異聞 五稜郭
拙著「南山共和国建国史」からのスピンオフです。
いあいあ。
南山:南半球に作られた人工国家。戊辰戦争の結果、日本を捨てた人々によって建国された共和国。
歴史というものは、勝者が編纂する都合のよいカレンダーに過ぎない。
その無機質な数字の裏側に張り付いた、粘液質で血生臭い真実を直視するには、ある種の狂気と、このウィスキーのように強い麻酔が必要となる。
しがない形而史学者である私が紐解いた、長らく南山国立図書館の地下アーカイブに封印されていた機密指定資料。それは、1869年の箱館(函館)において、鉄と硝煙の向こう側に顕現した絶望の備忘録であった。
第一章:崩落する星陣
凍てつくような北の海風が、土塁に生えた雑草をざわめかせる。
五稜郭。
フランスの軍人ヴォーバンが考案したとされるこの稜堡式要塞は、空から俯瞰すれば、紛れもない巨大な「五芒星(Pentagram)」の形状を成している 。泥と石、そして緻密に計算された角度によって構成されたこの幾何学的な構造物は、単なる軍事的な防御陣地ではなかった。
西洋魔術の体系において、五芒星は「封印」、あるいは「召喚」の装置として機能する不可逆の呪印である 。
蝦夷共和国の総裁たる榎本武揚は、オランダ留学時代に国際法(万国海律)や造船術といった近代的な学問を修めた、極めて合理的な精神を持つ秀才として知られる 。
だが、彼の冷徹な頭脳の底には、近代科学の光が届かない暗黒の宇宙観が巣食っていたのではないか。ライデン大学の埃っぽい古書保管庫の奥底で、あるいは米国のミスカトニック大学への秘密裏の短期留学中に、彼が禁忌とされる「別の学問」に触れていた可能性を、私は捨てきれない 。
彼がこの箱館の地を本拠地に選んだのは、北の大地の先住民族であるアイヌが「アトュイ・カ・カムイ(海を覆う神)」と呼び、極度の恐れを抱いて近づかなかったモノ——箱館の湾の暗い水底で微睡む巨大な存在を、その五芒星によって封じ込め、あわよくば制御しようという狂気じみた野心によるものだったと私は推測している。
実際、土と石で築かれた巨大な魔方陣は、星の運行と海の満ち引きを計算し尽くし、辛うじてその「蓋」を押さえつけていたのだ。
しかし、1869年5月。箱館の空は、人間の愚行によって赤黒く染まり上がった 。
新政府軍による無慈悲な総攻撃が開始されたのである。旧幕府軍の頭上から降り注ぐ砲弾は、凍てついた大地を無残にえぐり、血と泥と肉片が空中に飛散した。鼓膜を破るような轟音の連続の中で、兵士たちはもはや恐怖すら麻痺し、ただ機械的に引き金を引く肉の歯車と化していた。
だが、この地における真の破滅は、戦死者の数や戦線の崩壊によってもたらされたのではなかった。
雨霰と降り注ぐ砲弾が土塁を吹き飛ばし、堀を土砂で埋め立てたその時、五稜郭という巨大な要塞が保っていた「幾何学的な完全性」が、物理的に破壊されたのである 。
緻密に計算された星の形が歪み、魔術的な角度が狂う。土塁が崩落した瞬間、深淵の扉の「封印」の向こう側からペンタグラムにより強引に呼び起こされ、瘴気を放ちながら封じ込められていた「何者か」が、致命的な音を立てて解き放たれた 。
榎本は、崩れゆく土塁を見つめながら何を思っただろうか。自らの知によって構築した完璧な檻が、同じ人間の放つ愚かな鉄の塊によって破壊されていく絶望。科学と魔術の融合を夢見た男の眼前で、星は崩壊し、絶対的な秩序は無惨にも瓦解したのだ。
そして、5月11日以降、事態は人間の理解を超えた領域へと突入する 。
戦火の喧騒が一時的に止んだ箱館の街に、決定的な異変が訪れた。硝煙の臭いとは明らかに異なる、致命的なまでの腐臭が海風に乗って流れてきたのだ。箱館湾を覆い尽くしたのは、もはや火薬の煙などではなかった 。生存者が書き残した狂気じみた日記には、「魚の腐ったような臭気を伴う、粘りつく黒い霧」が海から押し寄せてきたと明確に記されている 。
その黒い霧は、物理的な光を遮断するだけでなく、人間の正気をもゆっくりと奪い去っていくような、重く、湿った質量を持っていた。皮膚にへばりつく粘性の空気は、肺の奥底まで入り込み、内臓から腐敗していくような錯覚を兵士たちに抱かせた。塹壕の中で震える者たちは、霧の奥深くに潜む「何か」の気配を、本能的な恐怖と共に感じ取っていた。
波音に混じって聞こえる、濡れた足音。這いずるような異音。物理法則を無視した巨大な影。海から這い上がり、濃霧をまとって進軍してくるのは、決して同じ言語を喋る人間などではない。
