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婦人  作者: 戸袋荷物
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横浜市までの電車は思いの外長かった。

電車に揺られながら、私は婦人のプライベートを探ってみたい衝動に駆られた。すべての情報と思しきものは、今、このバッグの中にある。それを分かっていて何もせずにいることがこんなにももどかしいとは思わなかった。暇を持て余し、デパートで野菜を買うような金持ちの彼女の人生とは一体どんなものだろう。今の私は婦人なのだから、自分自身のことを知っても問題はないし、何より、家に帰る前に多少の情報を集めておかなくては後で困るのは彼女なのだ。


私は婦人の携帯を覗いてみた。

他人の携帯を勝手に見るということへの罪悪感は計り知れず、今の自分は婦人なのだと分かっていても思いの外それは勇気がいった。

シルバーの新型iPhone は花柄のケースで彩られ、待ち受け画面は、どこかで見たことがあるが私には名前も分からない有名な西洋絵画である。さすが婦人、どこまでも隙がない。

指紋認証でロック画面を開き、メールや着信履歴、データフォルダなど、婦人の身元が明らかになりそうなものを手当たり次第に探していく。

やはり、ラインは便利だ、ちょっと覗けば交友関係がすぐに分かる。

婦人は今五十代。私の三回りくらい年上だろう。友達は料理教室やフラワーアレンジメント教室のクラスメイトが多い。

彼女の名前は、フジイサクラコ。

「えっ」

まさか。いや、そんなわけない。サクラコ、なんて名前の人はこの世にごまんといるのだし、私だって今までに何人ものサクラコに出会ったことがある。でも、やっぱりおかしい。

あれ、考えてみれば、なんで携帯のロックが私の指紋で開いたのだろう。妙な胸騒ぎがする。

私は、高鳴る胸の鼓動を抑えつつ、もう一度財布から保険証を取り出した。


氏名 藤井桜子

生年月日 平成6年7月14日

性別 女


私は、背筋に電流が走った気がした。額や脇からは冷水の様な汗が出て、瞬きの仕方を忘れた瞼が引きつったまま静止している。

嘘でしょ?

声にならない声が頭の中だけで響き渡る。

だって、そんなのあり得ないから。

普通に考えて、まず身体が入れ替わるなんてあり得なかった。それを、仕事から逃げられてラッキー、なんて受け入れていた私もどうかしていたが、それ以上にこの状況はどうかしている。

どこかの金持ちの誰かに違いなかったはずの彼女は、他の誰でもない。


彼女の正体は、私なのだ。


何故?どうして?どうやって?

思考が停止し、それ以外の言葉が浮かんで来ない。

だって、私とは似ても似つかなかったはずの彼女が、私自身で、何故そんなことになっているのか、夢なのか、現実なのか、それとも私の気がおかしくて幻覚でも見てるのか、記憶をなくしているのか…

よく考えよう。

私は今、井上桜子だが、いずれは藤井桜子になる。いや、今の私はもうすでに藤井桜子だが、本当の私はまだ井上桜子で、藤井なんて人には出会ったこともないわけで、今が一体いつで、何年で、何月なのかもわからないわけで…

頭が混乱して自分が何を考えているのかもわからない。

でも、とにかく、身体が入れ替わっただけでなく、タイムスリップ的なことにもなっているらしいことは分かった。いや、身体は自分自身のものだから正確には身体が入れ替わっているとは言えないのだが、とにかく、今は、私は藤井桜子なのだ。


深く深く、深呼吸をしてみる。

冷静に、冷静に。

そう、考えたって仕方がない。事実は事実で何も変わらなし、意味が無い。とにかく今出来ることをしよう。


私は、ラインの調査を再開した。その前に、この時代にもラインが存在しているという事実に密かに感動を覚える自分がいる。そんなことはどうでも良いのだけれど。

仲の良い友人は、フラワーアレンジメント教室の雅子さん。昨日も表参道のカフェでお茶したらしい。

「やっぱりエスプレッソは淹れたてに限るわね」と雅子さん。

婦人、もとい私は、「本当にそうね、でもなんだかんだ言って私は日本茶なのよね〜」と返している。

「その気持ち分かるわ。じゃあ次回は日本茶のおいしいお店にしましょうよ」

「そうしましょう」

自分で言うのもなんだが、私は随分呑気だ。

ラインのトーク履歴を見ていると、待ち合わせに遅れることがしょっちゅうあることが分かった。まるで私みたいだ。というか、私なのだけれど、つまり今の私みたいで歳をとっても変わっていないのか、という発見である。

私はギクリとした。今頃、私の身体の主となっている誰かも、私のスマホを調べているだろう。誰に何を言われるわけでもないが、遅刻魔であることや、彼氏に電話ばかりしていること、既読せずに溜め込んでいるやりとりの存在に、その誰かも辟易しているに違いない。私の身体の主が私自身であることを願うばかりだ。

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