名前
ごゆっくり。
人はなぜ生きるのか。人はなぜ死ぬのか。根本にある謎をぶら下げたまま、なんとなく呼吸を続けている。
たとえば、風が吹いたから風車が回り、川が流れたから水車が回る。ご飯を食べたから動き、自分を殺さなかったから生きる。殺されなかったから生き、誰かの分まで動く。こんな風なことだろうか、生きるとは。
「380円になります」
「レシートは要りません」
お釣りだけを受け取りコンビニを出た。最近のこういった店には大体のものは揃っているから大変助かる。便利な時代だ。わざわざ遠くの薬局に行かなくとも、傷に貼る絆創膏を買うという用事を済ますことができ、時間を節約できるのだ。
そうなのだから、若干高いのにも目をつむれる。
「……寒い」
夜風が服を突き抜け、身体を冷やしていく。目的地が近場にあるからといって、12月に薄着で出歩くものではない。ここで言う薄着とはジャージを表している。何を隠そうこの私は、ジャージがとても好きなのだ。隠すことなかれ、そう、ジャージこそが至高なのだ。だが12月の風から身体を守るには些か頼りがない。ジャージの弱点だろうか。しかしこの弱点、欠点があることが素晴らしいとさえ、愛おしいとさえ感じる。自分でも分かる、私は馬鹿だと。
寒さを紛らわすため、絆創膏が貼られた指に息を吹きかける。ああ、生きている。夜が寒い。指が微かに痛い。これは、生きている証拠だ。生を感じられる素晴らしい瞬間だ。真っ黒な空に冷たい月が見えるような、そんな一瞬。例えが悪かったろうか。ここは問題にしないことにしておこう。
訳もなく無性に嬉しくなる時がある。そんな時はないだろうか? 何気ない会話に泣きそうなくらい生を感じる時がないだろうか? 私にはあるのだが、私以外はどうなのだろう。私は私以外が酷く気になる。こうなると少し止まらない。人生は「私以外」が在って成り立つのだから、気になってもしょうがないことだと思う。むしろここに人生の意味があるのではないかとさえ感じる。隣の芝が青くて気にしたりするのは、そういう仕組みだからだろう。だから別段恥ずかしがることではないのだろう。そう言い聞かせて、私はとりあえずここまで生きてきた。私はなかなかにおかしな人間だと思う。
……なんて訳も分からない分かるはずもないような思考を働かせているうち、家の前についた。安っぽい質素な作りのアパートだが、住み慣れてみると都になってしまった。ここが自分の都になるとは、子供の頃の私には思いもしなかったろう。なにせお姫様を夢見た時期もあったのだから。庶民の血筋である私には遠すぎて、叶う、叶わない以前の問題といったような夢だ。なんて昔の話を思い出していると、私の部屋の前まで着いていた。106号室。
「ニャー」
部屋のドアを開けると、真っ黒な同居人は鳴いた。恐ろしいほど澄んだ目で、しかし片目は閉ざされたままで、こちらをギラリと覗いている。腹が減っているのだろうか。台所の下の棚から餌を取り、それを皿にあけて差し出した。
「ニャー」
「美味いか、嬉しいか!」
カリカリと乾いた音を立て、平らげていく。夕げを終わらせると、彼は身をすり寄せてきた。機嫌が直って何よりである。真っ黒の毛がジャージの下に、温もりとともに何本が残った。それをぱっと払い、そのまま布団に潜った。真っ黒な彼も満足したようだし寝よう。明日は早い。
次の日、私は心地良い暖かさ、柔らかさと共に目覚めた。同居人が布団の中に入り込んでいたようだ。私ががばっと起き上がると、彼はぴゅーっと布団から飛び出した。
「あ、驚かせたか」
「ニャア……」
返事をした彼に微笑むと、時計が視界に飛び込んだ。午前9時半。私の全身から血の気が引いた。
「……遅刻だ」
「ニャア!」
「え、喜んでる?」
どうしたものか。彼は喜んでいるようだが、私は全然喜べない。今から急いでも職場に着くまでに1時間はかかる。完全なる遅刻だ。もういっそ仕事を休むことにしよう。今日1日を、1週間前まで野良だった彼と過ごそう。1回くらいズル休みがしてみたかった、というのも理由だ。休める理由にはならないだろうが。
