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月下の花火  作者: gojo
1/3

一、


 ドンッと音が響き、ほんの刹那、雲が朱色に染まる。

 もう花火の頃か。二階の窓から身を乗り出して思い、関口康介は、苦々しげに向かいに立つビルを見上げた。

 数年前まではここからでも花火を望むことが出来たのだが、今では新築のマンションの陰に隠れ、空気を震わす音と微かに零れる光だけが、一年という時間の経過を知らせてくれる。

 花火を見たいという妻の要望に応えてこの家を購入したのだが、これでは元も子もない。とはいえ、その妻も既に康介の隣にはおらず、ケジメという点においてはこれで良かったとも言える。

 一人でいるのは辛いのです。結婚して二十年目に妻はそう言った。彼女の望むものを与えたいと願って仕事に努めてきたが、結果、得られたものは緑色の字の印刷された一枚の紙切れであった。何を間違ったのだろう。思い返すが、脳裏に浮かぶのは共に見た花火。その景色を奪い去ってしまったものは。

 憎しみを込めてビルを睨む。自身にも非があったとは思うものの、それを認めることが出来ずに目の前の建築物に責任を転嫁する。

 花はビルに奪われた。いま一度ひらけた空を望むことさえ出来れば、安穏とした日々を取り戻せるのではないだろうか。馬鹿げた妄想であることは承知しつつも、康介は、そう思わずにはいられなかった。


 長いこと花火の音に耳を澄ましていると、もう一つ別の音が届いた。カシャッ、カシャッという機械的な音。見れば、隣の家の庭に髪の長い女性がいる。月明かりの下、その女性はスマートフォンで写真を撮っていた。どうやらそこからは花火を望むことが出来るようだ。

 羨ましいと思うと共に疑問を抱く。康介の知る限り、隣の家では老齢の女性が一人で生活をしていたはずだ。しかしながら、そこにいる女性は明らかに若い。おそらく二十代前半であろう。

 ひとつ声を掛ければ、その疑問を解消することも出来るのだろうが、隣人とは然して親しくない上、見えもしない花火に耳を澄ましている自身の姿が恥ずかしくなり、康介は、そっと、部屋の奥へと引き戻った。



 + + +



 翌朝、縁側から、と言っても奥行が二尺ほどしかない小さなものだが、そこから康介はホースで庭に水を撒いた。

 園芸は趣味ではないが、妻が迷惑な土産として幾つもの鉢植えを置いていってしまったため、詳しい世話の仕方を知らないながらも、毎朝、水を与えることが日課となっていた。当然、日曜日であろうと午前中のうちに目を覚まし、水を撒いている。

 名も知らぬ花や草が、露に濡れ、揺れる。すると近くから声があがった。


「サボテンには、あまり水をやらないほうが良いですよ」


 声の出処を求めて視線を泳がすと、隣の庭に昨晩の女性がいた。庭と庭の境界にある背の低い柵の向こう側で、康介と同じく鉢植えに水を与えている。ただし、ホースから直接ではなく、一つひとつジョウロでだ。


「多肉植物って湿気を嫌いますから、水を与え過ぎると腐っちゃいますよ」


 なおも話し掛けてくる彼女に対し、康介は短く礼を述べ、それから、「君は?」と尋ねた。

 彼女は我に返ったように居住まいを正し、「二ノ瀬鈴香」と名乗った。祖母の看病のために大学が夏休みの間、一人でこちらに来ているそうだ。


「二ノ瀬さん、入院したの?」

「はい。階段でつまずいて骨が折れたみたいです。ソコツ症だったかな?」

「骨粗鬆症だろ」

「ああ、それです、それです」


 鈴香の口調は軽く、またショートパンツにTシャツという出で立ちの所為もあってか、その姿は非常に幼く見えた。事実、彼女はまだ二十歳で、親子ほども歳の離れた康介からしてみれば、そう思えて当然だ。だが、前夜に見た薄闇の中の彼女はどこか物憂げで、もっと大人っぽかったと記憶している。

