第7話「約束の言葉」
「大きくなったら俺が守る——そう言ったんだ。俺は」
レオンの声が、深夜の廊下に落ちた。リゼットの部屋の前。寝間着のままのレオンは、自分が口にした言葉に驚いたように目を見開いていた。
「……今、思い出した。自分で言って、思い出した」
リゼットは扉の枠に手をかけたまま、息を止めていた。素足に廊下の石の冷たさが沁みている。
「お前が、木に登って降りられなくなった。泣いていた。俺は下から手を伸ばして——届かなくて」
レオンの目が宙を見ていた。記憶の断片を追いかけている。声は途切れ途切れだったが、輪郭ははっきりしていた。
「結局俺も登って、二人で枝にしがみついたんだ。お前がまだ泣いていたから、俺は言った——大きくなったら俺が守る、だから泣くなって」
リゼットの喉の奥が熱くなった。
あの日のことを覚えている。屋敷の裏庭の、大きな樫の木。枝の上で二人して泣きそうになりながら、レオンだけが必死に声を張っていた。全然頼もしくなかった。でもその声が、幼いリゼットには世界で一番心強かった。
「……ええ。そう言ってくれました」
声が震えた。抑えたつもりだったが、唇の端から漏れた。
「で、結局どうなったんだ。あの後」
「お父様が——あなたのお父様が、梯子を持って来てくださいました。二人とも叱られて、おやつを抜かれました」
レオンの口元がわずかに緩んだ。記憶と言葉が噛み合った瞬間の、微かな安堵。
「……そうだ。そうだった。親父に怒鳴られて、お前がまた泣いて——」
「わたしは泣いていません」
「泣いてた」
「泣いていません」
二人の間に、沈黙が落ちた。廊下の奥で風が窓を揺らす音がした。レオンの目がリゼットに戻った。先ほどまでの必死さとは違う、静かな目だった。
「……昔からそうだったんだな。お前は泣いてないって言い張る」
リゼットは返事ができなかった。唇を引き結んだ。
翌朝から、回想法の密度を上げた。
リゼットはこれまで慎重に選んでいた刺激を、より直接的に切り替えた。幼少期の記憶を軸に、二人が共有した場所、食べたもの、聞いた音を、リゼット自身の記憶から再現していく。
庭で摘んだ野苺の味。屋敷の台所から漏れる焼き菓子の香り。雨の日に二人で聞いた屋根を叩く水の音。
一つの感覚を差し出すたびに、レオンの目の奥で何かが揺れた。言葉になるもの、ならないものがあった。断片は増えていったが、全体像はまだ結ばない。
午後の回想法を終えた後、レオンが急に目を閉じた。
「——広間が見える」
声の温度が変わっていた。
「夜だ。灯りがたくさんある。人が大勢いて——」
リゼットの指が膝の上で強張った。
「若い男が立っている。王族の装束だ。誰かに向かって——何か言っている。冷たい声だ。女が立っている。女は——」
レオンの眉間に深い皺が刻まれた。
「顔が……見えない。でも動かなかった。そいつはじっと立っていた。男の言葉を全部受けて、それでも倒れなかった」
目が開いた。額に汗が浮いている。
「あれは何だ。誰だ。あの場面は——」
「今日はここまでにしましょう」
リゼットの声は落ち着いていた。両手は膝の下に隠していた。見せられる状態ではなかった。
レオンは抵抗しなかった。ただリゼットの顔を長く見つめて、それから窓の外に視線を移した。
夕暮れ。庭に出ていたリゼットのもとに、レオンが来た。
白鈴蘭の花壇の前。リゼットが水遣りをしている横に、黙って立った。夕陽が二人の影を長く伸ばしていた。
「ずっと好きだった」
リゼットの手から水差しが傾いた。水が花壇の外にこぼれ、土を黒く濡らした。
「記憶が教えてくれなくても、ここが知っていた」
レオンが自分の胸を拳で叩いた。硬い音がした。
「感情が先に戻ってきたんだ。お前の名前を聞く前から、紅茶の匂いを嗅いだ時から、花を渡した時から。記憶がなくても、好きだった。記憶が戻り始めた今は——もっとだ」
リゼットは水差しを地面に置いた。両手が濡れていた。夕風が冷たい指に吹きつける。
「……今は、まだ答えられない」
拒絶ではなかった。あの療養室で「記憶のせいです」と突き放した時とは、声が違っていた。自分でも分かっていた。
レオンは黙って頷いた。
その夜。療養院の門に馬車が着いた。
マルグリットが応対に出ると、降りてきたのは中年の女性だった。質素な旅装だが、所作の一つ一つに育ちの良さが滲んでいる。
「どうか助けてください。お仕えしていた——ヴェルヌ公爵家のお嬢様のことが、どうしても思い出せないのです」
リゼットは調剤室の奥にいた。カーテン越しに聞こえるその声に、全身が硬直した。
聞き覚えがあった。
幼い頃からリゼットの髪を梳き、寝かしつけ、泣けば背中をさすってくれた侍女の声だった。名前も、顔の皺の一本一本も、リゼットは全て覚えている。けれどあの女性はリゼットのことを何も覚えていない。
「旦那様は最近、空のお部屋の前で立ち止まっておられます。誰のお部屋だったか、どなたも思い出せないのです」
カーテンの布をリゼットの指が握りしめていた。布地が歪んだ。
お父様の記憶にも、波及が——。
あの屋敷のわたしの部屋。窓辺に白鈴蘭の鉢を置いていた。母の形見の首飾りをしまっていた引き出し。本棚に並べた詩集。全てがそのまま残っているのに、誰のものか分からなくなっている。
リゼットはカーテンの裏で膝を抱えた。声を出さなかった。侍女に顔を見せるわけにはいかなかった。今の自分が名乗り出れば、精神系魔法の術者としての手がかりを増やしてしまう。
レオン一人の問題ではない。王都の貴族たち。父の屋敷の使用人たち。全てを——わたしが解決しなければならない。
その覚悟が、膝を抱えた姿勢の中で静かに固まっていった。
深夜。
レオンが突然、寝台の上で目を見開いた。
リゼットは巡回中だった。療養室の前を通りかかった時、中から荒い呼吸が聞こえた。扉を開けると、レオンが上体を起こしていた。汗が額から首筋を伝っている。シーツを掴む手が白い。
「——思い出した」
レオンの目がリゼットを捉えた。瞳孔が開いていた。
「夜会だ。あの夜——誰かが、魔法を使った」
リゼットの足が床に根を張った。
「光が見えた。手を伸ばした女がいた。それで——全部が消えた。あの後から、俺の記憶が」
レオンの声は震えていたが、目は確かだった。
「誰だ。誰が魔法を使ったんだ」
リゼットの指先が、扉の取っ手の上で凍りついていた。