崩落した星の残骸の向こう側で、歴史の表舞台からは永遠に抹消されるべき、凄惨な殺戮の幕が開こうとしていた。冷たい汗が、泥にまみれた兵士たちの蒼白な頬を伝い落ちる。絶望という名の黒い霧が、乾いた音を立てて、箱館の街を完全に呑み込もうとしていた。
第二章:深きものども
歴史の転換点というものは、後世の人間が想像するような劇的なファンファーレと共に訪れるわけではない。それは往々にして、ひどく泥臭く、無機質で、そして不可解な沈黙の中から這い出してくる。
1869年5月11日
箱館・一本木関門
新選組副長・土方歳三は、箱館市街へと通じるこの細い喉首のような防衛線で、崩壊しつつある味方の戦線を縫い合わせるという、絶望的な外科手術を執り行っていた。五稜郭の土塁が新政府軍の艦砲射撃によって吹き飛ばされ、星の形が決定的に歪んだあの瞬間から、戦場の空気は明らかに異質に変容していた。
硝煙の焦げた匂いが、急速に薄れていく。代わりに戦場を満たし始めたのは、むせ返るような潮の匂いだった。それは単なる海の匂いではない。何万年もの間、太陽の光を知らずに腐敗を続けた深海の泥と、何らかの巨大な水棲生物の死骸が発する、濃密で冒涜的な悪臭であった。
「……撃ち方、待て。官軍の銃撃が、止んだぞ」
前線で土嚢に身を潜めていた第十二分隊の小隊長、笠原貞之進が、訝しげに声を上げた。彼の傍らでは、まだ元服を迎えたばかりの少年兵・辰蔵が、重い銃を震える手で抱え込んでいる。
数分前まで、頭上の空気を切り裂くように飛び交っていた新政府軍のミニエー弾の飛翔音が、まるで水の中に沈められたかのように、ふっつりと途絶えていた。
不気味な静寂だった。遠くで聞こえるはずの味方の怒号も、負傷者の呻き声も、すべてが物理的な質量を持った「黒い霧」によって吸音されていた。海の方角から、まるで意志を持った巨大なアメーバのように這い寄ってきたその粘りつく霧は、瞬く間に一本木関門の視界を十間(約18メートル)未満にまで奪い去った。
「奇襲か……いや、この真昼間に? 敵の別働隊が海から回り込んだのか?」
歴戦の古参兵である源三郎が、血糊のへばりついた銃剣を握り直しながら呟いた。彼の額には、冷たい汗がびっしりと浮かんでいた。気温が急激に低下している。息を吐くたびに白く濁り、皮膚の表面にねっとりとした水滴が結露していく。
ズズ……、ベチャ……、ズズ……。
霧の奥から、足音が聞こえた。
それは、軍靴が土を踏みしめる乾いた音律ではなかった。水を含んだ巨大な肉塊が、泥の上を引きずられるような、不規則で湿った異音の連なりであった。
「誰だ! 止まれ! 誰何に応じよ!」
笠原が立ち上がり、霧の壁に向かって怒号を放った。その瞬間だった。
濃霧を切り裂いて、一本の「槍」が飛来した。それは鉄の穂先を持っていなかった。
暗緑色の、サンゴか何かを削り出したような奇妙な材質で、表面には人間の視覚神経をかき乱すような、非ユークリッド幾何学的な紋様がびっしりと彫り込まれていた。
「が、あ……ッ!?」
凄まじい質量を伴ったその石槍は、笠原の胸部を厚手の軍服ごと易々と貫通し、彼を背後の防塁に串刺しにした。血泡を吹いて痙攣する笠原の首に、今度は霧の中から太いロープの結びついた錆びた銛が突き刺さる。
「小隊長殿!」
辰蔵が悲鳴を上げた直後、ロープが恐ろしい力で引き絞られ、笠原の身体は防塁の木材ごとへし折られ、濃霧の奥へと、文字通り「引きずり込まれて」いった。絶叫は数秒で途絶え、後には濡れた肉が引き千切られるような咀嚼音だけが響いた。
「撃て! 撃てェッ!!」
源三郎の絶叫を合図に、残された数十名の兵士たちが、見えない敵に向かって盲滅法に発砲を開始した。鉛の弾丸が霧を裂き、何かに命中する鈍い音が連続する。しかし、敵が倒れる気配はない。むしろ、銃撃を合図にするかのように、黒い霧が割れ、その「姿」を現した。
人間の背丈を優に超える、二足歩行の影。
身長は優に八尺(約2.4メートル)を超え、前屈みの姿勢で二足歩行をする異形。暗緑色の皮膚は粘液でヌラヌラと光り、首の両側では生々しいエラが脈打っている。飛び出した金色の眼球には瞬膜が走っており、耳まで裂けた巨大な口からは、ノコギリのような鋭い牙が覗いていた 。
南山の漁師たちが古くから「海僧」と呼び、決してその名を口にしてはならないとされてきた深海の眷属、「深きものども」の群れであった。
「ば、化け物……!」
一人の名もなき兵士が、恐怖で腰を抜かしながらエンフィールド銃の引き金を引いた。放たれた銃弾は、先頭の異形の腹部に命中した。だが、分厚いゴムのような脂肪と、鱗に覆われた皮膚を貫通するには至らない。