 その印象の差に戸惑っていると、彼女は軽やかに笑い、「半月程度の短い間ですけど」と述べ、続けて、「宜しくお願いします」と言って頭を下げた。

 康介も小さく会釈をする。それを認めた鈴香は背を向け、家屋に向かって歩きだした。ところが、扉をくぐる直前に振り返り、彼女は一つの鉢植えを指差して言った。


「あ、その花も多肉植物ですけど、それだけは水をちゃんとあげてください」

「花?」


 指し示されたのはサボテンのような植物であり、「花」という呼び名は似つかわしくない。


「はい、花です。もうすぐ咲くと思いますよ。もともと熱帯雨林の植物なんで、水を好むんです」


 康介は鈴香の博識振りに感心して何度も頷いた。

 すると、彼女は更に言葉を続けた。


「ちなみにその花は、月下美人って言うんです」



 + + +



 仕事のある日は早朝に水を撒く。丁度その時間は鈴香の起床時間らしく、康介がホースを持って縁側に立っていると、毎日のように彼女は挨拶をしてきた。加えて花の育て方、それこそ剪定から施肥に至るまでを、さりげなく語る。

 聞けば、鈴香は大学で植物について学んでいるらしく、花の知識があるとのことだった。ただし、研究職を目指している訳ではなく、手頃な理系受験の学校だったので入学しただけだそうだ。その話を聞いた際、志が低い、などと野暮なことを思いもしたが、近頃の若者はこんなものかも知れないと考え直し、康介は言葉を飲み込んだ。しかし。


 本当に近頃の若者は、こんなに諦観した目をするものだろうか。


 鈴香は人当たりの良い雰囲気を備えてはいるが、時折、酷く冷めた面持ちで虚空を見つめることがある。思い返せば、花火の写真を撮っていた時も、その表情に色はなかった。康介の求める、ひらけた空に浮かぶ花を、目の前にしていたにもかかわらず。

 そんな彼女の様子は少なからず興味を抱かせた。けれども、相手はただの隣人。互いに深入りすることもなく、ただ日々は過ぎていった。



 + + +



 鈴香と出会ってから五日目の夜、康介は早くに仕事を終え、西の空にまだ薄日が残る頃に帰宅した。

 いつも通り誰もいない部屋の明かりを点け、食卓の椅子に腰を落ち着かせる。その時、呼び鈴が鳴った。独り身になってからというもの滅多に人が訪れることはなく、康介は訝りながら玄関へと向かった。


