第10話「ただいま」
お父様の手が、震えている。わたしを見て。
教会の客間に立つ父の姿は、二ヶ月前の記憶よりも痩せていた。銀髪に白い筋が目立ち、頬の肉が落ちている。けれど背筋だけは真っ直ぐだった。四大公爵家の当主としての姿勢が、身体に刻み込まれている。
父の目がリゼットを捉えていた。認識はない。知らない若い女性を見る目だった。しかしその目の奥に、困惑とは別の何かが揺れているのが見えた。
「……教会の療養調査員だと聞いたが」
父の声はかすかにかすれていた。
「わたくしは最近、記憶に不調を抱えていてね。娘がいたはずなのだが——名前も、顔も、思い出せない。教会の調査で何か分かるなら、と思い足を運んだ」
リゼットの喉が締まった。レオンが一歩後ろに下がり、背中で扉を塞いだ。外に声が漏れないよう、静かに閉めた。
リゼットは胸元に手を入れた。旅装の内側、肌に近い場所に、ずっと身につけていたものがある。
母の形見の首飾り。
細い銀の鎖に、小さな青い石。母がリゼットの名を決めた日に身につけていたと、父が語ってくれたことがある。王都を離れる時、装飾品の大半は売ったが、これだけは売れなかった。
首飾りを掌に載せ、父の前に差し出した。
青い石が客間の光を受けて、鈍く輝いた。
父の目が首飾りに落ちた。瞳孔が開いた。
「その首飾りは……」
声が変わった。言葉の手前にある、もっと深い場所から絞り出されたような声だった。指が伸びかけて、空中で止まる。
「お父様」
リゼットが呼びかけた。
父の全身が揺れた。声を聞いた瞬間、顔の筋肉が歪んだ。知らない女性を見ていた目が、焦点を失い、そして——急速に焦点を結び直した。
リゼットは父の手を取った。両手で包んだ。痩せた指は冷たく、骨の形が手のひらに伝わった。
触覚が最後の鍵だった。
「——リゼット」
父の声が割れた。
名前を呼ぶと同時に、父の目から涙が溢れた。銀髪の壮年の男の頬を、二筋の涙が伝い落ちた。首飾りを持つリゼットの手を、父が逆に握り返した。強く。骨が軋むほど強く。
「帰ってきたのか」
声が震えていた。四大公爵家の当主の声ではなかった。娘を失っていた父親の声だった。
リゼットの目から涙が零れた。止めなかった。止める必要がなかった。
「ただいま、お父様」
父の記憶が戻ったことで、全てが動き始めた。
ヴェルヌ公爵は事態の全容を聞き終えると、目元を拭い、背筋を正した。公爵としての顔が戻った。
「魔法省への通達はわたくしが出す。『我が娘の治療行為である』という公爵家の公式見解を以て、精神系魔法の捜査対象からリゼットを外させる」
レオンが頷いた。
「俺の旧友が魔法省の内側から動けます。公爵家の通達と教会の権威、二方向から抑えれば捜査の矛先は完全に逸れる」
三者の連携が確立された。公爵家の権威。教会の保護。魔法省内部のレオンの人脈。リゼット一人では到底動かせなかった歯車が、噛み合って回り始めた。
その日から、リゼットは王都の主だった被害者への回想法をさらに進めた。公爵家の使用人、宮廷で顔を合わせた貴族の従者、幼い頃の遊び相手。一人ずつ、声を聞かせ、匂いを嗅がせ、名前を呼んだ。全員の完全回復には長い時間がかかる。けれど方法は確立され、体制は整った。
療養院に戻る前夜だった。
教会の客間で、リゼットは窓辺に立っていた。王都の夜景が眼下に広がっている。屋根の向こうに星が見える。夜風が冷たかった。
背後で扉が開いた。
レオンだった。
「明日の馬車の手配は済んだ。フィリップが同行する」
「ありがとうございます」
レオンは窓辺まで来て、リゼットの隣に立った。腕が触れる距離だった。
しばらく無言だった。二人とも王都の夜景を見ていた。遠くで犬が吠えている。石畳を行く夜警の足音が、風に乗って届く。
「全部、戻った」
レオンの声は静かだった。
