第1話「ぬるい薬湯」
湯気が、山肌を這うように立ちのぼっていた。
窓の向こうに連なる稜線はまだ朝靄に沈み、湯の流れる音だけが石壁の廊下に響いている。ブランシュ温泉郷の朝は、いつも硫黄のにおいで始まる。
リゼットは盆の上の白湯を確かめ、療養室の扉を開けた。
「おはようございます、ジャンさん。今日の調子はいかがですか」
寝台の老人は窓の外をぼんやりと眺めていた。名前を呼ばれて瞬きをするが、視線の焦点が合うまでに数秒かかる。
リゼットは枕元の小卓に白湯を置き、棚から一枚の水彩画を取り出した。麦畑の広がる平野。遠くに風車が見える、どこかの田舎の風景。
「ジャンさん、これ、覚えていますか。先週お話ししてくださった——麦の穂が金色になる季節が一番好きだって」
老人の目が水彩画に吸い寄せられた。唇が震える。
「……むぎ」
「ええ。麦です。風車のある村でしたよね。奥様と一緒に、収穫祭に行かれたんでしょう」
「かみさんが……」
老人の顔にゆっくりと色が戻った。皺の深い手が水彩画に伸び、指先が風車の輪郭をなぞる。
「かみさんが、パンを焼いてくれた」
リゼットは微笑んだ。声の高さを一段落とし、速度をゆるめる。
「焼きたてのパン。おいしかったですか」
「ああ……あったかくて。あったかかったなあ……」
老人の目尻に涙が滲んだ。しかしその表情は苦しみではなく、遠い場所に手が届いたときの安堵だった。
リゼットはそっと老人の手を包んだ。乾いた皮膚のざらつきが掌に伝わる。この手が鎌を握った感触も、妻の手を握った温もりも、脳がどれだけ忘れても指先には残っている。
前の人生で、何百回とそれを見てきた。
「大丈夫ですよ」
口をついて出た言葉に、自分で少し驚く。この世界に来てからも、この癖だけは抜けない。
療養室を出ると、廊下の端に院長の姿があった。
マルグリット・セランは薬草の束を抱えたまま壁に背を預け、今の一部始終を見ていたらしい。五十を過ぎた女性の目が穏やかに細まった。
「リゼ。相変わらず見事なものね。ジャンさんがあんなにはっきり話したのは、あなたが来てから初めてよ」
「たまたまです。あの方は風景の記憶がよく残っていらしたので」
「たまたまが毎日続くなら、それは才能と呼ぶの」
マルグリットは薬草の束を持ち直し、少しだけ声を落とした。
「今日、新しい患者が来ます。記憶障害——王都の宮廷医にも治療不能と言われたそうよ。侯爵家からの紹介状付き」
リゼットの手が盆の縁を握った。
「侯爵家」
「バルティエ侯爵家。ご嫡男だそうです。若い方よ。馬車がもう麓まで来ているはず」
マルグリットの声はいつも通り穏やかだった。けれどリゼットの耳には、名前だけが鋭く刺さって残った。
バルティエ。
その姓を知っている。知っているどころか、幼い日から数えきれないほど呼んだ名が、その姓と結びついている。
——まさか。
盆の上で白湯の表面が波打ったのは、指先が震えたせいだと、リゼットは自覚していた。
正午を過ぎた頃、門の外に馬車の轍が響いた。
リゼットは調剤室の奥から中庭を見ていた。出迎えには行かなかった。行けなかった。
馬車の扉が開き、最初に降りたのは従者だった。二十代半ばの、実直そうな青年が荷物を担いで足場を確かめる。
「院長殿、お世話になります。バルティエ侯爵家従者、フィリップと申します。主の療養をよろしくお願いいたします」
続いて降り立った影に、リゼットの呼吸が止まった。
黒髪。広い肩幅。真っ直ぐな背筋は記憶のままなのに、足取りにかすかな迷いがあった。周囲を見回す目に、かつてのような確信が欠けている。
レオン・バルティエ。
幼い頃から屋敷の垣根ごしに名前を呼び合った人。王太子の側近として背筋を伸ばしていた人。——わたしの記憶を、忘れているはずの人。
あの夜、わたしが消したのは、アルベール殿下の記憶だけだったはずだ。
