っ白だ。そうか、ハチは物語の隙間を縫って私に会いにきてくれたんだね」
「くぅーん」
「うふふ。ページの余白に可愛い肉球の跡がある……これってハチの肉球だ。大丈夫だよ、ハチ……私がパパやお城の人達と協力しあって、必ずこの時代へ帰れるようにしてあげるから。あのね……ブーケ姫の元婚約者には気をつけて、エサとか貰っちゃダメだよ。実は彼は……」
白い紙の上にはオレの肉級マークしかなかったはずだが、気がつけば赤いインクの染み。
「きゃっ、やだ。突然赤いインクが滲んできて……ハチ、とにかく気をつけてね」
「きゃうーんっ」
ブルーベルがオレにこの伝記のネタバレをしようとすると、伝記にかけられた魔法の規約に引っかかったのか、ブルーベルとの邂逅が途切れてしまう。
(なんだ……まるで血の跡じゃないか。一体何が起きているんだ?)
* * *
迫り来るような赤いインクに、これ以上この紙の上で眠るのが怖くなってしまう。ふるりと身体を震わせて、次第に目が覚めていく。すると、眠りすぎたのか、すでに小屋の中は夜になっていたようだ。けど、違和感はそれだけではない……ゴトンッ! と大きな何かが床に倒れた音が隣の部屋から響く。
そして、床に滲み始める……赤い、赤い血。
「ふう……久しぶりに魔王城に帰還したが、入り口付近にこのような小屋が出来ているとは。まったく、オレの呪術を阻もうなんて……可哀想だが、庭師の女よ……これも運命だ。ブーケは外に出ていないし、今が潮時か……」
暗がりから出てきたのは見慣れぬ男……オレは先ほどまでケージの中で眠っていたし、今もまだ眠りから覚めていない状態だが。何者かか侵入してきて誰かを殺したことだけは察することが出来た。庭師の女と言っているところからすると、あのお姉さんが殺されたのだろうか?
ブーケ姫の不在を狙ってきたようだけど、彼は何者なんだ。いや、さっきブルーベルが言っていたじゃないか、『ブーケ姫の婚約者に気をつけるように』って。
一体何なんだ……どうして話の筋が変わってしまった?
ひとつだけ確かなのは、こんな時にケージの中で震えることしか出来ないオレはやはり弱い子犬だということだ。目を瞑ると再び白い紙の上を彷徨うようで、とても不安になる。オレの肉球の足跡を追うように赤いインクの染みが追いかけてくる。
――あの赤いインクの染みは、まるで誰かの血のようだった。