異形の傷口からは、赤い血ではなく、燐光を発する緑色の粘液が噴き出したが、それは彼らの歩みを一歩たりとも止めることはなかった。
異形の一体が、カエルのような跳躍で防塁を飛び越え、腰を抜かした兵士に飛びかかった。水掻きのついた両手が兵士の頭蓋骨を両側から挟み込む。乾いた破裂音が響き、兵士の頭部は熟れすぎた果実のように砕け散った。
戦線は、わずか数分で阿鼻叫喚の屠殺場と化した。
近代兵器であるはずの銃火器は、太古の生命力の前では子供の玩具に等しかった。銃剣で突撃した源三郎は、異形の皮膚の弾力に刃を弾かれ、逆に彼らが振るう錆びた鉤爪によって、腹部から腸を泥の上に引きずり出された。
己の臓腑を抱え込みながら絶命する老兵の傍らで、少年兵の辰蔵は、異形が持つ石槍に刻まれた「狂気の幾何学模様」を直視してしまった。彼の精神の許容量は限界を超え、銃を放り出すと、自らの両目を指で掻き毟りながら、甲高い声で狂ったように笑い始めた。
陣形は崩壊し、兵士たちは官軍の恐怖など忘れ去り、我先にと逃げ惑うただの肉の塊へと還元されていった。這い寄る霧と、緑色の体液と、死臭。物理的な死と精神的な崩壊が同時に襲いかかるこの地獄において、人間の尊厳など塵芥ほどの価値もなかった。
ただ一人、その男を除いては。
「うろたえるな。ただの、的だ」
冷徹で、ひどく乾いた声が、狂騒の戦場に響き渡った。
泥を跳ね上げる軍靴の音。
漆黒のフロックコートを翻し、土方が歩み出た。
彼の顔に、恐怖の色は一切なかった。京都の路地裏で数え切れないほどの人間を斬り刻み、鳥羽伏見で、そして會津で近代兵器を官軍に行使し、その絶望的な威力を前にして、多くの旧態依然とした侍たちが、自分自身のアイデンティティーを揺らがさせていた際も、決して折れなかった彼の精神は、目の前に現れた混沌とした根源たる恐怖を前にしても、なお「正気」という名の狂気を保っていた。
土方の冷たい双眸は、這い寄る異形どもを神話の生物としてではなく、単なる戦術上の障害物としてのみ処理していた。銃が効かないのであれば、斬る。皮膚が硬いのであれば、隙間を狙う。極めて即物的な、純粋な殺意の結語であった。
チャキ……
鯉口が切られ、一条の「闇」が鞘から迸った。
愛刀・和泉守兼定。その刀身は通常の玉鋼の輝きを持っていなかった。それは、光を反射するのではなく、周囲の光を吸い込むような底知れぬ黒さを帯びていた。
南山の地中深くから掘り出された正体不明の黒い石、それは天から降ってきた隕鉄かもしれない。
會津の名工が狂気の感覚で鍛え上げた、異端の魔剣。
「シィッ!」
鋭い呼気と共に、土方が踏み込む。
獲物を求めて身を乗り出してきた一体の「深きもの」の腕が、土方の首筋を狙って振り下ろされる。だが、土方の動きは異形の動体視力を凌駕していた。身を沈めながらの神速の抜き打ち。
黒い刀身が、異形の脇腹、鱗の薄いエラの下を正確に薙いだ。
「ギャギィィィィィィィィッ!!」
深海の水圧にも耐える強靭な肉体が、いとも容易く両断された。さらに異常なのはその傷口だった。和泉守兼定に斬られた断面から、緑色の体液が蒸発し、ジュウジュウと黒焦げになっていく。隕鉄の含有する未知の成分が、異形たちの魔術的な細胞構造そのものを燃やし尽くしているのだ。
彼らは、銃弾を受けても声を発しなかったが、土方の刃を受けた瞬間、イルカの断末魔のような、鼓膜を破る高周波の悲鳴を上げた。
「弾が効かんなら、目を潰せ。関節を砕け。口の中に銃身を突っ込んで引き金を引け」
土方は、背後で逃げ惑う兵士たちに向かって、平坦な声で命じた。
「動ける者は負傷者を担げ。ここは放棄する。港まで走れ」
「ふ、副長! しかし、それではあなたが……!」
正気を取り戻した一人の隊士が叫ぶ。
「俺が蓋をする。行け」
言葉を返す暇も与えず、土方は再び黒い霧の中へ飛び込んだ。
そこからの光景は、もはや武術という次元を逸脱していた。圧倒的な質量と力で押し寄せる半魚人の群れに対し、土方は黒い刀身の軌跡だけで構築された「防御陣」を展開した。
突き出される錆びた銛を刃の平でいなし、すれ違いざまに首の動脈(あるいはそれと思われる器官)を寸分違わず切り裂く。
飛びかかってくる巨体には、下からの斬り上げで腹を裂き、内臓の重みで自壊させる。彼の動きには一切の無駄がなく、感情の起伏も見られなかった。乾いた機械のように、ただ淡々と、眼前の異形を肉の塊へと変換していく。
返り血ならぬ、焼けた返り粘液を浴び、漆黒のコートがさらにどす黒く染まっていく。周囲には、すでに十数体の異形が、隕鉄の毒によって炭化し、悪臭を放ちながら転がっていた。