逃げ出した時に野良だと思われたら、後々面倒なことになるかもしれない。前々から思っていたことだ、やはり首輪は必要だろう。用意してあった首輪をカゴから取り出した。
「さぁ、着けたげるからね」
「……」
首輪を両手で持って、彼にじりじりと歩み寄る。この首輪が未だに着けられていないのは、我が家にやってきた初日からこのイベントを拒否し続けられてきたからだ。首輪が苦手なのだろうか。
「フーッ」
「マジか……」
この首輪に前の持ち主がいたこと。それに気付いているのだろうか。それが嫌なのだろうか。首輪に視線を置いているうちに、目の前にいた彼は部屋の角に走り出していた。こんなにも嫌がるものかと、なんだかこれからが不安になる。もうちょっと時間が経ってからでも構わないということにしよう。さて、職場に電話を入れてしまおう。
とりあえず風邪という理由で休みをもらった。心配して下さったリーダーには申し訳ない気持ちになった。なっただけだった。しばらくテレビを見ていると、職場の先輩から、携帯電話にメールが届いた。
「風邪、大丈夫?」
大変申し訳ない気持ちになった。風邪じゃないんだ。適当に「大丈夫だよ」と返信しておいた。いや大丈夫って送ってしまったらダメだろ!休んだのに!と返信内容に少しの後悔を残していると、すぐにまたメールが届いた。
「今日お見舞い行くよ」
こういった場合、なんと返せば良いのだろうか。何が最善なのだろうか。分からない。罪悪感が強まる一方である。ズタボロの玉で遊ぶ彼が、のんきで羨ましいものだ。
「なぁ黒猫君、あんたならなんて返すさ?」
「……」
「……あー、すまん、遊んでてくれたまえ」
聞いた私が馬鹿だった、というのは失礼か。仮にも一生懸命遊んでいる彼に茶々を入れたのは私であり、言葉を話さないことを知りながら話しかけたのも私である。
「休むのも楽じゃないのな……」
呟きながら、なんとないそれとない返事をしておいた。適当さが垣間見える返事なら、相手もそれとなく汲み取ってくれるだろうなんていう浅はかな考えである。というか、何とも他人任せな選択だ。後に私は、これを深く後悔することとなる。
「ふー、私とも遊ぶかい? あんた片目見えないのに元気だよね、私にも分けておくれ」
「ンナァ~」
「あはは、面白い声出すね。何て言ってんだろ。んー、そういや名前付けてなかったね。私なんかが付けていいものか分からないけど、どうだい、付けさせてはくれまいか?」
「ゴロゴロ……」
「……イエス、と受け取るよ」
彼の腹を撫でながら、視線は右上を向いていた。考えごとをしていると、目が右上や左上を見たりはしないだろうか。私はする。彼に相応しい名前を考えている間、天井のシミを見つけた。なんとなく見つけたくなかった。
「んんー、何がいいんだろ」
悩んでいると、携帯電話に着信が入った。悪い予感がした。
「やっぱり夏目先輩だ……」
予感は的中した。お見舞いにくるとでもいうのだろうか。私は仮にも一応女で、しかも一人暮らしである。男を一度も入れたことのないこの神聖なる都に、お見舞いという名目であれ、職場の良き先輩であれ、簡単に招き入れることはできないのだ。
「ニャア」
「あんたは別」
鳴り続ける携帯電話。仕方あるまい、電話に出よう。出るしかないのだ。
「はい、もしもし」
「もしもし、白石? 風邪大丈夫か?」
大丈夫か? ばかりだな、この人は。いや、心配してくれるのはありがたいのだけれど。
「だから大丈夫だって」
「熱は? ご飯食えてる?」
「もう、子供じゃないんだから大丈夫だってば。ご飯は食べてないけど」
「そうか! 藤木にお前の家聞いて、今すぐそこまで来てるんだ。ご飯買って今から行くわ!」
「……は!?」
何ということだろう。何ということなのだろう。こんなベタな展開で、私は初めて男を部屋に上げることになるのか。お見舞いをはっきりと断っておけばよかったと後悔し、同時にこれは避けられないイベントだと悟った。