一人だけだったはずなのに。
リゼットは調剤室の棚に手をつき、目を閉じた。硫黄のにおいが鼻腔に沁みた。
マルグリットがリゼットを呼んだのは、レオンが療養室に通された後だった。
「リゼ、この方の担当をお願いできる? ジャンさんの件を見ての通り、記憶障害の患者はあなたの腕が一番よ」
断る理由は、職業的には一つもなかった。
「……はい」
声が掠れなかったのは、前の人生で培った技術のおかげだった。笑顔を作ること。感情を飲み込むこと。患者の前では、自分を消すこと。
療養室の扉を開けた。
レオンは窓辺の椅子に腰かけ、外の山並みを眺めていた。フィリップが荷解きをしている。リゼットが入ると、フィリップが丁寧に会釈した。
「看護助手のリゼです。レオン様の担当をさせていただきます」
レオンが振り向いた。
視線が合う。
二年前まで毎日のように見ていた黒い目。その目がリゼットを映して——何の反応も示さなかった。知らない人間を見る目だった。
喉の奥が灼けるように熱くなった。
「薬湯をお持ちしました。温泉の成分を調合したものです。お口に合うかわかりませんが」
リゼットは盆を小卓に置いた。両手が震えないよう、指先に力を込めた。
レオンが湯呑みを受け取る。口をつけ、一口含んで——その手が止まった。
「……なぜだろう」
低い声だった。
「初めて来た場所で、初めて会った人に、湯を出されただけだ。なのに」
湯気の向こうで、レオンの目がわずかに揺れた。
「——落ち着く」
リゼットは唇の内側を噛んだ。
笑顔を保ったまま、「お口に合ったなら良かったです」と言葉を返す。声が平坦であることだけに意識を注いだ。
フィリップが荷解きの手を止め、主人の横顔を見つめていた。その視線にかすかな驚きが混じっていたのを、リゼットは気づいていた。
「院長殿」とフィリップが廊下でマルグリットに声をかけたのは、リゼットが療養室を辞した直後だった。
「実はもう一つ、お伝えしておくべきことが。王都でも最近、物忘れの症状を訴える方が増えておりまして。原因不明だと魔法省も首をひねっているそうです」
マルグリットが眉を上げた。
「王都でも?」
「ええ。それと——王太子殿下も、このところどうも落ち着かないご様子だと聞きます。理由もなく不安がっておられるとか」
リゼットは廊下の角で足を止めていた。フィリップの声が壁に反射して届く。
王都でも。
物忘れが。
増えている。
背中を壁に預けた。天井の染みを見上げた。硫黄と湯気と石壁のにおいの中で、あの夜のことだけが鮮明に蘇る。
夜会の広間。冷たい声。「お前のことは最初から好きではなかった」。それを聞いた瞬間に指先から溢れた光。アルベール殿下の目から自分が消えていく感覚。
一人だけだったはずなのに。
一人だけ、消したはずなのに。
夜が落ちた。
療養院の庭は月明かりで青白く浮かび上がっていた。消灯の見回りを終えたリゼットが裏口から庭に出たのは、一人になりたかったからだった。
冷たい夜気が頬を撫でる。吐く息が白い。
庭の隅に、人影が立っていた。
レオンだった。
白鈴蘭の花壇の前に立ち、じっと足元を見下ろしている。月光に照らされた横顔には、昼間と同じ——いや、昼間よりも深い困惑が刻まれていた。
「……なぜ、この花が気になるんだろう」
独り言のように呟いた声が、夜の静寂に落ちた。
レオンの指先が白鈴蘭の花弁に触れかけて、止まった。
リゼットは裏口の柱に手をかけたまま動けなかった。
白鈴蘭は、リゼットが一番好きな花だった。幼い頃からそう言っていた。レオンはそれを知っていた。毎年春になると、庭の垣根越しに一輪摘んで渡してくれた。
その記憶は、もう彼の中にはない。
ないはずなのに、指がそこに伸びている。
リゼットの爪が柱の木肌に食い込んだ。




