第3話:ログハウスとポップコーンの夜
気まずい沈黙が、俺と、目の前のエルフの少女――シルフィとの間に流れていた。
沈黙を破ったのは、俺の足元で「クゥーン」と甘えた声を出す、神話級の魔獣だった。名をクロというらしい。さっきまで俺を喰い殺そうとしていた張本人(本狼?)が、今ではすっかり巨大な忠犬と化している。その大きな頭を俺の腰にぐりぐりと押し付けてくる様は、愛らしくなくもない。
「……信じられない。クロが、森の外から来た人間にここまで懐くなんて」
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シルフィが、まだ半信半疑といった表情で呟く。彼女の警戒心は解けているようだが、代わりに戸惑いと好奇心がその翡翠の瞳を揺らしていた。スカート捲れ事件のせいで、頬はまだほんのり赤い。
「俺にも、何がなんだか……。こいつ、本当にあのフェンリルなのか?」
「ええ。クロはこの『嘆きの森』の主。森の生態系の頂点に立つ、誇り高い守り神よ。……あなた、一体何者なの?さっきの突風も、クロが気絶したっていうのも、全部あなたの仕業なんでしょう?」
鋭い指摘に、俺は言葉を濁すしかない。
「仕業というか……俺のスキルは、その、ちょっと特殊で。自分の意思とは関係なく、変なことが起きるんだ」
「変なこと?」
「ああ。例えば、さっきみたいに風が吹いたり、空からタライが降ってきたり……」
「タライ……」
シルフィがクロの頭を見て、そこに残っていた僅かなくぼみと、地面に転がる巨大なタライとを見比べて、合点がいったという顔をする。神話の魔獣を一撃で昏倒させた凶器がそれだと知って、彼女の俺を見る目がさらに「ワケの分からないものを見る目」に変わった気がした。
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俺は正直に、自分が所属していたパーティーを追い出されて、静かに暮らせる場所を探してこの森に来たことを話した。勇者パーティーにいたことまでは言わなかったが、役立たず扱いされていたことは伝わっただろう。
シルフィは黙って俺の話を聞いていた。
「……そう。あなたも、居場所がないのね」
ぽつりと、彼女は同情するような声で言った。
「私はずっと一人で、この森を守ってきた。クロは友達だけど、こうして誰かと話すのは、本当に久しぶり」
その横顔には、長い孤独の影が差しているように見えた。森の番人。それは、聞こえはいいが、過酷で寂しい役目なのかもしれない。
ひとまずお互いの素性(?)を明かし、敵意がないことを確認できたわけだが、すぐに現実的な問題が俺たちにのしかかる。日が傾き始め、森の気温がぐっと下がってきたのだ。
「まずいな、夜は冷える。火でも起こさないと……それに、野宿は危険だ」
いくらクロが懐いたからといって、夜の森にはどんな魔獣が潜んでいるか分からない。最低でも、しっかりとした寝床が必要だ。
「この辺りに、雨風をしのげる洞窟ならあるけれど……」
「うーん、洞窟かぁ……」
どうせなら、もっと快適な場所がいい。ベッドがあって、暖炉があって、ちゃんとした壁と屋根に守られているような……。
(ああ、もういっそ、都合よく立派なログハウスでも生えてこないかなぁ)
パーティーにいた頃は、こんな馬鹿げた空想はしなかった。どうせ何も起こらないと諦めていたからだ。だが、今は違う。タライを降らせ、魔獣を懐かせたこのスキルなら、あるいは。
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ダメ元で、俺は半ば本気で、強く念じてみた。
すると。
ゴゴゴゴゴゴ……!
「「えっ?」」
俺とシルフィの声が重なる。
突然、足元が大きく揺れ始めた。地震か!?
だが、揺れの中心は、俺たちが立っているこの場所だけ。目の前の地面が、まるで巨大な植物の芽が出るかのように、ゆっくりと盛り上がっていく。
土が割れ、そこから顔を出したのは、綺麗に組まれた木材の土台だった。それは見る見るうちに成長し、壁が、窓枠が、屋根が、まるで早送り映像のように組み上がっていく。
「な……ななな、何これぇぇぇぇ!?」
シルフィが素っ頓狂な悲鳴を上げる。俺も口をあんぐりと開けたまま、その光景をただ見守ることしかできなかった。
ギギギ……トン、カン、コン……!