「えっ!?」
「いや何でもないです先輩。ありがとうございます。後で藤木ぶっ飛ばす」
「藤……えっ!? ぶっ飛ば…?」
「何でもないです、部屋番号は106号室です」
「わかった。じゃあまた後で!」
「失礼します……」
電話を切る。深いため息の後に布団から立ち上がり、ブラシを手に取って髪を解かした。夏目 清という先輩は、職場でもトップクラスのイケメンである。それがこの都に攻め入ろうとしているのだから、ある程度の身嗜みは整えるのが礼儀というものであろう。しかしジャージは着替えない。風邪という状況を装わなければならない以上、おしゃれなんていうものはしてはいけない。できる状態ではないと思わせなければならない。
というか、私は男が来たからといってここぞとばかりにおしゃれをするような女ではない。もともとそういったものへの関心もあまりない。だから、ある程度無理のない作戦となるだろう。これを乗り越えれば、後は布団の温もりとじゃれあうだけだ。しかし面倒なことになってしまった、なぜこうなってしまったのだろう。
「藤木……」
藤木ガッデム。その言葉が私の頭の中を走り回った。藤木 綾子は同僚なのだが、こういう要らない世話を好む人間だ。きっと今も困惑する私のことを想像し、心の中で笑っているのではなかろうか。女というのはどうしてこんなにも怖いものなのか。
「ニャッ」
「ちくしょう黒猫君、私と変わってくれよ」
「ナウ」
「……ナウ、か。ナウなのか」
先輩からメールがきた。
「部屋の前なう」
「……あんたもか」
「いやぁ、大丈夫かい!?」
「お疲れ様です」
「うんうんお疲れ様……って職場じゃないんだからさ」
「今日はすみません」
「いやなに、元気そうでよかった。というか、猫飼ってたんだね。名前は何て言うの?」
「あー、まだ決めてません」
「ほうほう……」
「ニャウ」
先輩は両手にビニール袋を持ち現れた。こんなにも食材を持ってくるとは思いもせず、なかなか驚いてしまった。
「いっぱい買ってきたからさ」
「でも、あまり食べられません」
「あれ、藤木が『白石さんは沢山食べるから』って」
「藤木ぶっ飛ばす」
「……えっ!?」
その後先輩は、台所を使い何やら作りはじめた。出来る男は料理もこなしてしまうのか。才能のある人間というのは眩しいものだ。
「カルボナーラ完成しました」
「うわ、すごい美味しそう」
「俺の愛情が入ってるからね!」
「……」
「……えっ!?」
カルボナーラを完食した後、先輩は猫じゃらしを一生懸命に振っていた。その姿はある程度可愛らしかった。ある程度。
「名前付けてあげようよ」
「そうですね」
「片目、開かないんだね」
「……そうですね」
片目が見えない黒猫。それでも、そんなことお構いなしで遊びはしゃぎ回る元気な姿を見ていたら、なんともいえない愛おしい気持ちになる。ちゃんと面倒を見てあげたい。改めてそう思った。
「真っ黒だから…クロとかどう?」
「安直過ぎますね」
「ごめん……」
「……」
「カルボナーラとかどう?」
「先輩もう帰ります?」
「ええっ!?」
いや、待てよ。カルボナーラといえば、その名は「炭」が由来になっていると聞いたことがある。炭は真っ黒で、この子によく合う名前かもしれない。
「カルボナーラ、おーいカルボ」
「ど、どうしたんだい白石さん」
「カルボ!」
「にゃー」
カルボと呼ぶと、その真っ黒な身体をすり寄せてきた。彼も気に入ってくれたのだろうか、嬉しそうに返事をしてくれる。
「カルボナーラに決まりました」
「おお! じゃあこれは俺が名付けたってことになるのかな」
「カルボ~」
「にゃー」
「無視はやめよう!?」
出会って一週間、先輩の手を借りながらも同居人の名前は決まった。カルボナーラ、なんだか面白い響きである。私とカルボナーラの同居生活は、こうして始まった。
猫背です。