「今朝——最後の断片がつながった。お前が初めて俺の屋敷に来た日。垣根の向こうから顔を出した。泥だらけで。母上に怒られて泣いていた」
リゼットの唇が震えた。
「お前が泣くと、俺は何もできなかった。何か言わなきゃと思うのに、言葉が出てこなくて。だから花を摘んだ。庭に咲いていた白い花を。それを渡したら、お前が泣き止んだ」
白鈴蘭。
あれが始まりだった。
「ありがとう」
リゼットの口から出たのは、回想法の手順でも、看護助手の言葉でもなかった。
「ずっと、わたしのことを覚えていてくれて」
レオンがリゼットの手を取った。
「——ずっと、好きだった。忘れていた間も、この手が覚えていた」
指が絡んだ。レオンの掌は温かかった。療養院で初めて薬湯を渡した日、この手は冷えていた。今は違う。
「わたしも」
声が出た。押し殺さなかった。飲み込まなかった。初めて、自分の感情をそのまま声にした。
レオンの指がリゼットの手を強く握った。二人の間にあった距離が、最後の一歩分、消えた。
翌日。王都を発つ朝。
フィリップが馬車の準備を整えている間、レオンがリゼットに問うた。
「王都に残るという選択もある。公爵家に戻れば、社交界への復帰も——」
「わたしの居場所は、あの療養院です」
迷いのない声だった。
公爵令嬢としての生活には戻らない。マルグリットの下で、記憶を失った人たちに寄り添う。それが前の人生から続く、自分の選んだ道だった。
「なら俺も行く」
レオンの返答は即座だった。
リゼットが口を開く前に、レオンはフィリップに向かって声を上げた。
「マルグリット院長宛に通信鳥を飛ばしてくれ。部屋を二つ、用意してほしいと」
フィリップが一瞬だけ目を見開き、それから小さく頭を下げた。その口元がかすかに緩んでいるように見えた。
馬車が王都を出て二日目の夕暮れ、宿場で休憩を取った時のことだった。
フィリップが帳簿を整理しながら、独り言のように言った。
「……殿下のことですが」
リゼットは水差しを置いた。
「殿下は、夜ごと広間の椅子の前に座って泣いておられるそうです。誰が座っていた椅子なのか、ご本人もお分かりにならないまま」
宿場の窓から夕陽が差し込んでいた。オレンジの光がフィリップの横顔を照らしている。
「カミーユ様との関係も、たいそう不安定だと。正式な婚約のお話も進んでおらぬようで」
リゼットは目を伏せた。
「……それは因果応報とは呼べない。ただ、悲しいだけ」
小さな声だった。レオンが隣で黙っていた。リゼットの肩にそっと手を置いた。それだけだった。
ブランシュ温泉郷に着いたのは、王都を出て五日目の昼だった。
馬車が療養院の門の前に止まると、マルグリットが庭で薬草を摘んでいた。リゼットの姿を見て、静かに微笑んだ。
「おかえりなさい」
「ただいま、院長」
それだけの言葉だった。それだけで十分だった。
翌朝。療養院の窓辺で、リゼットはレオンと並んで温泉郷の朝を見ていた。湯気が山肌を這い、鳥が鳴き、硫黄の匂いが鼻を通る。ここに来た最初の朝と同じ景色だった。けれど隣に立つ人がいることで、全てが違って見えた。
レオンが窓枠に肘を置き、山並みを眺めている。その横顔には、もう迷いはなかった。
廊下をフィリップの足音が近づいてきた。急いでいる。
「レオン様。リゼさん」
フィリップの手に、通信鳥が運んできたらしい小さな書簡が握られていた。封蝋はなく、急いで折り畳まれた紙だった。フィリップの筆跡ではない。王都に残した連絡網からの転送だろう。
「至急ご報告申し上げます」
フィリップが書簡を開き、その文面を読み上げた。
「王太子殿下の記憶が——戻り始めています」
リゼットの指が、窓枠の上で止まった。
(完)
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