第4話「夜の名前」
リゼットは急いで回想法の記録帳を棚の奥にしまった。
フィリップの報告から二日。魔法省の調査官が到着するのは今日か明日だと聞いている。記録帳には、レオンの記憶断片の内容、五感刺激への反応、回復の兆候が全て書き込まれていた。精神系魔法の痕跡を調べに来る者の目に、これが触れてはならない。
棚板の裏側に帳面を滑り込ませ、手前に薬草の瓶を並べ直す。指先が冷たかった。
マルグリットが調剤室に入ってきたのは、その直後だった。
「リゼ。調査官の対応はわたくしが引き受けます。あなたは患者のケアに集中しなさい」
リゼットは振り向いた。マルグリットの目は穏やかだったが、口元に力がこもっていた。
「精神系魔法の痕跡を調べるつもりなら——」
「わたくしが応対します」
マルグリットは繰り返した。それ以上の説明はなかった。リゼットは頷いた。ここで何も問わないことが、院長への信頼の示し方だと分かっていた。
「うちの助手は患者のケア中で手が離せません、と伝えるわ。不自然ではないでしょう」
マルグリットは調剤室を出ていった。その背中を見送りながら、リゼットは自分の立場を改めて思い知った。
守られている。事情を全て話してもいない相手に、守られている。
午前のうちに、魔法省の調査官が到着した。
リゼットはレオンの療養室にいた。扉越しに、玄関の方角から声が聞こえる。マルグリットの落ち着いた声と、聞き慣れない男の声。
レオンも気配を察したのか、窓の外から視線を戻した。
「何か来たのか」
「王都からの調査の方だそうです。院長が対応してくださっています」
「調査」
レオンの眉がわずかに動いた。記憶障害の患者である自分も対象なのだろうと察したのか、顎を引いて黙った。
リゼットは回想法の道具を棚にしまいながら、廊下の音に耳を澄ませていた。足音が複数。マルグリットが院内を案内しているらしい。療養室の前を通り過ぎるとき、リゼットの背筋が硬くなった。
足音は通り過ぎた。
数時間後、調査官は院長室でマルグリットと最後の話を交わしていた。リゼットは調剤室の窓から、中庭を挟んで院長室の明かりを見ていた。
マルグリットが調剤室に来たのは、調査官が去った後だった。
「全ての記憶障害患者に、精神系魔法の痕跡が共通しているそうよ」
リゼットの手が止まった。薬草を束ねていた紐が、指に食い込んだまま動かない。
「精神系魔法の……痕跡」
「調査官はそう言っていたわ。レオン様にも簡易検査をしたけれど、同じ結果。王都の患者と同じ痕跡が出たと」
マルグリットの声に焦りはなかった。事実を伝えている、という平坦さだった。
「あなたのことは話題に出していません。患者のケア担当という以上の情報は渡していないわ」
リゼットは頷いた。声が出なかった。
精神系魔法の痕跡が、全員に共通している。調査官はそれを持ち帰る。魔法省に報告する。そうなれば——精神系魔法の使い手を探す捜査が始まるのは、時間の問題だった。
その夜。
消灯の見回りを終え、廊下を歩いていた。石壁に反射する自分の足音だけが響く。温泉の湯が地下を流れる微かな音が、壁の向こうから聞こえていた。
レオンの療養室の前を通り過ぎようとしたとき、扉の向こうから声がした。
今度は、かすれた二音ではなかった。
「——リゼット」
はっきりと。
名前の全てが、寝言の中で発音されていた。
リゼットの足が床に縫い止められた。呼吸を忘れた。廊下の冷気も、湯の音も、何も聞こえなくなった。耳の中に、自分の名前だけが残っている。
扉に手をかけた。指先が震えているのが分かった。
中を覗くと、レオンは寝台の上で身を捩っていた。シーツを掴む拳が白い。額に汗が浮き、眉間に深い皺が刻まれている。苦しげな呼吸の合間に、唇がもう一度動いた。
「——リゼッ……」
途中で途切れた。寝返りを打ち、呼吸が乱れたまま、やがて静かになっていく。半覚醒状態のようだった。目は開いていない。
リゼットは療養室の入口に立ったまま、動けなかった。
この人は寝言で言ったのだ。意識のない状態で、記憶にないはずの名前を。脳が忘れても、身体のどこかがその音を覚えていて、夜になると溢れてくる。
前の人生で見てきた。認知症の利用者が、家族の名前を忘れた後でも、夢の中で呼ぶことがあった。脳ではなく、もっと深い場所に刻まれた音。消せないもの。
わたしが消したはずの名前を——この人の身体は、まだ持っている。
レオンの呼吸が寝息に変わった。リゼットは音を立てないよう扉を引き、廊下に出た。
三歩で膝が折れた。
壁に背を預けて座り込んだ。石壁の冷たさが肩甲骨を通じて伝わってくる。天井が高い。暗い。廊下の端に小さな燭台の光が揺れている。
足音が聞こえた。
マルグリットだった。夜着の上に羽織を引っかけ、手に燭台を持って歩いてきた。リゼットの姿を見つけ、足を止めた。
しばらく無言だった。マルグリットは腰を落とし、リゼットと同じ高さに目線を合わせた。燭台の炎が二人の間で揺れた。
「……話せないことがあるのは分かっている」
マルグリットの声は低く、静かだった。
「でもあの子を助けたいのは本当でしょう」
リゼットは唇を開いた。声が出なかった。代わりに頷いた。
「なら、今は助けることだけ考えなさい」
マルグリットの手がリゼットの肩に触れた。乾いた、温かい手だった。強く握るのではなく、ただ置いただけの重みが、肩から背骨を伝って体の芯に届いた。
マルグリットは立ち上がり、廊下の奥へ去っていった。燭台の光が遠ざかる。
リゼットは壁に背中を預けたまま、天井を見上げた。涙は出なかった。代わりに、喉の奥で固まっていた何かが、ほんの少しだけ緩んだ。
翌朝。院長室にマルグリットの姿があった。
リゼットが朝食の配膳を終えて戻ると、マルグリットが扉の前で待っていた。
「リゼ。入って」
扉が閉まった。院長室は薬草と古い紙の匂いがする狭い部屋だった。マルグリットは机の向こうに座り、燭台の蝋を指先で剥がしながら、静かに口を開いた。
「全部話さなくていい。でも一つだけ答えて」
リゼットは立ったまま、マルグリットの目を見た。
「あの青年の記憶障害と——あなたは、関係があるの?」
朝の光が窓から斜めに差し込み、マルグリットの白髪混じりの髪を照らしていた。リゼットの影が床に長く伸びて、扉の下まで届いていた。