だが、海から這い上がってくる群れは無尽蔵だった。霧の奥からは、さらに巨大で、より深い年代を生き抜いてきたと思われる、装甲のような鱗に覆われた個体が次々と姿を現し始めていた。
土方は小さく舌打ちをした。
このまま斬り合いを続ければ、いずれ膂力の限界が来る。刀の刃こぼれよりも先に、人間の筋肉と骨が悲鳴を上げる。彼自身、それは重々承知していた。一本木関門での遅滞戦闘は、あくまで味方を港へ逃がすための時間稼ぎに過ぎない。
「……潮時か」
土方は、背後の兵士たちが霧の向こうへと退避した気配を感じ取ると、足元に転がっていた火薬樽を蹴り飛ばし、銃口を向けた。引き金が引かれ、轟音と共に爆発が起こる。炎と土煙が、一時的に異形どもの視界と嗅覚を封じた。
その刹那、土方は血濡れた魔剣を鞘に納め、一帯を覆う黒い霧を背にして、港の方向へと疾走を開始した。
彼の視線の先には、箱館の港に放置されている、鉄と蒸気で構築されたもう一つの「近代の産物」、蒸気機関車(C1-030号機)が存在していた。土方の冷徹な計算は、すでに次の生存戦略へと移行していたのである。
一本木関門は突破された。
しかし、土方歳三という男の戦線は、まだ一歩も後退していなかった。
第三章:蒸気と鋼鉄の結界
歴史の転換点において、人類を救済するのは神の恩寵ではなく、常に血と汗と脂に塗れた「鉄」である。 大学の地下アーカイブに眠る禁断の記録を紐解く時、私は常にその冷徹な事実を突きつけられる。
1869年5月11日、箱館。
五稜郭という巨大な魔術的封印が瓦解し、津軽海峡の暗い水底から人類の歴史を終わらせかねない「旧き者」たちが這い上がってきたあの日 、一本木関門を突破された旧幕府軍の残党が最後に縋り付いたのは、祈りでも呪術でもなく、産業革命が産み落とした極めて物理的な暴力、すなわち「蒸気と鋼鉄」であった。
午後四時。箱館港の岸壁は、狂気と絶望が入り混じった異様な喧騒に包まれていた。空はすでに人間界のものとは思えぬ、内出血を起こしたようなドス黒い紫苑色に染まり、凍てつくような海風が、避難民たちの顔から血の気を奪っていた。
港には、南山への大脱出を担う巨大な輸送船「横浜丸」が横付けされていた 。船の最下層には、すでに本土と蝦夷地からかき集められた1,500トンにも及ぶレールが、荒れ狂う太平洋を渡るための「バラスト(底荷)」として幾重にも敷き詰められていた 。そして下層甲板には機関車の台車や車輪といった重量部品が固定され、上甲板には防水シートで厳重に覆われた機関車のボイラー群が、巨大な丸太のように積み上げられていた 。
岸壁に残されているのは、最後の一両。旧幕府軍が本土から持ち込んだ20両の「タイプA(慶喜型)」のラストナンバー、C1-030号機の巨大なボイラー部のみであった 。
英国バルカン・ファウンドリー社の設計思想を受け継ぎ、横須賀製鉄所でライセンス生産されたこの2Bテンダー機関車は 、冬の間、五稜郭で防壁として機能した際の分厚い防水帆布と鯨油のグリスに塗れたまま、圧倒的な質感を伴って岸壁に鎮座していた 。
「急げ! クレーンの蒸気圧を上げろ! この鉄屑を積まねば、船は出せんぞ!」
旧横須賀製鉄所出身の老機関士、勝俣が、煤にまみれた顔で怒号を飛ばしていた。数名の作業員たちが、太い麻縄とワイヤーをC1-030号機の台枠に巻き付け、蒸気動力のクレーンに固定しようと悪戦苦闘している。しかし、その時だった。
箱館市中の方角から響いていた、新政府軍のミニエー銃の乾いた発砲音が、まるで水底に沈められたかのように、ふっつりと途絶えたのである。
代わりに港を包み込んだのは、尋常ならざる「冷気」と、鼻腔を内部から腐敗させるような強烈な悪臭であった。生存者の記録にある「魚の腐ったような臭気を伴う、粘りつく黒い霧」が、市街地を呑み込み、ついに海と陸の境界線である港にまで到達したのである 。
「な、なんだあの霧は……」
作業員の一人、吉井がワイヤーを握ったまま震える声で呟いた。黒い霧は、物理的な質量を持っているかのように地面を這い、港の石畳の隙間に凍りつくような霜を発生させていた。
ズズ……、ベチャ……、ズズ……。
霧の奥、そして波打つ箱館湾の暗い海面の両方から、その音は近づいてきた。
海水が異常なほど泡立ち、水面が盛り上がる。そこから現れたのは、決して人間の進化の系譜には連ならない、深海の冒涜的な落とし子たちであった。
「ヒィッ……! 化け物ッ!」
パニックに陥った避難民の一人が、海に向かって拳銃の引き金を引いた。放たれた鉛の弾丸は、先頭の異形の胸に命中し、緑色の体液を噴出させた。しかし、異形は痛みを感じる様子もなく、水掻きのついた巨大な手で錆びた銛を振りかぶった 。
