ひび割れ鏡
これは、とある人から聞いた物語。
その語り部と内容に関する、記録の一篇。
あなたも共に、この場へ居合わせて、耳を傾けているかのように読んでくださったら、幸いである。
おお、つぶらやくん。君、スマホの操作分かるかい? いや、休みも明けたし、区切りがいいからスマホデビューをしたのはいいのだけど、まだ操作に慣れていなくってね。差し当たり、スクリーンショットの撮り方を教えてほしいんだが。
……ほうほう、ここをこうやってスライドねえ。ありがとう、助かったよ。
いやはや、私が若い頃なんか、携帯電話そのものが夢のような代物。SFの中でのみ登場する便利ツールのひとつだと考えられていた。
それが今やたいていの個人が手にしていて、電話のみならず、インターネットにつなぐこともできるっていうから、驚いちゃうのなんの。これまでの人生経験を急速に塗り替えられている感じで、なかなかついていけない。
その点、若い子たちがすんなり受け入れていけるのも、人生で初めて触れるスタンダードがこれだからだろうな。ファーストインプレッション、そして後についてくる思い出補正は、生涯、拭い難い記憶を私たちに与えてくれる。それこそ、「はっきり覚えていなくても、身体に染みついている」というレベルでね。
時々、ひび割れたスマホを使い続けている子を見ると、たいした器用さだなと感じるよ。パソコンでも、ほとんど画面が見えないくらいに大きな亀裂が入っている状態で、使い続ける人もいるがね。私は、とても同じ芸当はできそうにないな。
操作に慣れていないのに加え、ひびが入ったものについて、あまりいい思い出を持っていないんだよ。ちょっと昔に奇妙なことを体験してね。
――え? その時の話かい?
ふうむ、別に構わないよ。休み時間にでも話そうか。
私が中学生になったあたりから、周囲には手鏡やコンパクトミラーを持ち歩く子が急増した。実際は、以前よりカバンに入れていたが、人前で取り出すことが増えたというのが、正確なところだろうか。クラスの自分の席で、鏡を見ながら枝毛の処理を始めている子も見かけたっけなあ。
男子にはそこのところの感覚を解する者がおらず、うっとおしさを感じている奴もいたねえ。この手の化粧とか身だしなみを整えること、男子には「もたついている」ようにしか見えなかったからなあ。
私自身も彼女らの「おめかし」に懐疑的な一員だったが、そのうちの一人の女子にふと違和感を覚えたんだ。
たまたま隣り合った席に座ることになった女の子。彼女の手鏡はアンティーク調で、柄のついた丸いミラーを持っていた。柄の部分は曲がってスタンドにすることも可能で、両手メイクにも対応したタイプだったよ。
だが、どこかで落としたのか、鏡面には無残なひびが入ってしまっている。鏡の右下の縁から端を発するひび割れは、左上へ向かい、鏡の中ほどにまでその手を伸ばしている。
のみならず、右下に近い部分は割れた際に破片となって飛び散ったのか、鏡そのものがなくて、底にあたる黒い部分がむき出しになっていた。
割れた鏡などという縁起の悪いものを、どうして使っているのか? その理由の一端をを見ることになったのは、ひと月くらいが経ってからだ。
ゴールデンウィーク明けの時期。クラスにほとんど人がいない昼休みに、いつものように鏡を見つめていた彼女だったが、だしぬけに右手を伸ばしたかと思うと、残っている鏡の端を、デコピンの要領で弾いたんだ。
その瞬間をクラス中で捉えていたのは、おそらく私だけだったと思う。他の残っている人は身内のおしゃべりに夢中で、彼女の方を見やってはいなかったから。
よほどうまい弾き方だったのだろう。葉脈を思わせる鏡面の亀裂から、小さい破片がひとつだけはずれて、机の上へ転がった。
親指の先から第一関節までの長さ、大きさを持つそのかけらを、彼女は自身の左手の中へ握り込んでいた、お守り袋の中へねじ込む。「じゃら」っと音を立てたお守り袋を、そそくさと机の中へしまい、大きくため息をつく彼女。
よほど集中していたらしく、一部始終を隣の席からじっと見ていた私の視線に気づくまで、数秒の時間を要した。やがて彼女がこちらを向き、私の顔を認識するや、目をひん剥いて尋ねてくる。
「見たの?」と。
私がうなずくと、彼女はしまいかけた鏡を、もう一度スタンド状態にして机の上へ。慌ただしく鏡の端を弾いて、またかけらをひとつだけ作った。
先ほどよりサイズが大きい、鏡の破片。今回は彼女の机の上で、はっきりと音を立てて転がり、近場に座る何人かがこちらを見やってきた。
それらを一顧だにせず、彼女は転がった鏡の破片を私へ手渡してきたんだ。
「あれを見ていたのなら、狙われるかもしれないから、持っていて。お守り袋とかあったらその中がベスト。今日一日、肌身離さず、すぐ取り出せる場所に入れてね。
そしてもし、袋越しに熱くなることがあったら……急いでその場を離れて。鏡を取り出して、それを見ながらね」
一方的にまくし立ててくる彼女。口数が少ない子だったから、その勢いに押されてまともに返答できない私。
鏡のかけらを押し付けた彼女は「絶対よ」とばかりに、にらみ続けてくる。立場が逆転してしまった。
幸い、といっていいのかどうか、当時の私はかばんの中に、祖母からもらった交通安全のお守り袋を入れていた。それを取り出し、ひもで結わえてある口を開いて、中へ鏡のかけらを入れる。それを見届けると、ようやく彼女は視線を外してくれたんだ。
午後の授業は、彼女に言われた通り、制服のブレザーの胸に近い内側ポケットにお守りを入れっぱなしにした。
――狙われるかもしれないから、持っていて。
確かに彼女はそう話していた。この鏡のかけらを欲しがる誰かが、やってくるということだろうか?
