第8話「わたしが消した」
リゼットは朝の湯治場の準備をする手を止めた。
廊下の向こうから、レオンが真っ直ぐ歩いてくる。足取りに昨夜の動揺は残っていなかった。むしろ覚悟を決めた者の歩幅だった。寝間着から着替えた白い襟元に、まだ乾ききらない汗の跡がある。一睡もしていないのかもしれなかった。
「リゼット」
レオンはもう「リゼさん」とは呼ばなかった。
「あの夜会で魔法を使ったのは誰だ」
湯治場の石床に、温泉の蒸気が薄く漂っていた。硫黄の匂いがいつもより濃く鼻を刺す。リゼットは手にしていた桶を静かに置いた。木が石に当たる音が、二人の間に落ちた。
「話してくれ。断片は見えている。光。手を伸ばした女。崩れ落ちる男の顔——王族の装束を着た男だ。あの後から、俺の記憶が消えた」
レオンの目は据わっていた。けれどその奥に、答えを聞く前から薄々分かっているような色があった。
リゼットは桶の縁から手を離した。立ち上がった。レオンの目を正面から見た。
「場所を変えましょう」
院長室だった。
マルグリットに声をかけ、三人で入った。リゼットが自分から「院長にも聞いていただきたい」と言った。マルグリットは何も問わず椅子を引いた。
窓は閉めた。朝の光だけが室内を白く満たしている。机の上に薬草の束が置かれたままだった。乾いた葉の匂いが微かに漂う。
リゼットは立ったまま話し始めた。
「あの夜会で魔法を使ったのは——わたしです」
レオンの表情が動かなかった。マルグリットの指が机の縁で止まった。
「わたしの家——ヴェルヌ公爵家の血筋に伝わる魔法です。精神系の秘術で、名前は『オブリヴィオン』。対象に触れた状態で発動し、術者に関する全ての記憶を消す」
声は震えなかった。何度も夜の中で繰り返した言葉だった。口の中で転がし、飲み込み、また取り出して形を確かめた言葉だった。
「あの夜、王太子殿下がわたしとの婚約を破棄しました。『お前のことは最初から好きではなかった』と。五年間の婚約の最後の言葉が、それでした」
レオンの拳が膝の上で握られた。関節が白く浮き上がった。
「わたしは殿下の手に触れて、魔法を使いました。殿下の記憶からわたしを消しました。もう二度と、あの方にわたしのことで苦しんでほしくなかったから——いえ、違う。わたしが、もう耐えられなかったからです」
リゼットは目を伏せなかった。
「一人だけのつもりでした。殿下の記憶だけを消すつもりだった。でも波及した。わたしとの関係が深い人ほど、強く、速く、記憶が薄れていった」
マルグリットが小さく息を吐いた。腕を組み直す衣擦れの音がした。
「あなたのことまで消えるなんて、知らなかった」
リゼットの視線がレオンに向いた。
「波及は想定外でした。わたしの知識では、対象は一人だけのはずだった。でも結果として——あなたの記憶も、王都の人々の記憶も、お父様の屋敷の人たちの記憶も。全て、わたしが消した」
沈黙が降りた。窓の外で小鳥が鳴いた。その声が遠かった。
レオンが口を開いた。
「……お前のせいじゃない」
リゼットの呼吸が止まった。
「あいつが、お前にそうさせた」
レオンの声は低かった。怒りが混じっていた。しかしそれはリゼットに向けられたものではなかった。握られた拳が震えている。
「五年間、お前がどれだけ耐えていたか——」
記憶の断片が、感情で補完されているのだとリゼットには分かった。具体的な場面の全てはまだ戻っていない。けれどレオンの身体は覚えている。リゼットが冷遇されていた五年間、そのそばで歯を食いしばっていた感覚を。
「記憶はまだ全部は戻っていない。でも分かる。お前が追い詰められていたことは——俺の身体が覚えている」
レオンが立ち上がった。椅子が軋んだ。一歩でリゼットの前に来た。
「なぜ怒らないんですか」
リゼットの声が裏返った。
「あなたの記憶を奪ったのはわたしです。直接ではなくても、原因はわたしです。あなたが苦しんだのは——」
「理屈じゃない」
レオンの腕がリゼットの背中に回った。
引き寄せられた。レオンの胸に額が当たった。襟元から石鹸と汗の混じった匂いがした。心臓の音が聞こえた。速かった。レオンも緊張しているのだと、耳が教えた。
「お前が辛かったことは、俺の身体が覚えている。理屈じゃない」
リゼットの両手が宙に浮いたまま震えていた。抱きしめ返すことも、突き放すこともできなかった。目の奥が熱くなり、視界が滲んだ。
マルグリットは席を立たなかった。机の上で指を組んだまま、二人を静かに見ていた。
しばらくして、リゼットがレオンの腕の中から離れた。目元を袖で拭い、マルグリットの前に向き直った。
「院長。波及を止める方法について、お話しさせてください」
マルグリットが頷いた。
「波及は、わたしへの記憶が消えることで広がっています。逆に言えば、記憶が戻れば波及は止まる。忘れた人たちに、わたしを思い出してもらうしかありません」
「一人ずつ?」
「はい。わたし自身が——思い出す手がかりとして存在を提示する必要があります。声を聞かせる、匂いを嗅がせる、名前を呼ぶ。五感の刺激を使って、一人ずつ」
「王都に行く必要があるわね」
マルグリットの声に迷いはなかった。事実を確認しただけの口調だった。
「教会の伝手を使いましょう。王都の教区にはわたくしの旧知がいる。移動と滞在の名目は作れるわ」
レオンが口を開いた。
「俺も行く。記憶が戻りかけている今なら、側近時代の人脈が使える。魔法省の動きを抑える手も打てる」
リゼットは二人の顔を見た。一人で抱えてきたものを、初めて他の誰かと分けている。その感覚が奇妙で、どこか怖くて、それでも——喉の奥のつかえが、少しだけ軽くなっていた。
夕暮れ。リゼットは庭に出て、一人で白鈴蘭の花壇に水を遣っていた。
レオンの記憶断片の中で、婚約破棄の夜の場面がより鮮明に戻りつつあるのを感じていた。午後の会話の端々に、あの夜会の広間の描写が混じった。灯りの位置。人々の衣装の色。そして——
「『お前のことは最初から好きではなかった』」
レオンがその台詞を口にした時、拳を握りしめていた。自分に向けられた言葉ではないのに、身体が反応していた。あの場に立っていた記憶が、戻り始めている。
水差しから水が溢れ、花壇の土を濡らした。リゼットは手を止め、空を見上げた。夕焼けの橙が薄れかけている。
全てを話した。受け止められた。次は、王都に行く。
扉の開く音がした。マルグリットが庭に出てきた——のではなかった。
フィリップだった。息を切らせている。外套に土埃がついていた。馬を走らせてきた様子が一目で分かった。
「レオン様、リゼさん」
療養室の窓からレオンが顔を出した。フィリップは二人を交互に見て、声を絞り出した。
「王都で、魔法省が精神系魔法の使い手を対象にした一斉捜査を始めました」
リゼットの手から水差しが滑り落ちた。石畳の上で水が弾け、足元を濡らした。