「ア、アガァァッ!」
銛は避難民の胴体を易々と貫き、そのまま軽々と宙に持ち上げた。異形は、生きたままの人間を餌として海へ引きずり込もうと、無機質な歩みを進める 。港は一瞬にして阿鼻叫喚の地獄と化した。銃弾は彼らの分厚い脂肪と鱗に阻まれ、致命傷にはならない。未知の幾何学模様が刻まれた石槍が飛び交い 、次々と人間の肉体を串刺しにしていく。
「終わった……俺たちは、ここで皆殺しにされるんだ……」
勝俣が、スパナを取り落とし、絶望に膝をついたその瞬間。
「退け。射線が通らん」
極めて平坦で、しかし絶対的な冷酷さを伴った声が、黒い霧を切り裂いた。
泥と緑色の体液に塗れた漆黒のフロックコート。その男、新選組副長・土方歳三は、一本木関門の死地からただ一人、死神のような足取りで港へと辿り着いていた。
彼の手に握られていた妖しい黒光りを放つ愛刀・和泉守兼定は 、すでに十数体の異形を斬り捨ててきた証として、刀身からジュウジュウと緑色の血を蒸発させていた。
土方は、港を包囲しつつある半魚人の群れを、感情を排した冷徹な目で一瞥した。 彼の並外れた戦術眼は、一本木での戦闘を通じて、すでに敵の致命的な弱点を看破していた。「深きものども」は、冷たい深海と湿気を好む。裏を返せば、彼らの粘液質で覆われた皮膚とエラ呼吸のシステムは、急激な乾燥と高熱に対して極端に脆弱であるはずだ 。
土方の視線が、岸壁に放置された巨大な鉄の塊——C1-030号機のボイラーに向けられた 。
「機関士殿。その鉄の樽は、まだ火が入るか」
土方が勝俣に問う。
「ひ、火? ボイラーのことか!? 水は入ってるが、こんな状況で……!」
「火を入れろ。安全弁が吹き飛ぶまで焚き上げろ。奴らは熱を嫌う」
土方の言葉の背後で、三体の異形が跳躍し、鋭い爪を振り下ろしてきた。土方は振り返りもせず、和泉守兼定の黒い刃を閃かせた。空気が裂ける鋭い音と共に、三体の異形の腕と首が切断され、緑色の体液が雨のように降り注いだ 。
「俺が時間を稼ぐ。蒸気を上げろ! それが貴様らの命綱だ!」
その気迫に当てられ、勝俣たち機関士に、職人としての火が点いた。
「吉井! 茅沼の石炭を持ってこい! ありったけだ!」
彼らは、蝦夷地での主力燃料として集積されていた、岩内・茅沼炭鉱産の高純度炭の袋を切り裂き 、C1-030号機の火室へと次々に放り込み始めた。灯油をぶちまけ、マッチを投げ込む。
ゴォォォォォォッ!!
重厚な鉄の腹の中で、オレンジ色の炎が爆発的に燃え上がった。冬の間、五稜郭で兵士たちを暖め続けた「鉄の馬」が 、今度は人類の生存を賭けた魔術的防壁として、再びその心臓を鼓動させ始めたのだ。
「水管の圧力上がります! まだ足りねえ、もっと焚けェ!」
勝俣が叫びながら、さらに石炭を放り込む。ボイラーの温度が急激に上昇し、周囲の黒い霧を物理的に吹き飛ばし始める。赤熱し始めた分厚い鋼鉄の表面から、尋常ではない赤外線と輻射熱が放射され始めた。
勝俣は知る由もないが、本来であれば、この程度の熱が周辺の環境に変化をもたらすような事はありえない。しかし、五稜郭一帯に張り巡らされた魔術的空間環境により、熱気は、瞬く間に岸壁一帯を包み込んだ。
「ギィィィィィィッ!!」
熱波に触れた瞬間、迫り来ていた「深きものども」の群れが、鼓膜を破るような高周波の悲鳴を上げた。彼らのヌラヌラとした皮膚が、一瞬にして乾き、ひび割れ、火傷のような水ぶくれを起こし始めたのだ 。彼らは灼熱の鉄塊である機関車に近づくことができず、本能的な恐怖から後ずさりを始めた。
土方の推論は正しかった。太古の邪神の眷属といえども、地球の物理法則と熱力学の壁を越えることはできない。近代工業の結晶である蒸気機関の熱エネルギーが、魔法陣の代わりとなる「物理的な魔術結界」を形成したのである 。
「副長! 熱壁、完成しました!」
「上出来だ。次は、そいつを据えろ」
土方が顎でしゃくった先には、木箱に梱包されたままの、真鍮と鋼鉄でできた奇妙な機械があった。長岡藩から譲渡された最新鋭の重火器「ガトリング砲」である 。
土方は自ら木箱を蹴り開け、機関車が発する熱結界の陰、すなわちC1-030号機を盾とする絶好の防衛ポジションに、その多銃身機関砲を据え付けた 。上部にホッパー式の弾倉を取り付け、重い真鍮のクランクハンドルを握る。
「……文明の苦味ってやつを、たっぷりと味わわせてやる」
土方の乾いた唇が弧を描いた。
ガチャン、グルルルルルルルッ!!
