第5話「壊れた慈悲」
「あの青年の記憶障害と——あなたは、関係があるの?」
マルグリットの声は静かだった。院長室の窓から差し込む朝の光が、机の上の書類の端を白く照らしている。薬草の乾いた匂いと、古い木の匂い。
リゼットは立ったまま、言葉を選んだ。
「直接奪ったのではありません」
嘘ではなかった。レオンの記憶を直接消したのではない。波及だった。けれどその波及を引き起こしたのは、紛れもなくわたしだ。
「でも——関係がないとは、言えません」
マルグリットは机の上で指を組んだ。長い沈黙があった。院長室の時計が秒を刻む音だけが、二人の間を埋めていた。
「全ては聞かないわ」
マルグリットが口を開いた。
「あなたが治せるなら、治しなさい。理由は後でいい」
リゼットの喉が詰まった。責められると思っていた。問い詰められると。けれどマルグリットの目には糾弾の色がなかった。傷ついた人間を何人も見てきた者の目だった。
「……はい」
声がかすれた。それでもはっきりと頷いた。
午後の療養室。
リゼットは棚の奥から記録帳を取り出した。調査官はもう去った。隠す必要のある相手は今はいない。
「レオン様。今日は少し、いつもと違うことを試させてください」
レオンは窓辺の椅子に座ったまま頷いた。この数日で、回想法の時間を受け入れる姿勢が定着しつつあった。
リゼットは小卓に幾つかの品を並べた。庭の土を少量入れた小皿。蜂蜜の壺。白鈴蘭の押し花。そして——小さな木の実。
くるみだった。殻のままの、手のひらに収まるくるみ。
幼い頃、レオンとリゼットは屋敷の裏庭でくるみを拾った。割り方を知らなくて、石で叩いて中身を潰してしまい、二人で泣き笑いをした。レオンが「次は俺がうまく割る」と宣言して、結局また潰した。
リゼットはくるみをレオンの手に置いた。
「これを握ってみてください」
レオンの指がくるみの殻を包んだ。硬い表面のざらつきが掌に触れる。
数秒。レオンの目が遠くなった。
「……庭で、女の子と虫を追いかけた」
声が変わっていた。低い声の底に、記憶の手触りを確かめるような慎重さがあった。
「あいつは泣き虫で……蜂が来ると俺の後ろに隠れた。でも蝶は平気で、追いかけて転んで……」
リゼットの膝の上で、指が白くなるほど握り締められていた。
「顔は見えますか」
「……だめだ。輪郭だけだ。髪が長くて、声が高くて。でも名前も顔も——ここまで来て、消える」
レオンが拳でこめかみを押さえた。くるみが手から転がり落ち、床の石畳に硬い音を立てた。
リゼットはそれを拾い上げ、もう一度レオンの手に戻した。
「大丈夫です。今日はここまでで十分です」
「十分じゃない」
レオンの声に苛立ちが混じった。しかしそれはリゼットに向けたものではなく、思い出せない自分自身に向けた刃だった。拳がこめかみに押しつけられたまま離れない。
リゼットはレオンの拳にそっと手を添えた。力を抜かせるように、指先を滑らせる。
「記憶は、急いで取り戻すものではありません。身体が覚えていることを、少しずつ言葉にしていく。それだけで——」
「記憶が戻らなくても」
レオンの拳から力が抜けた。代わりに、リゼットの手を掴んだ。急な動きだった。指が重なった瞬間、レオンの掌の熱がリゼットの冷えた指先に伝わった。
「記憶が戻らなくても、君のそばにいたい」
黒い目がまっすぐにリゼットを見ていた。記憶ではない。今この瞬間の、剥き出しの感情だった。
リゼットの心臓が喉元まで跳ね上がった。
手を引いた。
「それは、記憶のせいです」
声を平坦に保った。笑顔を作った。前の人生で何百回と練習した、患者の前で崩れないための笑顔。
「あなたの身体が覚えているだけで、あなた自身の感情じゃない」
レオンの手が宙に残った。握っていたものを失った指が、ゆっくりと閉じた。
「……そうか」
短く言って、レオンは窓の外に目を向けた。横顔に影が落ちた。しかしその目は、諦めた者の目ではなかった。
リゼットは茶器を片づけ、療養室を出た。廊下に出た瞬間に足が止まった。両手で盆を持ったまま、壁に額を押しつけた。
受け取れない。わたしが消した記憶が、この人をわたしに向かわせている。それを受け取る資格は、消した側にはない。
——けれど。
あの手の熱さを、指先がまだ覚えていた。
回想法の中で、一瞬だけ別の映像がレオンの目をよぎったのを、リゼットは見逃さなかった。
くるみの記憶を辿っている最中、レオンの表情が一度だけ凍った。目が焦点を失い、瞳孔が開いた。
「今、何が見えましたか」
「……広い部屋だ。灯りがたくさんあって。男が——若い男が、女に向かって何か言っている。冷たい声だ。女は立っている。顔が見えない」
レオンの手が膝の上で握られた。
「誰だ……? あの男は、誰だ」
それ以上は出てこなかった。断片は消え、レオンは苛立ちを飲み込んで黙り込んだ。
リゼットだけが知っていた。あの場面が何であるかを。夜会の広間。灯りの下で冷たい言葉を放つ男。立ち尽くす女。
あの夜の記憶が、レオンの奥底にも残っている。
深夜。自室で毛布にくるまったまま、リゼットは暗い天井を見ていた。
涙が横に流れて、枕を濡らした。声は出さなかった。壁の向こうの患者に聞こえてはならない。
ノックの音がした。
マルグリットだった。扉を開けると、院長は何も言わなかった。リゼットの濡れた頬を見て、一瞬だけ目を細めた。
手に持っていた毛布をリゼットの肩にかけた。
もう一枚。リゼットが自室のものをかぶっているのを分かった上で、さらに一枚。
「おやすみなさい」
それだけ言って、マルグリットは去った。
リゼットは新しい毛布の重みを肩に感じながら、目を閉じた。毛布は洗い立てで、石鹸と日向の匂いがした。
翌朝。
療養院の門に馬の蹄が響いた。予定外の訪問。フィリップが息を切らせて駆け込んできた。外套に朝露が光っている。夜通し馬を走らせてきたのだろうか。
「レオン様。リゼさん。院長殿」
フィリップの声は硬かった。手に封蝋のついた書簡を持っている。
「侯爵家から正式な召還命令です。レオン様を王都にお戻しください。魔法省の調査の一環として、記憶障害の患者を集めて検査を行うとのことです」
書簡の封蝋は、バルティエ侯爵家の紋章だった。リゼットは書簡の表面を見つめた。蝋の赤が、朝の光の中で鈍く光っていた。
レオンが王都に戻れば、回想法は中断する。ようやく断片が浮かび始めた記憶が、また闇の底に沈む。
リゼットがマルグリットを見た。
マルグリットは封蝋を見つめたまま、腕を組んだ。
「……教会規定を使えるかもしれない」
低い声で、院長が呟いた。




