夜啼之奇談
登録してからの前哨戦ってことで。
かつて書いたルーズリーフ一枚分の作品が手元にあったので書き写してみました。
どうぞお手柔らかに。
最初は、誰かが口笛でも吹いているのかと勘繰りました。しかし、このような森の中にそのような奇特な者が居るはずもなく、辺りを見回しても鬱蒼とした木々以外には何も見えませんでした。きっと、木の虚を風が通り抜けてそれらしい音が出ているのだと、そう思うことにして私は道を急ぎました。時折聞こえる、ぴぃいいいー、という甲高い音に妙な胸騒ぎを覚えつつ、黄昏の森をひた歩いたのです。
数刻経っても、例の甲高い音は聞こえていました。虚のある木はとうに通り過ぎたはずで、或いは幾つもそのような木があるのか、どちらにせよ、偶然にしては出来過ぎで、やたらと気味悪く感じました。
それでも歩き続けてどれくらいが経ったでしょうか。流石に私もおかしいと訝らざるを得ませんでした。この森に入る前に聞いた話が正しければ、じきにこの森から出られるはずでしたが、一向にその気色がありません。日は沈み、夜の帳にも包まれました。そして、件の音は依然絶えず鳴り続けているのです。頭上では木々が茂って星が見えず、方角の確認も儘ならないので、一先ずこの場で一夜を過ごすことにしました。夜間での迂闊な行動は禁物、というのも然りと言えますが、それ以前の問題として、あの音を長時間聞いていると、体調が優れなくなってくるのです。頭は鉛の如く重く、視界は明滅し、脚は脚気に罹ったかのようで、全身を倦怠感が苛みました。ですから、「行動すべきでないから休む」のではなく、「行動できないから休む」という方が適当でしょう。勿論、五里霧中であるのにも拘らず夜道を行って迷うのは賢明ではないため、誰であろうと一宿を決め込むのが道理でしょうが、私の場合は、そういった類の決断を迫られるような状況には至るまでもないというだけのことなのです。
夜の森は危険です。地面に大の字で寝て、野獣に襲われるというのは笑える話ではないでしょう。私は道を少し外れて茂みの中に身を潜めました。そして目を瞑り、浅い眠りに就きました。それまでの間も、甲高い音は間断なく森中に鳴り響いていました。
夜もとっぷりと更けた頃(時刻を知る術が無いので詳細には知りかねます)、ふと目が覚めました。身体の調子も幾分かは取り戻したようでしたが、それでも全快というわけには参りませんでした。喉が渇きを訴えていましたが、一寸先は闇、何が周囲を徘徊しているか知れません。せめて近くに小川があって、そのせせらぎだけでも聞こえればと思い耳を澄ましましたが、夜の静寂だけがこの森を支配していました。風一つ立たず、ともすれば草の伸びる音さえも聞こえそうな程静かでした。そこでようやく気付きました。あの甲高い謎の音が聞こえなくなっていたのです。だから恢復していたのかと合点がいきました。はて一体全体あの音の正体や如何に、と首を捻った時、
ぴぃぃぃいいいいい――。
と、かつて聞いたものより一際高い音が暗闇を貫きました。不意を衝かれて魂消た私は、どうすることもできず、ただただ茂みの中で身を強張らせていました。再び全身が気怠くなり、頭痛がし始めました。それと時を同じくして、夜の帳の向こうに、何物かの気配がしました。それは徐々にこちらに近付いてきており、伴って甲高い音も大きく、体調も悪くなっていきました。私は息を殺し、夜闇に目を凝らします。
まず現れたのは、猿の顔でした。しかしあの音の正体が猿となると、解せぬ話です。猿は喧しく喚きますが、甲高い鳴き声は発しません。どういうことかと様子を窺い続けていると、目を疑う光景が飛び込んできました。猿の顔には、狗だか狸だかの胴体がくっ付いており、そこから虎の四肢と蛇が生えていたのです。夢か現か、どうやら私は魑魅魍魎に遭遇してしまったらしいのです。例の甲高い鳴き声はこの怪異から聞こえていますし、宵から私を苛み続けたものの正体ははっきりしましたが、一方で、未だ我が目が信じられずにいました。
その時、猿の目が私の目と合いました。俄かに言い知れぬ恐怖心が私を襲いました。取って食われるかもしれないという危惧、得体の知れない化物に対する畏怖、様々な感情が綯い交ぜになって指の一本に至るまで硬直させました。物の怪に射竦められ、どれくらいの間そうしていたのかは分かりません。僥倖なことに、怪物は私から興味を無くしたかのようにぷいと顔を余所に向け、そのままそちらの方へ歩いてゆきました。段々と遠ざかる甲高い鳴き声が、しばらく不気味に木霊していました。
気が付くと、空が白んで木々の隙間から光芒が差し込んでいました。いつの間にやら私は眠りに落ちていたらしいのです。果たして昨晩目の当たりにした怪物は何だったのでしょうか。夢の中での出来事なのか、本当に現実で出くわしたのか、はたまた私の内なる狂気が生み出した空想の産物なのか、今となっては判然させる術はありません。辛うじて分かることといえば、私が五体満足で生き永らえているということのみでした。とりあえず私は茂みから頭を出して周囲に何も居ないことを確認すると、そこから這い出て道なりに歩いていきました。幾許も無く、視界が開けて森から出ることができました。そうして、なんとか無事に女房の元に帰り着くことができたのです。
昨晩体験した摩訶不思議を話すと、妻の表情が憂いに翳ったように見えました。すると彼女は私を連れて集落の中央部、きっての有識者である長老の元に行きました。事の経緯を伝えられた彼は少し考える素振りを見せた後、それは鵺かもしれぬ、と呟きました。詳しくは長老にも、というより誰にも分からないらしいのですが、曰く、毎夜天皇を苦しめていたのがその鵺なる妖怪変化で、奇怪な姿に鵺のような声、つまり夜鳴く鳥のような声をしている、ということのようでした。正体を摑んだ者はおらず、一切が謎に包まれた存在である、と仰っていました。
此度は何事も無かったものの、仮令次に出会えばどうなるかは分かりません。そのような偶然は何度も起こるものではないでしょうが、願わくは、私がこの世に生を受けているうちはこれきりにせんことを。嗚呼桑原桑原。
この作品の内容を一言で表すなら「鵺に遭遇した」って感じ。そんだけ。
古文てたまにオチが無かったり、あっても薄かったりするよね。
得体の知れない生物を想像するのに、どうしても既存の生物を基にしてしまうのは、哀しいかな、人間の創造力の貧困さを窺わせるよね。
そんな雰囲気の(儂にも)よく分からんお話でした。
ご読了頂き、恐悦至極に存じます。