クランクが回されると同時に、六本の銃身が回転し、内蔵されたカム機構が次々と鉛の弾丸を薬室へ送り込み、撃発させる。秒間数発という、当時としては魔法劇じみた連射速度で、15ミリ口径の重い鉛弾の豪雨が、熱壁の向こうで躊躇する異形の群れへと叩き込まれた。
「ガァァァァッ!!」
単発の銃弾では倒れなかった分厚い肉体も、圧倒的な質量と運動エネルギーの連続直撃には耐えられなかった 。ガトリング砲の斉射は、先頭の半魚人たちを文字通り「挽肉」に変え、緑色の体液と肉片が港の石畳に散乱した。
銃火の閃光と、ボイラーの猛火。
魔的な冷気を帯びた黒い霧の領域と、赤熱する鋼鉄が放つ絶対的な熱の領域。
二つの相反する概念が、箱館港の岸壁で激しく衝突していた。
「圧力限界です! 安全弁が吹き飛びます!」
勝俣が、圧力計の針を見て悲鳴を上げた。
「構わん! 限界を超えろ!」
直後、ピィィィィィィィィッ!! という、鼓膜を引き裂くような甲高い金属音と共に、C1-030号機の安全弁が限界を迎え、高圧の過熱蒸気が一気に噴出した。
それは、100度を優に超える「透明な炎」であった。吹き出す高温の蒸気は、迫り来る異形どもを瞬時に茹で上げ、彼らの眼球を白濁させ、呼吸器官を完全に焼き尽くした。蒸気と鋼鉄による結界は、ここにおいて完全なものとなった 。
「クレーン、巻き上げ準備よし! 横浜丸、出港します!」
背後で、ついに船の出港準備が整った合図が響いた。 太いワイヤーが張り詰め、蒸気ウィンチが唸りを上げる。数千トンの鉄の塊であるC1-030号機が、ゆっくりと岸壁から宙へと浮き上がり始めた 。
だが、深淵は、獲物をそう簡単には逃がさなかった。
ゴゴゴゴゴゴ……!!
突然、箱館湾の海面が、海底火山が爆発したかのように大きく盛り上がった。 海水を滝のように滴らせながら海中から出現したのは、半魚人などとは比較にならない、巨大な「何か」の器官の一部であった。それは、山のように巨大な触手、あるいは幾万もの目玉と吸盤を備えた、泡立つ粘液の塊であった 。
その姿を目にした瞬間、港にいた数名の兵士の精神が完全に崩壊し、自らの喉を短刀で掻き切った。それは、人類の視覚神経が処理できる情報量を超えた、根源的な宇宙の恐怖そのものであった。
「チッ……親玉のお出ましってわけか」
宙に浮き上がりつつあるC1-030号機の台枠に飛び乗り、しがみついた土方は 、眼下に迫る巨大な触手に向かって、ガトリング砲から取り外したスエンチェル銃を構えた。
巨大な触手が、鞭のようにしなり、土方たちが直前までいた岸壁へ向けて振り下ろされた。
ドゴォォォォォォォォンッ!!
大質量の激突。花崗岩で組まれた強固な桟橋が、まるで薄いガラスのように粉々に粉砕され、海中へと崩落していく 。宙吊りになった土方のすぐ真下を、即死級の瓦礫が飛び交った。
その時、地の底から、あるいは次元の裂け目から響くような、地殻を擦り合わせるような低い咆哮が、人々の脳髄を直接揺らした。
「イア……イア……クトゥ……」
それは、日本語でも、英語でも、アイヌ語でもない。人類の言語中枢を犯す、冒涜的で粘りつくような音節の連なりであった 。
「……悪党か何だか知らねえが、俺の首が欲しけりゃ、冥府の底から出直してきな」
土方は、吊り上げられる機関車の陰から、迫り来る巨大な粘液の塊の「眼球」らしき部位に向かって、持っていた銃の引き金を連続して引いた。銃弾の何発かは、跳弾となって自らがしがみつくC1-030号機のボイラーに深い凹みを刻み込んだ。
クレーンが旋回し、ボイラーと共に土方の体が横浜丸の上甲板へと乱暴に降ろされる。同時に、船の巨大な外輪が海水を蹴り立て、蒸気船は全速力で箱館湾からの離脱を開始した。
船のスクリューが掻き立てる白い波の向こう。
崩落した港を覆う真っ黒な霧の中で、赤熱した石炭の残り火だけが、まるで敗北を知らぬ鬼の眼のように、赤々と燃え続けていた。
土方歳三は、煤と緑色の返り血に塗れた漆黒のコートを翻し、遠ざかる五稜郭の星の形跡と、渦巻く深淵の海を、ただ冷徹に見つめ続けていた。
かくして、蒸気と鋼鉄を盾とした絶望的な撤退戦は幕を閉じた。彼らが持ち去った機関車とレールは、単なる工業資材ではない。それは、人類が古き神々の領域から奪い取り、自らの力で未来を切り開くための、物理的かつ形而上学的な「バラスト」であったのだ 。
歴史の闇に沈んだこの「鉄の要塞」の戦いは、後に南山共和国の動脈となる鉄路の、血塗られた産声であったと言えるだろう 。
第四章:逃避行、南へ
箱館湾という名の、物理法則と正気が崩壊した狂気の海域から、蒸気船『横浜丸』が脱出したのは奇跡でも神の加護でもない。それはひとえに、ボイラーで火室を限界まで焚き上げた名もなき機関士たちと、甲板で魔剣を振るい続けた一人の男の極めて即物的な暴力の結果であった。
しかし、凄惨な撤退戦を生き延びた避難民と敗残兵たちを乗せたその大型船が直面したのは、安堵という名の凪ではなく、緩やかな精神の死と肉体の変容という、より陰湿な恐怖の航海であった。
