第2話「名もない花」
「リゼさん、朝食の配膳をお願い」
マルグリットの声が調理場の湯気越しに届いた。リゼットは返事をして、焼きたてのパンと薄い野菜汁の載った盆を受け取る。パンの焦げた香ばしさが鼻先をかすめた。
レオンの療養室に入ると、すでに寝台は整えられていた。窓際の椅子に腰かけ、外を眺めている。軍人のように正された姿勢。寝起きでもそれが崩れないのは、身体に染みついた習慣なのだろう。
「おはようございます、レオン様。朝食をお持ちしました」
「ああ。ありがとう」
短い返答。視線はリゼットに向いたが、すぐに窓の外へ戻った。山の稜線を目で追い、それから自分の両手を見下ろす。何かを探すように指を開閉する所作が、もう三日続いている。
リゼットは小卓にパンと汁物を並べながら、昨晩から書き溜めた記録を頭の中で整理した。
見当識は保たれている。日付、場所、自分の名前。短期記憶にも目立った障害はない。昨日の食事の内容、マルグリット院長の名前、療養院に来た経緯。全て正確に答えられる。
長期記憶も大部分が残っている。剣術の型、騎馬の技術、侯爵家の系譜、王都の地理。聞けば淀みなく答える。
けれど特定の領域だけが、きれいに抜け落ちている。
「誰か大切な人がいたはずだ」とレオンは昨日言った。「名前も顔も出てこない。でも、いたはずだ」と。
通常の記憶障害ではない。外傷でも、老化でも、病気でもない。特定の人物に関する記憶だけが、刃物で切り取ったように消えている。
——わたしに関する記憶だけが。
パンの皿を置く手が一瞬止まった。リゼットはそれを悟られないよう、汁物の位置をわずかにずらす動作でごまかした。
午前の療養時間が終わり、患者たちが中庭に出る時間になった。
ジャンさんの車椅子を押して庭の日当たりのいい場所に移動させた後、リゼットは洗い物のために調理場に戻ろうとした。
庭の隅で、レオンが立ち止まっていた。
白鈴蘭の花壇の前。昨夜と同じ場所。ただし今は陽光の下で、その表情がはっきり見えた。眉間にわずかな皺。唇が薄く開いている。何かを思い出しかけて、掴めないときの顔。
リゼットは足を止めるべきではなかった。通り過ぎるべきだった。
けれど視線を外せなかった。
レオンの指が白鈴蘭の茎に触れた。そのまま一本、丁寧に折り取る。花弁についた朝露が指先に光った。
振り向いたレオンと目が合った。
「——あんたに似合うと思って」
敬語ではなかった。
本人もそれに気づいていないようだった。花を差し出す手つきは自然で、迷いがなくて、まるで何百回もそうしてきたかのように滑らかだった。
リゼットの手が震えた。
受け取った白鈴蘭は冷たく湿っていて、茎の断面からかすかに青い匂いがした。子供の頃から嗅いできた、あの匂い。垣根越しに差し出される小さな手と一緒に、いつもこの匂いがあった。
「……ありがとうございます」
声が平坦であることだけに集中した。唇の端を引き上げて笑顔を作った。前の人生で身につけた技術が、今この瞬間だけ自分を支えている。
レオンは首を傾げた。
「なんで渡したんだろうな、俺は。理由がわからない」
そう言って踵を返した。リゼットは白鈴蘭を握ったまま、しばらく動けなかった。茎を持つ指の関節が白くなっていた。
午後、マルグリットが調剤室に顔を出した。
リゼットは薬湯の調合をしていた。すり鉢で乾燥させた薬草を砕く、規則的な音が室内に響いている。白鈴蘭は調剤棚の隅の小瓶に活けてあった。
マルグリットの目がそれを捉えた。
「きれいな花ね。庭の?」
「……ええ」
「レオン様から?」
リゼットの手が止まった。すり鉢の中で薬草の粉が崩れた形のまま静止する。
「庭に咲いていたのを、たまたま」
「そう」
マルグリットはそれ以上追及しなかった。ただ調剤棚にもたれ、腕を組み、リゼットの横顔をしばらく眺めていた。
