Ⅰ悪女ゆえ
平穏の中に今は居ると律子は思う。
例えば、眠る前に。
時に、この朝食の時間に。
朝の音の中で、生きていると言う感覚を思い出す。
生きている。
そう思う事が律子の平穏なのだ。
雅哉は食事を終え、出勤の準備を始める。
今日はライトグレーのスーツに、白いシャツ、ネイビーのネクタイ。
毎日、それらをセッティングするのは律子の役目である。
前夜に準備し、夫の雅哉はそれをただ身につける。
良い、悪いも言わずただ夫は黙々と着るだけ。
胸のポケットのチーフをも律子は素敵に飾る。
その日のネクタイと同じ配色のものを。
律子にとれば、専業主婦の仕事の中で最も責任を感じる仕事であると
思っている。
アパレル関係の仕事に携わる夫にどれだけのセンスを纏わせるかを
いつも考えている。
何も文句を言わない夫は私を信用しているのだと思う。
13年間の結婚生活の中で一度も指摘された事がないのだから。
結婚し、一緒に暮すようになると夫は、
「来週から、出勤するコーディネートは律子に頼みたい。」
「雅哉の方が専門だもの、私にやらせることはないじゃない。」
私もアパレルメーカーに勤務していたが、メンズを扱った事がなかったので
少々の不安の中で雅哉に対しそう言ったものだ。
「会社には女性も多いし、お客だって女性が多いから、女性目線のコーディネートのほうが
ウケがいい気がする。」
その言葉で私は納得でき、それ以来、家事をしていない時間は夫を如何に魅せようか
ばかりを考える日々になって行った。
律子にとってみると、必要とされている事が嬉しかった。
誰かに必要とされる喜びを実感出来たし、文句を言わない夫に対し
達成感すら覚える事が出来た。
自分自身を少し好きになる事も出来たのだった。
それを感じる事が出来たのはほんの半年の事だった。
律子は今ではこの雅哉と言う男を恨んでいる。
心底にある(死んで欲しい。)と言う波が寄せては引いていく。
今日も夫は私が用意したスーツに袖を通す。
縁がゴールドで装飾された大きな姿見の前で。
サテンで出来ている光沢のあるネクタイを夫の首に掛け
ネクタイに力が入らないように、なるべく優しく締めてあげる自分の姿が、
そして悪女である自分が愛しく感じる。
今日も夫は私がこうしてこの家で夫の世話を妬いている事を満足に思い、
部下のたくさんいる会社へ向うのだった。
律子は、夫と娘を送り出した空っぽの家の中で悪女になる日を密やかに待つ。
キッチンで食器を洗っている時も、子供の宿題を見ている時にも。
平穏が流れているこの一瞬にも。