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婦人  作者: 戸袋荷物
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気がつくと私はデパ地下の野菜売り場に立っていた。右手には真っ赤に熟れたトマトが握られている。あれ、と思った。

私はさっきまで職場に向かって歩いていて、あと三十分で仕事が始まるはずだった。それが、記憶のないうちに違う場所へ来て覚えのないこのトマトを吟味している。まるでどこかの裕福な主婦のようだ。

こんな事をしている場合ではない。こんなトマトなどどうでも良い。さっさと置いてGPSで今どこにいるか調べ、職場に向かわなくては。私は、右肩にかかる鞄に手を突っ込んで携帯を探した。鞄の中はいつもと違い整理整頓され、弄る必要などなかった。

おかしい。

鞄をまじまじと見ると、それは同じような茶色の鞄だが私のものではなかった。鞄の中身もやはり誰か別の人のものだ。

鞄を弄る自分の手を見てハッとした。こんなマニキュア塗ってたっけ。

私の手というのは、テニスサークルの練習のおかげで褐色に日焼けし、化粧気のない頑丈そうな手だった。マニキュアは料理に向かないのでほとんどしない。

しかし、今私の手は、シワシワで、白くてひ弱そうだ。爪には薄い桃色のマニキュアがしてあって綺麗に手入れされているのが分かる。

顔を触る。

嫌な予感がした。

私はトイレに駆け込み、鏡に自分の姿を映した。

あっ

思わず息を飲んだ。

そこには全くの別人がいた。


鏡に映るのは五十代の品の良い婦人である。美容院に行きたてかと思うくらい美しいカールの髪、まぁ、とか、わたくし、とか言いたげな小さな唇、冗談みたいな真珠のネックレス。驚きのあまり引きつっているのだろうか、少し額が張る感じがある。いや、もしかすると、これが噂のボトックスかもしれない。

私は、この婦人の顔をまじまじと観察した。いや、今となっては自分で自分を観察したというべきだろうか。

手で顔をペタペタと触って形を確かめる。見た目より肌が弛んでいる。それに、顔のシワは誤魔化せても手のシワは誤魔化せないようだ。

目元は流行りのまつ毛エクステかと思われる。異様に長い睫毛が勢いよく元気に跳ね上がっている。試しにちょっと引っ張ってみると、二、三本簡単に抜けてしまった。案外脆いものである。

眉毛は描いたような形に生えていて、もはや植毛か地毛かわからない。本物ではない気もする。

口を開けてみる。今にも光りだしそうな真っ白い歯が整列しているが、舌先に口内炎らしきものが見える。痛い。


婦人はそうとうの金持ちか美容オタクである。財布の中を見て、前者が正しいと分かった。婦人の買い物はゴールドカードである。



嫌な仕事だった。毎日知りもしない雑踏に向かっていらっしゃいませと繰り返して八時間を過ごしていた。

しかし、今私は仕事どころではない。不可抗力で仕事に行けないと言える正当な理由を手にしたのだ。

何もかも嫌だった。

仕事だけでなく私生活も滅茶苦茶で、逃げ出したいと常々思っていたのが現実になったようだった。神様って本当にいるのかもしれない。


でも、いくら自由の身とはいえ借り物の身体を返さないわけにはいかない。

財布の中の保険証には住所が記載されている。

婦人の家を訪ねて、いや、家に帰って、彼女の生活に穴が開かないようにしなくてはならない。

私は、電車に飛び乗ってすぐにその住所を目指した。


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