「リゼ」
「はい」
「あの方のこと。知り合いなの?」
すり鉢を動かす手を再開した。一定の速度を保つ。粉が均一になるまで回す。
「いいえ」
「そう」
マルグリットの声には疑いの色がなかった。けれど納得の色もなかった。沈黙がすり鉢の音を際立たせた。
「患者の花を受け取ることは、悪いことじゃないわ。ただ」
マルグリットは白鈴蘭に目をやった。
「あなたの手が震えていたのは、少し気になる」
それだけ言って、院長は調剤室を出ていった。扉が閉まる音のあとに、リゼットは小さく息を吐いた。すり鉢を握る指がまだ強張っている。
夕刻。フィリップが定期訪問で療養院を訪れた。
月に一度の経過確認だが、前回の訪問からまだ日が浅いため、今回は侯爵家への中間報告を兼ねているらしい。マルグリットの院長室で報告を済ませたフィリップが、帰り際に廊下でリゼットに声をかけた。
「リゼさん。レオン様の様子は、いかがですか」
「まだ数日ですので、断言はできません。ただ、日常の記憶には問題がないように見えます。特定の領域だけが——」
リゼットは言葉を選んだ。
「——欠けている、という印象です」
フィリップは眉間に皺を寄せた。
「王都の宮廷医も同じことを仰っていました。原因不明、と」
ため息をつき、フィリップは窓の外に目を向けた。
「実は……王都で気になることがありまして。レオン様と似たような症状——誰かを忘れた、大切な人がいたはずなのに思い出せない、と訴える方が、宮廷の中に何人か出ているそうです」
リゼットの背筋に冷たいものが走った。
「何人か」
「正確な数は存じませんが、複数と聞いております。魔法省も調べているようですが、原因はまだ。それと——」
フィリップは声をわずかに落とした。
「王太子殿下が、眠れない夜が続いているそうです。理由もなく不安になると、周囲に漏らしておられると。カミーユ様がお慰めしているようですが、効果はないとか」
リゼットは頷いた。表情を動かさなかった。
フィリップが去った後、廊下に一人残された。
複数。王都で複数の人間が、誰かを忘れている。王太子は眠れない夜を過ごしている。カミーユが宥めても、効果がない。
あの夜、わたしが消したのは——アルベール殿下の記憶だけだったはずだった。対象は一人。母から受け継いだ古い魔法の説明には、そう書かれていた。
けれど現実は違っていた。レオンがここにいる。王都では複数の貴族が同じ症状を訴えている。
波及。わたしとの関係の深さに応じて、消えていく。
わたしが、消したのは——一人だけだったはずなのに。
壁に背を預けた。窓から差し込む夕陽が廊下を橙に染めている。調剤棚の隅で、白鈴蘭が静かに首を垂れていた。
深夜。
療養院が寝静まった後、消灯の見回りを終えたリゼットは自室に戻ろうとしていた。石壁の廊下に自分の足音だけが響く。
レオンの療養室の前を通りかかったとき、足が止まった。
扉の向こうから、声が漏れていた。
うなされている。寝台が軋む音。布が擦れる音。荒い呼吸。
リゼットは扉に手をかけた。開けるべきか迷った。患者の悪夢に看護助手が対応するのは業務の範囲内だ。けれど足が重かった。
声が聞こえた。
かすれた、うわ言のような声。
「——リゼ」
二音だった。はっきりとした発音ではなかった。夢の中の、輪郭のあいまいな呟き。けれど聞き間違えようがなかった。
リゼットの手が扉の取っ手を握ったまま凍りついた。
呼吸が喉の奥で詰まった。廊下の冷気が足元から這い上がってくるのに、耳の奥だけが熱かった。
扉の向こうで、レオンの呼吸が少しずつ落ち着いていく。うなされる声が遠のき、やがて静かな寝息に変わった。
リゼットは取っ手から手を離した。
壁に額を押しつけた。冷たい石の感触が額に沁みた。目を閉じても、あの二音が耳の奥で反響し続けていた。




