第6話「あなたの名前を」
侯爵家の召還命令は絶対だ。幼い頃から、それは知っていた。
公爵家も侯爵家も、名を背負う者には逃れられない鎖がある。レオンがこの療養院に留まれる道理はなかった。侯爵家の嫡男が正式な命令に背くことは、家の存続に関わる。
マルグリットが院長室の机に便箋を広げたのは、召還命令が届いたその日の夕刻だった。
「教会管轄の療養施設において、療養中の患者を強制的に移送することは教会規定に反します。この論拠で、侯爵家に猶予を求める書簡を出すわ」
リゼットは院長室の隅に立ち、マルグリットの筆が便箋の上を走るのを見ていた。
「ただし、わたくし一人の署名では弱い。司教の署名がいるわ」
マルグリットは筆を止め、窓の外に目をやった。
「ブランシュの司教には、かつて戦場で治癒を施した借りがある。使うなら今ね」
二日後、司教の署名入りの書簡がフィリップの手で侯爵家に発送された。教会の権威を正面から退けることは、侯爵家であっても容易ではない。
一ヶ月の猶予。
それがマルグリットが勝ち取った時間だった。
猶予が成立したとフィリップから返事が届いた朝、リゼットはレオンの療養室の前に立っていた。
盆も茶器も持っていなかった。手ぶらだった。掌が汗で湿っている。
扉を叩いた。
「どうぞ」
中に入ると、レオンは寝台の縁に腰かけていた。朝の支度は済んでいる。黒い髪が少し乱れたまま、窓から差す光を浴びている。
「レオン様」
「ああ」
「今日は……お話があります」
レオンの目がリゼットに向いた。いつもの回想法とは違う雰囲気を察したのか、姿勢がわずかに変わった。背筋が伸び、両手が膝の上に置かれる。
リゼットは療養室の扉を閉めた。
窓の外から小鳥の声が聞こえていた。白鈴蘭の花壇の方角だった。朝の温泉の湯気がうっすらと庭に漂っている。
「わたしの名前は、リゼではありません」
レオンの瞳が動いた。
「わたしはリゼットです。リゼット・ヴェルヌ。あなたの——元・幼馴染です」
声が震えた。最後の一語を押し出すのに、喉の奥の全ての力を使った。
「もう忘れてくれて構いません。でも、あなたの記憶を取り戻すためには——わたしが誰なのか、伝えなければいけなかった」
レオンは動かなかった。膝の上の手が微かに開き、また閉じた。黒い目がリゼットの顔を見つめていた。そこに怒りはなかった。困惑でもなかった。何か途方もなく大きなものの縁に触れた者の、静かな緊張だった。
「——リゼット」
レオンがその名を口にした瞬間。
涙が落ちた。
レオンの目から。まばたきもなく。頬を伝い、顎の線を辿り、膝の上に置かれた手の甲に落ちた。一粒、二粒。止まらなかった。
レオンは自分が泣いていることに気づいていないようだった。目を見開いたまま、口が「リゼット」の形を繰り返している。声にならない。唇だけが動く。
映像が来ているのだろうとリゼットは思った。名前の音が身体記憶を一気に揺さぶり、断片が怒涛のように溢れ出している。幼い日の庭、手を繋いだ帰り道、笑い合った食卓——それらが順番もなく、輪郭も曖昧なまま、一度に押し寄せている。
レオンの手が顔を覆った。肩が震えていた。呼吸が荒い。嗚咽を噛み殺そうとして、噛み殺しきれない音が指の隙間から漏れた。
リゼットは一歩も動けなかった。自分の名前がこの人にこれほどの衝撃を与えているという事実が、足を縫い止めていた。
長い時間が経った。小鳥の声が二度、三度と入れ替わった。
レオンが顔から手を下ろした。目が赤かった。頬が濡れていた。しかしその奥にある黒い瞳は、ここ数週間で初めて焦点が定まっていた。
「——だから安心したのか」
低い声だった。喉に嗚咽の名残が引っかかっている。
「あんたが薬湯を出した時。花を受け取った時。紅茶の淹れ方を見た時。全部——全部、知っていたからか」
リゼットは頷いた。声が出なかった。
レオンが立ち上がった。一歩、リゼットに近づいた。その距離で、彼の呼吸の熱がリゼットの額に触れた。
「忘れた俺を、許してくれ」
リゼットの唇が震えた。
「……許すのはわたしの方じゃない」
それ以上は言えなかった。まだ言えなかった。記憶消去魔法のこと。波及のこと。全てはわたしが始めたのだということ。
レオンはリゼットの顔を長く見つめていた。追及はしなかった。ただ頷いた。今はそれだけでいいと言うように。
午後。フィリップが定期報告のために院長室を訪れた。
リゼットはマルグリットと共に報告を聞いた。レオンは療養室で休んでいた。午前の衝撃が大きく、記憶の断片の奔流に疲弊しているようだった。
フィリップは王都の近況を手短に伝えた。
「王太子殿下のご様子ですが——先日、カミーユ様に向かって仰ったそうです」
フィリップは一度言葉を切り、眉間の皺を深くした。
「『お前では足りない』と」
マルグリットの眉が上がった。
「カミーユ様はたいそう動揺しておられたと聞きます。殿下がそのような言葉を向けたのは初めてだったようで」
リゼットは椅子の肘掛けに手を置いたまま動かなかった。指先だけが白く変色していた。
王太子の喪失感が、カミーユとの関係を蝕んでいる。消したはずの記憶の空白が、埋められないまま広がっている。
「殿下は理由をお分かりでないそうです。ただ、何か大切なものが足りないと——そう繰り返しておられるとか」
フィリップは書類を揃え、一礼して去った。
リゼットは院長室の椅子に座ったまま、しばらく動けなかった。マルグリットが静かに窓を開けた。温泉の湯気を含んだ風が入ってきて、リゼットの頬を撫でた。
秘密を一つ手放した。けれどまだ、最も重い秘密が残っている。記憶消去魔法のこと。全てはわたしが始めたのだということ。
それを話す覚悟が、まだ指先の末端で固まりきらない。
深夜。
消灯から二時間が過ぎていた。リゼットは自室の寝台に横たわっていたが、眠れなかった。天井の木目を見つめている。
廊下に足音が響いた。
重く、しかし慎重な足取り。レオンの歩き方だった。
足音がリゼットの部屋の前で止まった。
控えめなノックが二つ。
リゼットは上掛けを肩にかけたまま扉を開けた。
レオンが立っていた。寝間着のまま。目は覚醒していた。夢うつつの表情ではなく、はっきりと意識のある目。
「——俺は、お前に約束した」
声がかすれていた。
「大きくなったら……。続きが、思い出せない。頼む、教えてくれ」
レオンの手が扉の枠を掴んでいた。指の関節が白かった。
リゼットは廊下の冷気を素足に感じながら、レオンの目を見上げた。




