18-人の法と神の混沌
夢を見た。向こうの世界のことを。こちらの世界に来た日のことを。こちらの世界で過ごした日々のことを。どれも、これも、どの思い出も。血塗れていた。
窓から差し込む陽光で、俺は目を覚ました。欠伸をして体を起こすと、ちょうど陽が昇ったくらいの時間のようだ。こんな健康的な生活にもすっかり慣れてしまった。堕落していられる時間はとっくに終わっていたのだ。
起き上がり着替え廊下に出ると、既に出支度を整えたハルがパタパタとカーペットの敷かれた廊下を走っていた。それにしても、結構な大荷物だな。
「よう、お疲れさんハル。今日はあの仕事なんだろうけど……」
「ん、ああ。もしもの時のためにな。色々用意しているんだ、これでも」
「大袈裟だな。教会に行くんだろう? そんなマズいことには……」
「ならない、と思うがな。警戒をしておくだけ無駄はない。それに……」
そこで言葉を切り、何事かを言おうとしたが、ハルは二の句を次がなかった。しばらくの間目を伏せていたかと思うと、真剣な目で俺のことを見た。
「武彦。何があっても、レニアたちを守れ。それがお前のすべきことだ」
「……なんだよ、藪から棒に。そんなこと、当たり前だろうが?」
それを聞くとハルはふっと微笑み、何も言わずに去って行った。何だったんだ、あいつは。さっき、いったい何を言おうとしていたのだろうか?
……これじゃあまるで、今生の別れじゃないか。
縁起でもない。
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王都中枢、『天翅の塔』中腹。来客用の応接室には異様な雰囲気が漂っていた。それはひとえに、そこに現れた2人の男の雰囲気と言って差し支えない。
「あなたをお呼びした意味が、分かっておられるでしょうか? 猊下」
1人はアルグラナ王国国王、ドラコ=アルグラナ。
「さて……分からぬな。私も忙しい、手短にお願いしたいものです」
そしてもう1人は七天教会教皇、セプタ。いずれ劣らぬ使い手であり、この世界の命運を握る真の支配者たち。連れ添う者たちの頬を脂汗が伝う。
「大陸全土で未だ消えることのない、人道的な罪に対する話です。猊下」
ドラコは手持ちの資料を、机の上に投げ捨てるようにしておいた。大変失礼な態度だが、撒き散らされた資料を見れば誰もがその理由に納得するだろう。そこに記載されていた事実は、正常な人間であれば気分を害するようなものだった。
「防備の整っていない村落を国籍不明の兵士たちが襲撃している、か。
老人は殺され、体の弱いものは殺され、そうでないものは振り分けられる。
痛ましい惨事だな、これは」
「大変痛ましい。教会が関わっていなければもっといいのでしょうがね」
「……我々がこのような蛮行に関わっている、と? いかな証拠をもって?」
『証拠はあるのか』。陳腐なセリフだった。だが、それを口にしているのは教皇だ。そんな言葉にも、どこか威厳があるようにハルには聞こえてしまった。
「もちろん、あります。この事件に関わった人間を確保しましたから」
「ほう! それが教会関係者であった、と? しかし……」
「もちろん教会からの登録は抹消されていた。公的に関わりのない人物だ。
だが、教会から彼に対して資金を援助していたという報告は上がっている。
教会の人間が破門された後も、彼と何度か接触していたという事実もある。
どういうことでしょう、これは」
「個人的な交流を規制していませぬ故。私には分かりかねますなぁ」
あくまでしらばっくれる狸。静かな交渉に納得し切れない者もいる。
「はぐらかさずに答えていただきたい、教皇猊下!」
「鹿立! よせ、いまここで声を荒らげたところで……」
「襲われた村の中には俺の知己もいたのだ。奴は惨たらしく殺されてしまった!
いままでは、野盗か王国の仕業だと思っていた……しかし!」
鹿立は机をまた叩き、教皇を威圧した。
教皇は震えることさえしなかった。
「答えていただきたい、身の潔白を証明できると思っているのならば! もしも……」
「まあ、ここまで証拠を集められては言い逃れは出来まい。答えはイエスだ」
ハルも鹿立も、ドラコでさえも一瞬教皇が何を言っているのか分からなかった。あまりにも自然に、あっさりと、教皇は非人道的な行為への加担を認めた。
「……なぜそんなことを? 神の使徒として、恥ずべきことでは……」
「否。私は教義に沿っているよ。ただし、人には知らせていない教義だが」
教皇は立ち上がり、部屋の奥にあるガラス窓の前に立った。
「陽光神の教義はね、生き物が生き物らしく生きることを至上としている。
すなわち、繁栄を求める。そのためならばどんな行為でも許容するのだ」
「そんな……そんな邪教が、あるはずがあるまい!?」
鹿立は思わず立ち上がった。危険な殺気を漲らせながら。しかし、剣呑な雰囲気を前にしても教皇セプタはまるで揺らがない。柔らかな笑みを浮かべるのみ。
「邪教か。対立する者にとってはそうかもしれない。だが、これが一番いいぞ。
宵闇の女神が信奉する、神の秩序に従わなければならない世界よりはな。
その世界では、人が自らの欲望に従って生きることすらも許されないのだ。
人は人でいられない」
ハルは鼻根を寄せた。何故教皇が宵闇の教義を知っているのか、と。
否、それ以上に。
(まるで、宵闇の女神が生きていることを知っているような口ぶりだ……)
ドラコは目を伏せ、ゆっくりと言い渡した。
「お認めになるのならば、仕方ありますまい。あなたを裁く、王国の法で」
「異なことを。神の法に従った者を、人の法によって裁けるとお思いか?」
「それが人が人らしく生きるということだ。野放図ではいられないのだ」
教皇はドラコを酷く軽蔑したような視線で見下ろした。
「所詮宵闇に加担する異端者か。であるからこそ、私はやらなければならない」
教皇は両手をわざとらしく広げた。瞬間、空が漆黒の雲に覆われた。
「これは……! あの時と同じだ」
その場にいた一同は、先頃の決戦を思い出した。すべての決着がついた後、空が黒い雲に覆われた。そして、そこから落ちて来た漆黒の星がすべてを変えた。
「神の世界はそこにある。何故ならば、あのお方が降臨なされるのだから!」
雲間から光が差し込み、それは空に開く穴となった。そして、眩いばかりの光が視界を包み込む。薄目を開けたハルは、それを見た。
光に包まれ、降臨する陽光神。
ラーナ=マーヤの御姿を。