表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
婚約破棄の日に記憶を消してあげたのに、あなたはまだ私を探すんですか  作者: 月雅


この作品ページにはなろうチアーズプログラム参加に伴う広告が設置されています。詳細はこちら

8/10

第8話「わたしが消した」

リゼットは朝の湯治場の準備をする手を止めた。


廊下の向こうから、レオンが真っ直ぐ歩いてくる。足取りに昨夜の動揺は残っていなかった。むしろ覚悟を決めた者の歩幅だった。寝間着から着替えた白い襟元に、まだ乾ききらない汗の跡がある。一睡もしていないのかもしれなかった。


「リゼット」


レオンはもう「リゼさん」とは呼ばなかった。


「あの夜会で魔法を使ったのは誰だ」


湯治場の石床に、温泉の蒸気が薄く漂っていた。硫黄の匂いがいつもより濃く鼻を刺す。リゼットは手にしていた桶を静かに置いた。木が石に当たる音が、二人の間に落ちた。


「話してくれ。断片は見えている。光。手を伸ばした女。崩れ落ちる男の顔——王族の装束を着た男だ。あの後から、俺の記憶が消えた」


レオンの目は据わっていた。けれどその奥に、答えを聞く前から薄々分かっているような色があった。


リゼットは桶の縁から手を離した。立ち上がった。レオンの目を正面から見た。


「場所を変えましょう」


院長室だった。


マルグリットに声をかけ、三人で入った。リゼットが自分から「院長にも聞いていただきたい」と言った。マルグリットは何も問わず椅子を引いた。


窓は閉めた。朝の光だけが室内を白く満たしている。机の上に薬草の束が置かれたままだった。乾いた葉の匂いが微かに漂う。


リゼットは立ったまま話し始めた。


「あの夜会で魔法を使ったのは——わたしです」


レオンの表情が動かなかった。マルグリットの指が机の縁で止まった。


「わたしの家——ヴェルヌ公爵家の血筋に伝わる魔法です。精神系の秘術で、名前は『オブリヴィオン』。対象に触れた状態で発動し、術者に関する全ての記憶を消す」


声は震えなかった。何度も夜の中で繰り返した言葉だった。口の中で転がし、飲み込み、また取り出して形を確かめた言葉だった。


「あの夜、王太子殿下がわたしとの婚約を破棄しました。『お前のことは最初から好きではなかった』と。五年間の婚約の最後の言葉が、それでした」


レオンの拳が膝の上で握られた。関節が白く浮き上がった。


「わたしは殿下の手に触れて、魔法を使いました。殿下の記憶からわたしを消しました。もう二度と、あの方にわたしのことで苦しんでほしくなかったから——いえ、違う。わたしが、もう耐えられなかったからです」


リゼットは目を伏せなかった。


「一人だけのつもりでした。殿下の記憶だけを消すつもりだった。でも波及した。わたしとの関係が深い人ほど、強く、速く、記憶が薄れていった」


マルグリットが小さく息を吐いた。腕を組み直す衣擦れの音がした。


「あなたのことまで消えるなんて、知らなかった」


リゼットの視線がレオンに向いた。


「波及は想定外でした。わたしの知識では、対象は一人だけのはずだった。でも結果として——あなたの記憶も、王都の人々の記憶も、お父様の屋敷の人たちの記憶も。全て、わたしが消した」


沈黙が降りた。窓の外で小鳥が鳴いた。その声が遠かった。


レオンが口を開いた。


「……お前のせいじゃない」


リゼットの呼吸が止まった。


「あいつが、お前にそうさせた」


レオンの声は低かった。怒りが混じっていた。しかしそれはリゼットに向けられたものではなかった。握られた拳が震えている。


「五年間、お前がどれだけ耐えていたか——」


記憶の断片が、感情で補完されているのだとリゼットには分かった。具体的な場面の全てはまだ戻っていない。けれどレオンの身体は覚えている。リゼットが冷遇されていた五年間、そのそばで歯を食いしばっていた感覚を。


「記憶はまだ全部は戻っていない。でも分かる。お前が追い詰められていたことは——俺の身体が覚えている」


レオンが立ち上がった。椅子が軋んだ。一歩でリゼットの前に来た。


「なぜ怒らないんですか」


リゼットの声が裏返った。


「あなたの記憶を奪ったのはわたしです。直接ではなくても、原因はわたしです。あなたが苦しんだのは——」


「理屈じゃない」


レオンの腕がリゼットの背中に回った。


引き寄せられた。レオンの胸に額が当たった。襟元から石鹸と汗の混じった匂いがした。心臓の音が聞こえた。速かった。レオンも緊張しているのだと、耳が教えた。


「お前が辛かったことは、俺の身体が覚えている。理屈じゃない」


リゼットの両手が宙に浮いたまま震えていた。抱きしめ返すことも、突き放すこともできなかった。目の奥が熱くなり、視界が滲んだ。


マルグリットは席を立たなかった。机の上で指を組んだまま、二人を静かに見ていた。


しばらくして、リゼットがレオンの腕の中から離れた。目元を袖で拭い、マルグリットの前に向き直った。


「院長。波及を止める方法について、お話しさせてください」


マルグリットが頷いた。


「波及は、わたしへの記憶が消えることで広がっています。逆に言えば、記憶が戻れば波及は止まる。忘れた人たちに、わたしを思い出してもらうしかありません」


「一人ずつ?」


「はい。わたし自身が——思い出す手がかりとして存在を提示する必要があります。声を聞かせる、匂いを嗅がせる、名前を呼ぶ。五感の刺激を使って、一人ずつ」


「王都に行く必要があるわね」


マルグリットの声に迷いはなかった。事実を確認しただけの口調だった。


「教会の伝手を使いましょう。王都の教区にはわたくしの旧知がいる。移動と滞在の名目は作れるわ」


レオンが口を開いた。


「俺も行く。記憶が戻りかけている今なら、側近時代の人脈が使える。魔法省の動きを抑える手も打てる」


リゼットは二人の顔を見た。一人で抱えてきたものを、初めて他の誰かと分けている。その感覚が奇妙で、どこか怖くて、それでも——喉の奥のつかえが、少しだけ軽くなっていた。


夕暮れ。リゼットは庭に出て、一人で白鈴蘭の花壇に水を遣っていた。


レオンの記憶断片の中で、婚約破棄の夜の場面がより鮮明に戻りつつあるのを感じていた。午後の会話の端々に、あの夜会の広間の描写が混じった。灯りの位置。人々の衣装の色。そして——


「『お前のことは最初から好きではなかった』」


レオンがその台詞を口にした時、拳を握りしめていた。自分に向けられた言葉ではないのに、身体が反応していた。あの場に立っていた記憶が、戻り始めている。


水差しから水が溢れ、花壇の土を濡らした。リゼットは手を止め、空を見上げた。夕焼けの橙が薄れかけている。


全てを話した。受け止められた。次は、王都に行く。


扉の開く音がした。マルグリットが庭に出てきた——のではなかった。


フィリップだった。息を切らせている。外套に土埃がついていた。馬を走らせてきた様子が一目で分かった。


「レオン様、リゼさん」


療養室の窓からレオンが顔を出した。フィリップは二人を交互に見て、声を絞り出した。


「王都で、魔法省が精神系魔法の使い手を対象にした一斉捜査を始めました」


リゼットの手から水差しが滑り落ちた。石畳の上で水が弾け、足元を濡らした。

評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

↑ページトップへ