船底には、本土から持ち込まれ、蝦夷地でひと冬を越した鋼鉄のレールが、「バラスト(底荷)」として幾重にも敷き詰められていた。太平洋の荒波を乗り越えるための重心安定装置としての役割に加え、この膨大な質量の「鉄」は、無意識のうちに海の底から這い寄ろうとする邪悪な念波を遮断する、巨大な魔術的防壁として機能していたと推測される。
上甲板には、あの地獄の岸壁で熱結界の要となったC1-030号機の巨大なボイラーが、防水シートに包まれ、無数の弾痕と炭化した異形の体液をこびりつかせたまま、重い沈黙と共に縛り付けられていた。
航海が始まって数日が経過した頃から、船内の空気は決定的に変質し始めた。
それは伝染病の蔓延とは異なる、より根源的な細胞レベルの汚染であった。夜ごと、船底の暗がりからは、ネズミの足音とは明らかに異なる、水を含んだ肉が木材を這いずるような「カサカサ」という異音と、湿った囁き声が聞こえるようになった。
そして何より致命的だったのは、箱館の岸壁であの「黒い霧(瘴気)」を直接肺に吸い込み、あるいは異形の緑色の体液を浴びた者たちの身体に現れ始めた奇妙な兆候である。
「……また三人だ。隔離室へ運べ」
蝦夷共和国総裁・榎本武揚は、船室に設けた臨時の医務室で、冷徹な声で命じた。オランダで近代科学を修めたこの男の双眸には、もはや感情の色はない。
彼は航海中、極めて厳格な「衛生検査」を毎日実施した。それは表向きは壊血病やコレラといった伝染病の予防とされていたが、真の目的は「変異者」の選別と隔離であった。
榎本のノートには、極めて無機質な筆致でその症状が記録されている。
『対象者たちは総じて体温が異常に低下し、極度の乾燥を嫌う。眼球が徐々に突出し、まばたきの回数が極端に減少。唇は薄く退色し、首筋の皮膚に魚鱗に似た硬質化と、エラのような裂け目が形成されつつある。手足の指の間に、水掻きに似た膜の発生を確認』
すなわち、後に「インスマウスの相貌(Innsmouth Look)」と定義される、人間から深海種族への不可逆の遺伝子変異である。榎本は、彼らを冷酷なまでに「科学的」に処理した。
変異の兆候が見られた者は即座に船倉の最下層、冷たく湿った鉄のレールの隙間へと追いやられ、厳重な施錠がなされた。人道や倫理といった甘言は、狂気に対抗するための防波堤にはなり得ないことを、彼は箱館で痛いほど学んでいたのだ。
そして航海から一ヶ月後。船団は、太平洋の深淵、マリアナ諸島近海を通過した。
形而史学的に言えば、この海域は南太平洋に沈むとされる狂気の海底都市「R'lyeh」の座標へと続く、霊的な海溝の入り口に位置している。
その夜、事態は極限に達した。
不気味なほど風が止み、波一つない鏡のような海面が延々と広がった。帆は力なく垂れ下がり、蒸気機関の単調なピストン音だけが、死んだ世界に響く唯一の鼓動となった。見上げれば、そこにあるべき南十字星の姿はなく、人類の天文学を嘲笑うかのような、非ユークリッド幾何学的な配置の未知の星座が、禍々しい紫色の瞬きを放っていた。
船内の至る所で、発狂者が続出した。
見えない巨大な圧力(水圧)が頭蓋骨を内側から圧迫し、名状しがたい深海の夢が人々の脳髄を直接犯し始めたのだ。「海が……海が俺を呼んでいる!」「星が正しい位置に着いた!」と叫びながら、甲板から真っ暗な海へと身を投げようとする者が後を絶たなかった。
その絶望的な狂騒の中、船首の甲板に立ち尽くす一つの影があった。
土方歳三である。
彼は箱館を脱出して以来、満足に睡眠をとっていなかった。両目は血走り、頬は削げ落ちていたが、その精神は隕鉄のごとく冷たく、そして強靭であった。漆黒のフロックコートの裾を夜気に揺らし、彼は右手に抜身の魔剣・和泉守兼定を握りしめ、切っ先を凪いだ海面へと真っ直ぐに突きつけていた。
隕鉄と南山の黒石で鍛えられた刀身が、周囲の狂気の波動を吸い込み、微かな共鳴音を立てている。土方は、暗黒の水底で微睡む「途方もなく巨大な意志」に対し、人間という矮小な存在でありながら、純粋な殺意と鋼鉄の意志をもって対峙していた。
「……手出しはさせん」
土方の乾いた声が、静寂の海に響いた。
それは祈りでも、懇願でもない。明白な「威嚇」であった。
「俺たちは南へ行く。ここは貴様らの領分ではない。もしこの船に触れるつもりなら、その触手を海面に出してみろ。この隕鉄の刃で、貴様らの冷たい血を最後の一滴まで沸騰させてやる」
彼の背後には、防水シートを被ったC1-030号機の巨大なボイラーが、まるで主人の意志に呼応するかのように、微かな熱を帯びて静かに鎮座していた。ボイラーには火は入っていないのに、周辺の温度は明らかに上がりつつあった。
一本の魔剣と、一機の蒸気機関。それが、旧き神々の領域を侵す人類の、ささやかな、しかし決して折れることのない「牙」であった。
一晩中、土方は彫像のように動かず、海と対話し、否、睨み合いを続けた。