私はおまもり袋の熱を気にしつつ、授業、掃除、帰りのホームルームと時間を過ごしていくが、特に異常は見受けられない。肝心の彼女はというと、帰りの号令が済むや「忘れないでね」と私に言い残して、足早にクラスを後にしてしまった。
この頃の私は、まっすぐに家へ帰ることに抵抗があった。道草を食うことはいけない、と学校で注意がされていようが、しばしば、買い食いのために下校途中の駄菓子屋へ寄っていた。
そこには私がひいきにしている漫画雑誌も平積みで置いており、今日は最新号が出る日でもあったから、立ち読みしようと足を向けたんだ。
けれど、店まであと数歩。入り口近くに置いてある、棚に入ったお菓子たちが目に入り出したタイミングで、不意にブレザーの胸ポケットが熱くなったんだ。「なんだ?」と手をやり、お守り袋を取り出してみる。
信じがたいことにお守り袋の中心は、すでに真っ黒に焼けて、小さい穴が開いていたんだ。思わず袋へ添えた手に、焦げの臭いをまとう鏡のかけらが、穴を抜けて落ち込んでくる。お手玉しそうになる熱さだったが、外気の関係か、急速に破片が冷えていく。
――もしや、彼女が言っていたことは事実?
私はかけらを指で挟み、つまみ上げた。小さくとも、かろうじて私の顔とその背後を映すことができる。私の顔の後ろでは、先ほど通ってきた景色が鏡映しになって広がっていた。特に逃げざるを得ないような、危険なものは見当たらない。
けれど、私は鏡にその場の景色を映しつつ、ぐるりと反転。駄菓子屋に背を向ける格好になってみたんだ。
そこに映るはずの、駄菓子屋の入り口が見えなかった。私の背中で、彼女が持っていた鏡の割れ目のように、黒い髪の毛のような筋が広がり、それに重なって見えなくなっていたからだ。
振り返る。そこには先ほど見た駄菓子屋の入り口があり、奥へ連なる他の店たちの軒先も、蕎麦屋の出前をしている自転車も、道路を横切る子犬の姿も見えた。
でも鏡の中に、それらはない。なおも広がる黒髪のひび割れがどんどん広がり、空の青さえ埋め始めた。しかも、それらの幾筋かは広がりを止めて、私の背中へ伸びてきているかのように見える……。
私はすぐさま、その場を離れた。小走りになりながら破片に映る背後の様子を見ると、大多数のひび割れは小さくなっていくものの、いくつかの点は同じ大きさのままで残っている。
つまり、あのひびの先端はずっと私を追って、伸び続けているということだ。
目の前の角を次々に曲がり、ひびの追跡を巻こうとする私。鏡をのぞき込みっぱなしだから、前方不注意。何度か自転車のベルや、車のクラクションを鳴らされた。そのたび、一瞬だけ顔を上げては道の端に寄り、また鏡をのぞき込む。
ひび割れはしぶとく追ってくる。何度か角を曲がり、いよいよ見えなくなって安心かと思いきや、鏡は熱を持ったまま。
「もしや」とまた向きを変えてみると、私が進もうとした方向が、ひびで埋め尽くされている景色が鏡に映る。巻かれたフリをして、奴らは先回りし、待ち構えていたんだ。
――道に沿った逃げ方じゃダメだ。
私は近場のブロック塀をよじ登り、他人様の家の敷地を横切ること三度。地図の上での最短距離を通り、家まで直行した。
玄関の前まで来た時、鏡はもうすっかり冷え切っていて、髪の毛のようなひびはもう映らなかったよ。
念のため、鏡を握りしめながら過ごした晩が明けて。
通学路にあたる、例の駄菓子屋の一角には人だかりができていた。立ち入り禁止のロープが張られて通れず、遠回りを強いられる。
聞いた話では、あそこで殺人事件が起こったらしい。被害者は、自転車に乗って出前をしていた青年。最初の目撃者によると、その遺体は奇妙かつ凄惨で、身体中に張り巡らされた血管に沿ったかのように筋が入って、全身が「ひらき」になっていたのだとか。あまりに細かく枝分かれしていて、葉脈のようだったとも。
学校に着いても、クラスではその話題で持ち切り。臨時の朝会が開かれる運びになったけど、隣にいる彼女は落ち着いていて、周囲の話し声をしり目に、おもむろに私へ話しかけてきたよ。
「鏡のかけら、持っていて正解だったでしょ?」と。




