第9話「王都へ」
馬車の車輪が石畳を叩く音が、規則的に響いていた。
窓の向こうに、王都の尖塔が遠く見えてきた。五日間の旅路で見慣れた田園風景が、石壁と煉瓦の街並みに変わりつつある。馬車の中には干し草と革の匂いが染みついている。
リゼットは窓枠に指を置き、近づいてくる尖塔の群れを見ていた。二ヶ月前に逃げ出した街が、視界の中で大きくなっていく。
隣の席でレオンが腕を組んだまま目を閉じていた。眠っているわけではない。時折、唇が動く。記憶の断片を反芻しているのだろう。旅の間も回復は進んでいた。王都に近づくほど、記憶の解像度が上がっているように見えた。
入都の準備は整えてあった。
マルグリットが教会の伝手で用意した身分証は「教会の療養調査員」のものだった。教会関係者に対する身体検査や魔力検査は慣習的に免除される。それがリゼットの最初の防壁になる。
加えてレオンが、記憶回復で取り戻した側近時代の人脈を使っていた。魔法省内の旧友に通信鳥で連絡を取り、「記憶障害の治療者として同行させている」という名目上の庇護を確保済み。召還命令についても、レオン自身が「回復報告を兼ねて帰都する」と侯爵家に書簡を送り、猶予期限前の自主帰還として処理していた。
全て、レオンが手配した。記憶が戻るにつれ、王太子の側近として動いていた頃の手腕が鮮やかに蘇っていた。
「門が見える」
レオンが目を開けた。
王都の外門だった。高い石壁の間に鉄の門扉。衛兵が馬車を止め、身分証の確認をしている。リゼットは胸の内ポケットに入れた教会の書面に手を触れた。紙の端が指先に当たる。
レオンが馬車の窓から身を乗り出し、衛兵に声をかけた。
「バルティエ侯爵家嫡男、レオン・バルティエだ。帰都する。同行者は教会の療養調査員」
衛兵の態度が変わった。背筋が伸び、敬礼が入る。侯爵家の名は門を開けるのに十分だった。
馬車が門をくぐった。石畳の音が変わり、街の喧騒が流れ込んできた。焼き栗の匂い。革職人の工房から漂う膠の匂い。人の声。馬のいななき。
二ヶ月前、夜明け前の暗闘の中で一人で出ていったこの街に、二人で戻ってきた。
教会の王都教区に宿を取った。マルグリットの旧知である司祭の手配で、教区付属の客間が用意されていた。質素だが清潔な小部屋が二つ。
荷を解く間もなく、レオンが動き始めた。
「魔法省の捜査の動きを確認してくる。旧友に直接会う。お前はここを動くな」
「でも——」
「リゼット」
レオンの声が変わった。低く、抑えた声。側近として命令系統の中にいた者の口調だった。
「精神系魔法の使い手を探す一斉捜査の最中だ。お前が表に出れば、魔力の痕跡を検知される可能性がある。俺が先に地盤を作る。それからだ」
リゼットは反論の言葉を飲み込んだ。レオンの判断は正しかった。感情ではなく、状況の分析に基づいている。記憶を取り戻したレオンの能力が全開で機能しているのを、目の前で見ていた。
「……分かりました」
レオンは外套を羽織り直し、部屋を出ていった。
一人になった部屋で、リゼットは窓辺に立った。王都の屋根が連なる風景。遠くに王宮の尖塔が見える。あの尖塔の下で、五年間を過ごした。
胸の奥が引き攣った。けれど足は震えなかった。
レオンが戻ったのは夕刻だった。
「捜査の重点は王宮周辺と貴族街に集中している。教会の管轄区域には手を出しにくい状況だ。旧友が捜査官の巡回ルートを教えてくれた。お前の行動ルートからは外せる」
レオンは外套を脱ぎながら、手際よく情報を並べた。地図を広げ、安全な経路と危険な区域を指で示す。
「まず誰に会う」
リゼットは考えていた。療養院に来た侍女の顔が浮かんだ。お父様の屋敷の人。けれど公爵邸は貴族街の中心にある。捜査の密度が高い場所だ。
「最初は——教会に近い場所に住んでいる人から」
幼い頃、一緒に遊んだ侍女がいた。公爵家を退いた後、教会の近くで仕立物の仕事をしていたはずだ。リゼットが十二の時まで屋敷にいた女性。名前を呼べば、声を聞かせれば、何かが戻るかもしれない。
「心当たりがある。明日の朝、動きます」
翌朝。教会の鐘が六つ鳴った。
リゼットは教会の調査員の装束を身にまとい、レオンと共に裏通りを歩いた。レオンが半歩前を歩く。周囲への視線の配り方が変わっていた。療養院にいた頃の、どこか頼りない足取りは完全に消えていた。
仕立物の工房は教会から三区画先にあった。木の扉を叩くと、五十がらみの女性が顔を出した。
リゼットの喉が詰まった。白髪が増えていた。目尻の皺が深くなっていた。けれど手の形は変わっていない。幼いリゼットの髪にリボンを結んでくれた、あの太い指。
「どちら様でしょう」
女性の目にはリゼットへの認識がなかった。
「わたしの声を、聞いてください」
リゼットは一歩近づいた。
子守唄を歌った。幼い頃、この女性が毎晩リゼットに聞かせてくれた子守唄。母が亡くなった後、泣き止まないリゼットを膝に乗せて、何度も繰り返し歌ってくれた旋律。
三小節で、女性の目が揺れた。
手が口元に上がった。唇が震えている。
「……お嬢……様?」
リゼットの視界が滲んだ。笑顔が浮かんだ。前の人生の笑顔ではなかった。患者を守るための笑顔でもなかった。初めて自分のために浮かべた笑顔だった。
「ただいま。覚えていてくれましたか」
女性の目から涙がこぼれた。
工房を出た後、リゼットは路地の壁にもたれた。息が荒かった。涙の痕が頬に残っている。
レオンが黙って隣に立っていた。
「……思い出してもらえた」
声が震えた。
「一人だけだ。まだ一人。でも——」
「その顔が見たかった」
レオンの声は静かだった。リゼットが見上げると、レオンの目は路地の先を警戒しながらも、一瞬だけリゼットに向いた。
「笑ったな。初めて見た。ここに来てから」
リゼットは袖で目元を拭った。
記憶回復は可能だという証明が、一つ、成された。しかし全員を一人ずつ回復させるには途方もない時間がかかる。宮廷の貴族たち、王都の使用人たち、そして父。本格的に進めるには、個人の力では足りない。
「公爵家の後ろ盾がいる」
レオンが言った。リゼットの考えと同じだった。
「お父様に——会わなければ」
公爵邸は貴族街の中心。捜査の密度が最も高い区域。けれど避けては通れない。
教会の宿に戻り、翌日の段取りを組み始めた直後だった。
教区の司祭が客間の扉を叩いた。
「お客様。教会の療養調査の連絡を受けた方が、自らお越しになりました」
扉の向こうに立っていたのは、長身の男性だった。銀髪に白い筋が混じり、頬がやつれている。しかし纏う空気は紛れもなく——ヴェルヌ公爵だった。
父の目がリゼットを捉えた。
長い沈黙が落ちた。
父の手が震えていた。




