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静かな世界で

作者: 楓 夕貴

冬の朝の空気が大好きです。

夏の夜も大好きです。

生まれたのは秋でした。

3年前から毎日の散歩が日課になった。

早朝、昼下がり、夕方、夜。

時間帯もどれぐらいの時間散歩するかも

その日の気分次第。


毎日気まぐれに歩く。

そのせいで何度も迷子になってしまった。

まあ、もう迷“子"なんて言える年齢ではない。

今年の夏の始めに23歳を迎えた俺はもう

立派な大人なのだろう。



11月も中旬に入ると本格的な冬だ。


「寒い、寒い」


そう声に出した筈だが、その声は聞こえない。

きっと寒さのあまり喉も凍えているんだ。

冬はそんな理由ができる季節。


それを見かけたのは早朝を1時間ほど歩いた時だった。

冷たい空気の中で、冷たい世界の中で

女性は立っている。

橋の手すりに手をかけて冷たいであろう

川の水をひたすらに眺めている。


肌が白く、髪は黒く。それなりに顔は

整ってはいたが、生気を感じさせない

冬を擬人化したような女性。


「何してるんですか?」


そう聞いたのだが、女性は俺を無視している。

こちらに見向きもしない。

声が出ていないのか、まだ喉は凍えているのか?


女性に近づくと、いきなり女性は顔を上げた。

驚きと懇願と憎しみが入り交じったような

複雑な表情だ。


彼女はまるで金魚のように

口を開けてひたすらにパクパクしている。

彼女の喉も凍えてしまったか。


彼女は次第に興奮してきた様子だった。

その興奮はもちろん色気のある方のではない。

なんだかヤバい方のだ。


顔を醜く歪め、髪を振り乱しかきむしっている。

彼女の足は地団駄を踏んでいた。

あんなに細い足をしているのに

振動がすごい。

まあ、もしかしたら俺の感覚が散歩を

始めてから鋭くなったのかもしれないが。


とうとう目の前の女性が尋常じゃないと

感じ始めた瞬間

彼女はいきなり手すりを飛び越えようとした。


慌てて彼女を掴み橋の安全な位置に

半ば無理矢理戻す。

彼女は先ほどより激しく何か言いながら

目は涙を流し始めている。


ああ、この人は自殺したいんだろうか。

寒中水泳好きにも限度はあるはずだから。


全く知らない人。

でも目の前で死なせる訳には行かない。


俺がこの人を助けるには

現実を見なければいけない。

この残った両目でしっかりと。


俺はバッグの中から念のために

いつも持ち歩いていたペンとメモ帳を

取り出す。



『俺は耳が聞こえません』



その文章を見た彼女の動きが一瞬止まる。

それを確認した俺は

さらに文字を書く。



『3年前になくなった。あなたの自殺を

止めたい。これ以上何かをなくしたくない』



急いで書いた為にとても読みづらく

また要領を得ないような意味の分からない文章。

彼女がこれで自殺をしようと

していたわけではなかったら俺は

ただのピエロだ。それどころか

気持ち悪いストーカーにもなるかもしれない。


不安そうな俺を見つめる彼女は

もっと不安そうだった。

何かを言っているのだろう

口をパクパク動かしている。

俺はその口の動きから言葉を読み取ろうと

彼女の口許を凝視していた。


不意に動きが止まる。

パッと顔を上げると


彼女は泣いていた。


















『春は花粉症が喉にダメージを。

夏は暑さで喉がだれているから。

秋は喉が疲れているから。

冬は寒さで喉が凍えているから。

.... そんな言い訳を3年間していたの?


『そうだよ。馬鹿みたいだろ?』


『みたい、というよりただの馬鹿』


『恩人に、なんて言い方だ』


『いちいち会話を書くのって面倒だね。

口から出る言葉って楽』


『面倒って言うなら早く手話を覚えてよ』


『頑張ります』


『要約筆記者って知ってる?』


『知らない。なに?』


『大学とかって黒板に字をあまり書かないだろ。

教授が言った言葉を耳が聞こえない人の

代わりにノートに書くんだ』


『尊敬するね』


『大学もっと頑張ればよかったかも』


『別にもういいんじゃない?』


『なんだか冷たいねー』


『感謝してるけど。私の命の恩人兼恋人』



彼女が書いた“恋人"という言葉に

なんだか気恥ずかしさを感じて

彼女は一体どんな顔でこれを書いたのか

ノートから顔を上げて彼女の表情を見上げる。


俺が顔を上げるのを待っていたかのように

彼女は微笑み


「ありがとう」


と言った。とても簡単な手話だ。

なのに何だか彼女は誇らしげ。


手話を早く覚えて。

君ともっともっと話がしたい。


そんな思いを込めて

俺も微笑み、答える。


「ありがとう」

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