 扉を開けると、そこには、鈴香がいた。彼女は薄闇を背負い、頼りないポーチライトの明かりの中でビニール袋を片手に立っていた。


「やあ、珍しいね、こんな時間に」


 そう声を掛けると、彼女は白い歯を見せて笑った。


「夜分遅くにすみません。お願いがあって伺ったんです」


 ビニール袋を差し出される。その中には、小ぶりではあるが、丸のままのスイカが入っていた。


「これ、お婆ちゃんの友達から頂いたんですけど、一人では食べ切れないので受け取って欲しいんです。是非、ご家族で召し上がってください」


 家族、という言葉を耳にするのはいつ以来であろう。おそらく鈴香は、広い戸建てと、鉢植えの並ぶ庭を見て、妻がいるものと勘違いしたに違いない。

 康介は聞き流そうとも思ったが、彼女と同じくスイカ一個は多すぎるため、恐縮しつつ提案を持ちかけた。


「悪いね、俺は独り身なんだよ。そこでどうだろう、半分だけ貰えるかな」


 その言葉を聞いた彼女はバツの悪そうな顔をし、慌てて返事をした。


「あ、え、じゃあ、切ってきますね」


 すぐさま引き留める。


「ああ、うちで切るよ。少しくらい待てるだろ」

「それならわたしが切りますよ。台所をお借りしても良いですか」


 康介が曖昧に頷くと、彼女は部屋に上がり込んで手際良くスイカを両断した。そして首だけで振り返って、こう尋ねてきた。


「関口さん、すぐに食べます?」


 察するに、小分けに切るか否かの確認であろう。康介は申し訳ないと思いながらも、小分けにでもなっていなければ以降も食べることはないと考え、「ああ」と短く返事をした。


「じゃあ、一緒に食べましょう」


 康介の返答を待たず、鈴香が次々とスイカを切り始める。


「おいおい、一気に全部食べるのか? 多いだろ」

「二人なら大丈夫ですよ。あ、適当なお皿を使わせていただきますね」


 そうして、食卓の上に大量のスイカが並んだ。それを見た彼女は、「壮観な光景ですね」と言いながら、他人事のように嬉しそうにしている。

 その向かいで康介は、諦めたように呟いた。


「まあ、晩飯もまだだったし、丁度良いだろ」


 鈴香が覗き込むように康介の顔を見る。続けて、ポケットからスマートフォンを取り出し、カメラのレンズを食卓に向ける。


「せっかくだから写真撮っとこ」


 カシャッと音が鳴ると同時に、冷めた気配が彼女から漂った。それは一瞬のことであったが、これまでに積み重ねられてきた違和感の所為もあって、康介は尋ねずにはいられなかった。


「記念撮影をするなら、もっと楽しそうにしたほうが良いんじゃないか?」

「え? どういう意味ですか?」


 頭の中に、花火が打ち上げられた時の鈴香の姿が浮かぶ。


「とても、つまらなそうだ」


 彼女は、自覚がないのか、不思議そうに首を傾げた。


「そんなこと、ないですよ」


 微かに気まずい雰囲気がしたため、康介はそれ以上何も問わず、鈴香に席に着くよう促してスイカを食べることにした。


 二人で噛り付く。しばらくの間、お互い無言であったが、白い部分を露わにした皮が数枚重なった時、唐突に彼女は口を開いた。


「たぶん、ただの素材なんだと思います」

「ん? 何が?」


 鈴香は淡々と語りだした。


「あ、さっきの記念撮影の話ですよ。わたしにとって被写体は単なる素材なんだと思います。それをSNSなどに投稿して、誰かと情報共有することに価値があるんじゃないですかね。そうすることで、同じ気持ちを抱く人と繋がれて、安心できるんです、たぶん」

「言いたいことは分かったが、感覚的には理解しがたいな。気持ちなんて一人で抱くものだし、それで充分だ。例えば、そう、スイカは旨くないか?」

「はい、美味しいですね」

「一人で食べたとしても感動するだろ?」

「感動って、大袈裟ですよ」


 何が面白いのか、彼女は声を出して笑った。その様子を見ながら康介は、スイカを一口かじって飲み込み、不服そうに述べた。


「で、その花火の、あ、いや、スイカの写真は、共感を得るための素材として利用されるのか」


 鈴香はスイカの種を指で取り除きながら答えた。


「そうですね。友達や彼氏に見せてコメントを貰えると思います」

「彼氏がいるのか?」

「一応、いますよ」


 その言い方は実にあっけらかんとしている。


「彼氏がいるのに、独り身の男の家に上がるのは良くないだろ」

「関口さんはお父さんみたいなものじゃないですか」

「過信しないほうが良い」

「変なことしたら駄目ですよ」

「冗談だよ」


 彼女は再びクスクスと肩を震わせ、そして、ひとしきり笑うと、椅子の背もたれに寄りかかって大きく息を吐き出した。


「どうした? まだスイカは山ほど残ってるぞ」

「もうお腹いっぱいです。あとはお願いします」

「おい、冗談だろ?」



 + + +



 結局、スイカのほとんどを康介が一人で食べ切った。

 その間、鈴香は隣で応援をしているだけであった。


「スイカをありがとう」


 玄関先で嫌味っぽくそう言うと、鈴香はからかうように微笑んだ。


「どういたしまして。とても楽しかったです」


 どうにも決まりが悪く、たどたどしく応じる。


「あ、そうか、うん、それなら、良かった」


 彼女は肩をすくめ、それから視線を落とすと、サンダルで足元の砂利を転がしながら言葉を紡いだ。


「あの、関口さん、わたし毎日ヒマなんですよね。だから、明日から、夕食をご一緒させてくれませんか?」


 まだ熱を帯びた夏の夜の風が、花の蕾を、小さく揺らした。



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