第29話:偽りの報告と、新たな覚悟
夜。
楽園の住人たちが、それぞれの寝床で、穏やかな眠りについている頃。
リリス――『リリ』は、一人、自室で、黒水晶の通信機の前に座していた。
父である魔王、ゴルベザへの、定期報告の時だった。
彼女は、深呼吸を一つ。そして、震える指で、水晶に、そっと魔力を注ぎ込んだ。
ズズ……と、低い音を立てて、水晶の内部に、禍々しい紫色の光が渦巻き始める。やがて、その光は、一つの、威厳に満ちた姿を形作った。
e. . . . . . . . . . . . . . . . . . .
玉座に座す、偉大なる魔王。私の父。
『……リリスか。随分と、間が空いたな。報告せよ』
地響きのような、しかし、どこか娘を気遣う響きを帯びた声が、部屋に響き渡った。
私は、心臓が、喉から飛び出しそうになるのを、必死にこらえながら、 rehearsedした言葉を、ゆっくりと、紡ぎ始めた。
「……はい、父上。ご報告、いたします」
私は、まず、床に深く、膝をついた。
「……まず、悲しいお知らせが。捜索対象であった、魔王軍四天王、剛力のザルガスは……死亡いたしました」
『……何だと?』
父上の声に、初めて、動揺の色が混じる。
『ザルガスが……死んだ? あの男が、人間の領地ごときで、殺されるものか』
「相手が、人間ではなかったのです」
私は、この数週間で練り上げた、完璧な「嘘」を語り始めた。
「嘆きの森は、ただの魔境ではありませんでした。その中心には、古代の、我々の知らない理で動く、『何か』がいます。それは、森そのものが生み出した、一種の防衛機構……あるいは、気まぐれな、神のようなもの、としか」
私は、バルド子爵軍が、いかに滑稽に、そして、無慈悲に、無力化されたかを、ありのままに語る。
「その力は、我々の魔法体系とは、全く異なります。攻撃は、戯れに変わり、現実は、悪夢に歪められる。ザルガスは、そのあまりに規格外で、あまりに理不尽な力の前に、己の剛力を振るうことすら、できずに……」
嘘に、真実を、巧みに織り交ぜる。
ザルガスが、その力の前に、戦士としての誇りを完全にへし折られたのは、事実なのだから。
父上は、しばし、黙り込んでいた。
重い沈黙が、私の肩に、のしかかる。
『……リリスよ』
やがて、父上が、静かに、口を開いた。
『お前の声……どこか、おかしいぞ。お前自身、その『何か』に、害されてはいないだろうな。すぐに、城へ戻れ。お前の身が、何よりも大事だ』
父上の、心からの気遣いの言葉が、私の胸を、鋭く、抉った。
ごめんなさい、父上。私は、あなたに、嘘をついています。
戻るわけには、いかない。
ここで戻れば、私の嘘は、いつか、必ず、綻びを見せるだろう。
私は、この楽園を、守らなければならない。
「……私は、無事です、父上。ですが……」
私は、最後の、そして、最大の嘘を、口にした。
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「この森の『力』、あまりに未知数で、危険です。ですが、同時に、我々が知らない理を持つ、貴重な研究対象でもあります。放置すれば、いつ、我々の領域に牙を剥くか、分かりません。……どうか、この私に、この地での、長期的な監視任務の許可を、お与えください。他の者では、危険すぎます」
それは、魔王軍への忠誠心を装った、完璧な、離反の意思表示だった。
父上は、再び、沈黙した。
水晶の向こうで、彼が、どれほど、葛藤しているか、痛いほど、伝わってくる。
永遠にも思える、数十秒の後。
『……分かった。お前の判断を、信じよう』
父上は、絞り出すように、そう言った。
『だが、決して、無理はするな。交戦は、絶対に禁ずる。お前は、ただ、監視し、報告するだけでいい。ザルガスの件は……残念だが、これで、打ち切りとする』
「……御意。父上の、ご慈悲に、感謝いたします」
私は、床に、額をこすりつけるようにして、頭を下げた。
『達者でな、リリス』
最後に、父上の、ただの父親としての声が、聞こえた。
そして、黒水晶の光は、ふっと、消え失せた。
通信が、切れた。
部屋に、静寂が、戻る。
私は、その場から、動けなかった。
全身から、力が抜け、汗が、どっと、噴き出す。
私は、やったのだ。
魔王である父を、欺き、魔王軍を、裏切った。
腹心であるザルガスの存在を、この世から、抹消した。
その罪の重さに、身体が、震えた。
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だが、その震えは、いつしか、別の感情に、変わっていった。
後悔ではない。
安堵と、そして、これから始まる、新たな戦いへの、静かな、しかし、燃えるような、覚悟だった。
私は、ゆっくりと、立ち上がった。
そして、窓の外に広がる、月明かりに照らされた、穏やかな楽園を、見つめた。
畑も、工房も、ガゼボも、そして、皆が眠る、温かいログハウスも。
全てが、愛おしかった。
「……私の、世界」
私は、もう、ただの潜入調査官『リリ』ではない。
そして、ただ、父上の命令に従うだけの、魔王の娘『リリス』でもない。
私は、この、温かくて、少しだけ騒がしくて、そして、かけがえのない楽園を、あらゆる脅威から、人知れず守り抜く、『守護者』。
それが、私が、私自身の意思で選んだ、新しい生き方。
その顔に、小さな、しかし、鋼のように強い決意を秘めた笑みを浮かべ、私は、静かに、夜の闇に、溶けていった。
私の、本当のスローライフは、今、ここから、始まるのだ。




