第3話「指が覚えた旋律」
あの声が、まだ耳に残っている。
深夜の廊下で聞いた、かすれた二音。眠っている本人には記憶がない。リゼットだけが抱えている。それが余計に重かった。
朝の療養院は湯気と鳥の声に包まれている。リゼットは調剤室で棚の奥から小さな茶器を取り出した。白磁に薄い金の縁取り。療養院の備品にしては上等なそれは、マルグリットが「来客用に」と残していたものだった。
今日からやってみよう、と決めていた。
前の人生で、何度も試した方法がある。記憶が薄れた人の中に残る感覚の欠片を、五感の刺激で引き出す。匂い、音、味、手触り、風景。脳が忘れても身体が覚えていることを、丁寧に一つずつ呼び起こす。
あの人の記憶障害は病気ではない。魔法で消されたものだ。同じ方法が通じる保証はどこにもない。
けれど、あの花を摘んだ手。あの寝言。身体が覚えているなら——試す価値はある。
リゼットは茶葉の缶を開け、湯を沸かした。
レオンの療養室に紅茶の支度を持ち込んだのは、午前の療養時間だった。
「レオン様、今日は少し趣向を変えて。紅茶をお淹れしてもよろしいですか」
レオンは窓辺の椅子から振り向いた。昨晩の悪夢の名残か、目の下にうっすらと隈がある。
「ああ、構わない」
リゼットは小卓に茶器を並べた。湯を注ぐ前に、まず茶碗に蜂蜜を落とす。金色の雫が白磁の底で光った。その上から紅茶を注ぎ、蜂蜜が溶けていく渦を匙でゆっくり回す。
蜂蜜を先に入れる。後から紅茶を注ぐ。幼い頃、レオンに紅茶を淹れるときはいつもこの順番だった。レオンが「この方がうまい」と言ったから。理由はなかった。子供の舌にはきっと同じ味だったはずだ。でも二人の間では、これが正しい淹れ方だった。
蜂蜜の甘い匂いが湯気に乗って広がった。
レオンに茶碗を差し出す。レオンの指が白磁に触れ、口元に運び——
手が止まった。
茶碗を持ったまま、レオンは数秒間動かなかった。湯気が顔にかかるのも構わず、紅茶の水面を見つめている。
「……その入れ方」
低い声だった。
「知っている気がする」
リゼットの指先が膝の上で丸まった。
「お口に合いませんでしたか」
「いや。合う。合うから——おかしいんだ」
レオンは紅茶を一口飲んだ。眉間に深い皺が刻まれた。懐かしさと困惑が同時に浮かぶような、苦しげな表情だった。
「蜂蜜が先。紅茶が後。誰かが……そう淹れてくれた。誰だ。思い出せない」
リゼットは笑顔を保った。唇の裏側を奥歯で噛んでいた。鉄の味がかすかにした。
「お気に召したなら、また明日もお淹れしますね」
「……ああ。頼む」
レオンは残りの紅茶を飲み干した。空になった茶碗を小卓に置く手つきが、ほんのわずか穏やかになっていた。
午後。マルグリットが療養室の前を通りかかったとき、リゼットはレオンの隣に座っていた。
小卓の上には幾つかの小物が並んでいた。庭の花、温泉の湯を含ませた布、療養院の古い楽譜。五感の刺激を順番に試している最中だった。
リゼットが楽譜を指で辿りながら旋律を口ずさむと、レオンの視線が宙に浮いた。何かを追いかけるように目が動いた。
「——女の子が」
レオンの声が変わった。低い声の底に、ざらついた何かが混じる。
「小さい女の子の手を引いて、走っている。庭だ。広い庭で……日差しが眩しくて……」
リゼットの口ずさみが止まった。
「その子の顔は、見えますか」
「見えない。後ろ姿だけだ。髪が長くて——振り向きそうになるのに、そこで消える」
レオンが両手で顔を覆った。指の隙間から荒い呼吸が漏れる。
「なんなんだ、これは。夢でもない。確かに俺の記憶のはずなのに、核になるものが欠けている」
リゼットは手を伸ばしかけて、途中で引っ込めた。代わりに声だけを差し出す。
「大丈夫ですよ。少しずつで大丈夫です」