やがて、狂気の星座が白み始め、水平線の彼方から物理法則に従った正常な太陽が昇り始めた時。鏡のようだった海面がざわめき、船の周囲数十海里にわたって、膨大な数の深海魚の死骸が、腹を白く見せて浮かび上がった。水圧の急激な変化によるものか、あるいは隕鉄の呪波によるものかは定かではない。
だが、確かな事実が一つだけあった。
『横浜丸』は、古き者たちの領域を強行突破し、魔の海域を生き延びたのである。土方が静かに刀を鞘に納めた時、背後で緊張の糸が切れた機関士たちが、甲板に泣き崩れる音が響いた。
終章:霧の先で
グラスの氷が溶け、カチンと冷たい音を立てた。
大学の私室。私は、琥珀色の液体が入ったグラスを傾けながら、手元の古い羊皮紙の束、レベル4の機密指定解除資料から目を上げた。
過酷な航海の末、旧幕府軍の残党と避難民たちは、赤道を越えた南山への上陸を果たした。彼らはレールと蒸気機関車という近代工業の血液を大地に定着させ、新たな国家を建設していった。
だが、1つ問題がある。『横浜丸』の船底に隔離されていた者たちである。
箱館の瘴気を浴び、インスマウスの相貌を発症した彼らは、内陸の乾燥したサバンナ気候の土地には肉体的に順応できなかった。榎本ら共和国の指導者層は、極めて政治的かつ冷酷な判断を下した。彼らを、南山共和国の北島、一年中濃霧に覆われ、冷たい海流がぶつかる湿潤な海岸地帯へと「入植(という名の隔離)」させたのである。
それが、現在の「インスマウス郡(Innsmouth County)」の起源である。
インスマウス郡の住民たちは、独特の閉鎖的なコミュニティを形成した。彼らは現地の深い海溝に潜む、箱館の「海僧」と同種の海底種族と、ある種の狂気じみた協定(あるいは血の交わり)を結んだと噂されている。麦茶で良い。
彼らは外界との接触を極力断ちながら、得も言われぬ生臭さと強烈な旨味を持つ魚醤や、私が今飲んでいるこの深海のようなヨード香を放つシングルモルト・ウィスキーを生産し、共和国の経済の暗部を担っている。
南山共和国憲法が謳う「信教の自由」という美しい言葉の陰で、インスマウス郡の古びた教会の地下では、今も「Dagon」や「Cthulhu」といった発音不能な神々への冒涜的な祈りが捧げられていることは、公然の秘密である。
一方、箱館を生き延びた土方歳三の晩年は、正史が語るような栄光に満ちたものではなかった。
彼は榎本と共に南山共和国陸軍の創設に尽力し、その冷徹な戦術眼で国家の礎を築いたが、軍の近代化が完了すると同時に、未練なく軍籍を退いた。
彼が隠居の地に選んだのは、風光明媚な保養地ではなく、皮肉にもあのインスマウス郡と内陸部の境界線にあたる、荒涼とした海岸の崖上であった。
彼は自身の邸宅を、およそ人間の住処とは呼べない「要塞」として設計した。
屋敷の周囲には、内陸の砂漠から何トンもの極度に乾燥した砂を運び込ませて敷き詰め、深きものどもが最も嫌う「乾燥」の結界を築いた。
さらに、地下には旧式の弾痕のついた蒸気機関とダイナモ(発電機)を設置し、屋敷を囲む鉄柵に昼夜を問わず高圧の直流電流を流し続けた。
近隣の村の者たちは、彼を「狂った老将」と呼んで遠ざけた。しかし、彼は老境に入ってもなお、漆黒のコートを羽織り、錆びることのない和泉守兼定を手放さず、毎夜、波打つ暗い海の方角を睨みつけながら、決して眠ろうとはしなかったという。
彼は知っていたのだ。
箱館での勝利も、マリアナ海域での突破も、決して人類の「勝利」などではないということを。それは単に、宇宙の悠久の時間のスケールにおいて、彼らが一瞬だけ微睡みを深くしただけのことに過ぎない。
1910年、土方歳三は、その要塞のような邸宅のテラスで、海を睨みつけたまま、立った姿勢で事切れているのが発見された。死因は老衰であったが、その顔には微かな笑みすら浮かんでいたと記録されている。
彼の遺言状には、財産分与や国家への未練などは一切書かれておらず、極めて乾いた筆致で、ただ一行、後世の我々に向けた戦術的指示だけが記されていた。
『奴らは待っている。星が正しい位置に戻る時を。……それまでは、俺たちがこの鉄と蒸気で、蓋をしておかねばならん』
私は、グラスの底に残ったウィスキーを飲み干す。
強烈なピートの香りの奥底に、確かな潮騒と、微かな鉄錆の味、そしてオゾンの焦げた匂いがした。あの時、一本木の関門で彼を救った機関車のボイラーのように。そして、狂気の海で彼が振るい続けた、隕鉄の刃のように。
2028年の今、彼の残した邸宅のすぐ近くに陸軍の「特別通信所」設けられている。任務内容は一切不詳。
ただ施設に出入りする兵士たちは、とても通信部隊に見えず、恐ろしく研ぎ澄まされた精鋭部隊、いや、武人たちに見えると言われている。
窓の外、南山の夜空を見上げる。
星の配置は、今のところ、まだ「狂って」はいないようだ。だが、蓋がいつまで保つかは、誰にも分からない。
イア、イア。