どこからか聞こえる軽快な大工仕事のような効果音と共に、家は驚異的なスピードでその形を成していく。煙突がにょきりと生え、玄関のドアがパタリと収まる。
そして、全ての工程が終わると、どこからともなく「ピローン♪」と気の抜けた完成音が響いた。
目の前には、立派なログハウスが建っていた。
まるで、何十年も前からそこにあったかのような、自然な佇まいで。
「……本当に、生えてきちゃった」
俺の呟きに、シルフィが恐る恐る尋ねる。
「……これも、あなたのスキル?」
「……たぶん、そう」
「たぶんって……」
シルフィは完全に引いていた。もはや呆れるとか驚くとかいうレベルを超えて、理解不能なものに対する畏怖のような感情が、彼女の顔に浮かんでいた。
俺たちは顔を見合わせ、おそるおそる玄関のドアに手をかける。ギィ、と音を立てて開いたその先には、信じられない光景が広がっていた。
中には、温かそうな暖炉、ふかふかのベッドが二つ、しっかりした木製のテーブルと椅子まで、完璧に揃っていた。暖炉にはすでに薪がくべられており、あとは火をつけるだけ。
「……住める」
「住めるわね……」
俺とシルフィは、ただただ感嘆のため息を漏らす。俺のスキルは、どうやら本気でスローライフを応援してくれているらしい。
家問題が解決すると、次に襲ってきたのは強烈な空腹だった。そういえば、俺は丸一日何も食べていない。
「ぐぅぅぅぅ〜〜〜」
盛大な腹の虫の音に、シルフィがびくりと肩を震わせる。恥ずかしさで顔が熱くなる。
「ご、ごめん。腹が減ってて……」
「い、いいえ。私も……何か食べられるものを探してくるわ」
森の番人である彼女は、食料調達もお手の物なのだろう。だが、外はもう真っ暗だ。
「いや、危ないよ。それに、何かこう、もっと手軽なものはないかな……映画館で食べるような、あの……」
そうだ、ポップコーンが食べたい。
塩バター味の、あの香ばしいやつだ。あんなのが、都合よくこの森に……
その時、ふと視界の端に、ログハウスの傍らに生えている奇妙な植物が映った。トウモロコシに似ているが、粒の一つ一つがやけに黄色く、バターのような光沢を放っている。
俺は吸い寄せられるようにその植物に近づき、実の一つを指で弾いてみた。
ポンッ!
「うおっ!?」
軽い破裂音と共に、実が見事に弾け、白くて香ばしい、まさしくポップコーンへと姿を変えた。ふわりと漂う、塩とバターの香り。
俺は呆気に取られながらも、一つまんで口に放り込む。
「……うまい」
サクサクとした食感、絶妙な塩加減。完璧なポップコーンだった。
シルフィも恐る恐る近づいてきて、弾けた実を一つ、小さな口に入れる。
「……美味しい」
彼女の翡翠の瞳が、驚きと感動で見開かれた。
その植物は、弾いても弾いても、次から次へと実をポップさせ、あっという間に俺たちの腕の中は、出来たてのポップコーンでいっぱいになった。
その夜。
俺とシルフィ、そしてクロは、魔法のように現れたログハウスの暖炉の前で、魔法のように現れたポップコーンを分け合っていた。
パチパチと薪がはぜる音、クロの穏やかな寝息、そしてシルフィが時折見せる、はにかんだような笑顔。
(……最高かよ)
数日前まで、薄暗い野営地で、傲慢な勇者たちの嫌味を聞きながら、固いパンをかじっていたのが嘘のようだ。
追放されて、本当によかった。
俺は心の底からそう思いながら、温かいポップコーンをもう一つ、口に放り込んだ。辺境でのスローライフ初日は、望外すぎるほど完璧な形で幕を開けたのだった。