第5話:快適すぎる日常と一方その頃
辺境の森での生活が始まって、一週間が過ぎた。
俺たちの日常は、驚くほど快適で、平和そのものだった。
朝は鳥のさえずりで目覚め、全自動畑で採れた新鮮な野菜と、シルフィが時々獲ってくる森の恵みで朝食をとる。昼間は特にやることもなく、ログハウスの周りを散策したり、クロの巨大な毛皮をブラッシングしてやったりして過ごす。そして夜は、満点の星空の下、最高の露天風呂で一日の疲れを癒す。
まさに、理想のスローライフ。勇者パーティーにいた頃の、常に死と隣り合わせの緊張感に満ちた日々が、遠い昔のことのように感じられた。
「ユウキ、これを見て」
ある晴れた日の午後、シルフィが目を輝かせながら俺を呼んだ。彼女が指差す先には、ログハウスの壁に寄りかかるようにして置かれた、奇妙な木箱があった。昨日まではなかったものだ。
その木箱にはツマミが二つと、大きなガラスの板がはめ込まれている。そして、天辺からはアンテナのようなものが二本、伸びていた。
「なんだこれ? ……またか」
俺はすぐに察した。これも俺の【ギャグ】スキルの産物だ。昨日、風呂上がりに「娯楽が欲しいな。故郷で見ていた『テレビ』みたいなのがあれば最高なんだが」と、ぼんやり考えていたのを思い出した。
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俺がツマミをひねると、ガラスの板に砂嵐のようなものが映り、次の瞬間、鮮やかな映像が映し出された。
それは、森の動物たちの日常を追ったドキュメンタリー番組のようなものだった。ナレーションこそないが、音楽が場面を盛り上げ、リスの親子が木の実を取り合う姿や、鹿の群れが川を渡る様子などが、面白おかしく編集されて映し出されている。
「わ……! すごい! 森の様子が、ここにいながら見えるなんて!」
シルフィは初めて見る映像メディアに釘付けだった。森の番人である彼女にとって、森の仲間たちの普段見られない姿が見えるのは、この上なく楽しいらしい。
チャンネルを変えるように、もう一つのツマミをひねると、今度は王都で流行っているという歌劇の映像が流れ始めた。
俺のスキルが生み出したこの『辺境テレビ』は、どうやらこの世界の様々な情報を、都合よく娯楽番組として流してくれるらしい。もはや、文明レベルを根底から覆しかねない、とんでもないオーパーツだ。
「ユウキは、本当に不思議な力を持っているのね」
テレビに夢中になりながら、シルフィが感心したように言う。
「そうか? 自分じゃ、ただくだらないことばかり起こす、役立たずのスキルだと思ってたけどな」
「そんなことないわ。あなたの力は、毎日を楽しくしてくれる。……私、こんなに笑ったの、初めてかもしれない」
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そう言ってはにかむ彼女の笑顔は、森のどんな花よりも美しく、俺の心臓を少しだけ速くさせた。
追放されて、孤独なスローライフを送るつもりだった。だが、気づけば隣には美しいエルフの少女がいて、足元には伝説の魔獣が寝そべっている。孤独どころか、今までで一番賑やかで、満たされた毎日だった。
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一方、その頃。
ユウキがシルフィと笑い合っていた、まさにその時。
勇者アレク率いるパーティーは、薄暗いゴブリンの巣窟で、泥まみれの苦戦を強いられていた。
「クソッ! どこから湧いてくるんだ、こいつら!」
アレクが聖剣を振るい、ゴブリンを一体斬り捨てるが、すぐに別のゴブリンが空いた空間を埋めるように襲いかかってくる。
「数が多すぎる! ゴードン、前線を維持しろ!」
「言われるまでもない! だが、キリがないぞ!」
聖騎士団長ゴードンも、自慢の戦斧を振り回すが、その動きには焦りが見えた。
彼らが今いるのは、新人冒険者が腕試しに訪れるような、低ランクのダンジョン。本来であれば、彼らの敵ではないはずだった。
しかし、現実は違った。連携が、驚くほどうまくいかないのだ。
「リナ! 範囲魔法で一掃しろ!」
「詠唱中ですわ! 邪魔をしないで!」
賢者リナが大魔法を放とうとするが、前衛をすり抜けてきたゴブリンに邪魔をされ、何度も詠唱を中断させられていた。
「ソフィア! 回復を!」
「はいっ! 聖なる光よ……きゃっ!」
聖女ソフィアも、傷ついたゴードンを癒そうとするが、足元の小石につまずいて体勢を崩し、回復魔法が明後日の方向に飛んでいく。
誰もが、苛立っていた。
そして、その苛立ちの原因に、薄々気づき始めていた。
(なぜだ……なぜ、こうもスムーズにいかない?)
アレクは内心で舌打ちする。
以前は、こんなことはなかった。リナが詠唱を始めれば、自然と敵の注意は他へ逸れた。ソフィアが祈りを捧げる時、足元が危険だったことなど一度もなかった。ゴードンの大振りの一撃は、なぜか面白いように敵の急所に吸い込まれていった。
それは全て、自分たちの実力だと思っていた。
だが、ユウキがいなくなってから、そういった「幸運」が、まるで嘘のように起こらなくなった。
リナの足元に、ゴブリンの投げた汚物がべちゃりと命中する。
「いやっ! 汚らわしい!」
潔癖症の彼女が、完全に冷静さを失う。
ソフィアが、またしても何もない場所で転びそうになる。
「ひっ……!」
以前なら、リナの足元には都合よく石ころが転がっていて汚物を防いだり、ソフィアがつまずきそうな場所には、なぜかフカフカの苔が生えていたりした。
そう、ユウキがいた頃は。
彼の【ギャグ】スキルは、戦闘の役に立たないどころか、無意識のうちに、パーティーに都合のいい些細な奇跡を、それこそギャグのように連発していたのだ。敵の攻撃が面白いように逸れる。味方の足元は常に安全。致命的な罠は、なぜかいつも直前で不発に終わる。
彼らは、自分たちの実力では決してありえない、絶対的な安全と幸運の上で戦っていたに過ぎなかった。その事実に、まだ誰も気づいていない。ただ、漠然とした違和感と焦燥感だけが、パーティー全体を支配していた。
「撤退するぞ! 一旦退く!」
ついにアレクが、屈辱的な命令を下す。たかがゴブリンの巣窟から、大陸最強の勇者パーティーが、である。
ダンジョンから這々の体で脱出した彼らの姿は、泥と返り血にまみれ、疲労困憊の極みにあった。
「……どうなっているんだ。最近、どうも調子が悪い……」
ゴードンが、腕の傷を押さえながら吐き捨てる。
「ええ。まるで、幸運の女神に見放されたようですわ」
リナも、汚れたローブを忌々しげに見つめながら同意する。
その時、ふとアレクの脳裏に、あの男の顔が浮かんだ。
いつもパーティーの最後尾で、申し訳なさそうに立っていた、役立たずの荷物持ち。
追放した時、一度も振り返らずに去っていった、あの男の背中。
(……まさかな)
あんな無能が、俺たちの不調に関係しているはずがない。
アレクは頭を振り、その馬鹿げた考えを打ち消した。
自分たちの不調は、一時的なものだ。すぐに本来の実力を取り戻せる。
彼はそう信じようとした。
だが、心の奥底で芽生え始めた小さな疑念の種が、やがてパーティー全体を蝕む巨大な悪夢へと成長していくことを、この時の彼は、まだ知る由もなかった。