前の人生の、あの口癖。レオンの荒い呼吸が、わずかに緩んだ。
「——君のことを、知っている気がする」
顔を覆った手の隙間から、黒い瞳がリゼットを見た。
「初めて会ったはずなのに。声を聞くと、思い出しかける。でも掴めない」
リゼットは膝の上の手を握りしめた。爪が掌に食い込んでいた。
「……気のせいかもしれませんよ」
「気のせいなら、こんなに苦しくない」
レオンが顔から手を下ろした。目が赤かった。リゼットはそこから目を逸らさなかった。逸らしたら、この人の記憶から逃げることになる。
廊下で足音がした。マルグリットが入り口に立ち、リゼットの横顔を見ていた。その視線に気づいていたが、振り向かなかった。
夕刻。調剤室にマルグリットが来た。
薬草の仕分けをしているリゼットの隣に立ち、しばらく無言で手元を見ていた。乾燥した薬草の粉っぽい匂いが二人の間に漂っている。
「あなた、ただの看護助手じゃないわね」
マルグリットの声は穏やかだったが、芯があった。
「今日の手法。あれは学問よ。記憶に刺激を与えて、断片を引き出す。体系的な知識がなければできないことだわ。どこで学んだの」
リゼットは薬草の茎を折る手を止めなかった。
「昔、世話になった方に教わりました」
「どんな方?」
「……記憶を失った人を、たくさん看ていた方です」
嘘ではなかった。前の人生のわたしのことだから。
マルグリットは小さく息を吐いた。追及を続ける気配はなかった。ただ調剤室を出る間際に振り返り、こう言った。
「あの青年の目に光が戻ったのを、わたくしは見ました。やり方は問わないけれど——あなた自身が壊れないようにだけは、気をつけなさい」
扉が閉まった。リゼットの手の中で、薬草の茎が折れすぎて粉になっていた。
翌朝、療養院の門を叩く者があった。
マルグリットが応対に出ると、四十がらみの男が立っていた。旅装は質素だが、仕立ての良さが隠しきれていない。
「お助けいただきたいのです。わたくし、王都の伯爵家にお仕えする者ですが——お仕えしていた方のお嬢様の名前が、どうしても思い出せないのです」
リゼットは調剤室の窓から、その男の後ろ姿を見ていた。指先の体温が引いていく。
男は続けた。
「わたくしだけではありません。王都の宮廷で、複数の貴族が同じ症状を訴えています。侍医たちもお手上げだと」
波及が——ここまで来ている。
療養院に来るほど症状に苦しんでいる人間が、もういる。レオン一人の問題ではない。王都で、広がっている。
リゼットは窓枠を掴んだ。爪が木に沈んだ。
夕暮れの療養室。
回想法の後、レオンの呼吸が落ち着くのを待ってから、リゼットは茶器を片づけ始めた。
「リゼさん」
呼ばれて振り向いた。レオンは椅子に深く腰かけたまま、天井を見上げていた。
「今日の……あの映像。女の子の手を引いて走る記憶。あれは確かに俺のものだ。でも顔が出てこない」
「焦らなくて大丈夫ですよ。少しずつ——」
「なあ、もう一回あの紅茶、淹れてくれないか」
敬語が消えていた。
振り向いたレオンの顔には、先ほどまでの苦しみとは違う色があった。ごく自然な、力の抜けた表情。幼い頃に屋敷の垣根越しで見せていたのと同じ、無防備な目。
リゼットの心臓が跳ねた。
返事をする間もなく、療養院の門を馬蹄が叩く音が響いた。
マルグリットが廊下を早足で通り過ぎるのが聞こえた。続いてフィリップの声——予定にない訪問だった。
「院長殿、リゼさん。至急お伝えしなければならないことが」
フィリップの顔は青ざめていた。息が荒い。馬を飛ばしてきたのだろう、外套の裾に泥が跳ねている。
「王都から、魔法省の調査官が参ります。記憶障害の患者を抱える療養施設を順に回っているそうで——こちらにも、近日中に」
リゼットの足の裏から、床の冷たさが一気に昇ってきた。




