第28話:魔王の娘、決断の時
勇者パーティーが、敗残兵のように森の奥へと消えてから、二日が過ぎた。
嵐が去った後のように、俺たちの楽園には、再び完璧なまでの平穏が戻ってきた。
その日の朝食は、ネルが満を持して発表した新作『全自動パンケーキタワー焼き機・改』の試食会だった。スイッチを入れると、生地が自動で流し込まれ、完璧な焼き色のパンケーキが次々と焼き上がり、美しいタワーを形成していくという、またしても天才的だが用途が限定的すぎる発明品だ。
「すごーい! お店みたい!」
「生地に練り込んだ木の実の香ばしさが、絶妙なアクセントになっているな」
「うん、美味しいわ。でも、ネル。次は、一度に一枚だけ普通に焼ける機能もつけてくれると、嬉しいのだけれど……」
「む……。改良の余地、あり……」
ミオが目を輝かせ、俺が唸り、シルフィが的確なダメ出しをし、ネルが真剣にメモを取る。ザーグは「なんと素晴らしい機械でしょう、ユウキ様!」と感涙に咽び、リリは黙々と、しかしどこか嬉しそうに、パンケーキを頬張っている。
いつも通りの、温かくて、少しだけ騒がしい、俺の愛すべき日常。
もう、あの四人の勇者のことなど、誰も話題に出さなかった。まるで、最初から、彼らなど存在しなかったかのように。
だが、一人だけ。
その心に、過ぎ去った嵐が、大きな波紋を残していた者がいた。
魔王の娘、リリス――『リリ』だった。
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彼女は、あの一部始終を見ていた。
世界を救うはずの勇者たちが、かつて自分たちが見捨てた男に、無様にすがりつく姿を。
そして、その男が、絶対的な強者の立場から、しかし、一切の驕りも憎しみもなく、ただ、あまりにもあっさりと、彼らを切り捨てる姿を。
(……あれが、勇者)
リリは、自室のベッドに腰掛け、深く、思考の海に沈んでいた。
父である魔王が、敵対する存在。人間の希望の象徴。
だが、彼女が実際に見た勇者たちの姿は、ただの、自分たちの都合しか考えない、傲慢で、哀れな人間たちでしかなかった。
彼らがユウキに求めたのは、彼の力だけ。彼という人間そのものではなかった。
それは、父上が、ザルガスに求めているものと、本質的に何が違うのだろう? 父上もまた、ザルガスの忠誠と力を求めているのであって、彼が薪割りをして幸せに暮らすことなど、望んではいないだろう。
そして、ユウキ。
彼は、勇者たちを遥かに凌駕する、不可解で絶大な力を持っている。
だというのに、彼は、その力を、世界を支配するためにも、富を築くためにも使おうとしない。
ただ、目の前にいる仲間たちを、幸せにするためだけに、その力を使っている。
なんという、非効率。なんという、無欲。
魔族の価値観からすれば、愚者の骨頂。
だが――なんという、眩しさだろうか。
リリは、自分の任務を、改めて思い返す。
ザルガスの捜索と救出。そして、脅威の排除。
だが、ザルガスは、救出など必要としていなかった。彼は、記憶を失い、魔王軍幹部としての誇りを失った代わりに、一人の『ザーグ』として、生まれて初めて、心からの笑顔と、日々の労働に喜びを見出している。
そして、脅威。ユウキと、この楽園は、本当に魔族にとっての脅威なのだろうか?
彼らは、誰かを侵略しようとも、支配しようとも思っていない。ただ、ここで、静かに、幸せに暮らしたい。そう願っているだけだ。
リリは、岐路に立たされていた。
父上に、真実を報告すればどうなる? 父上は、娘と腹心を「洗脳」した、危険な存在として、ユウキたちの楽園を、本気で潰しにくるだろう。この温かい場所は、戦火に包まれる。
では、嘘の報告をすれば? ザルガスは死亡し、脅威は確認できず、と。それは、父上を、魔王軍を裏切る行為。
あるいは、このまま、全てを捨てて、ここに……。
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答えは、出なかった。
彼女は、気づけば、ふらふらと、ユウキのいるガゼボへと向かっていた。
ユウキは、クロの腹を枕に、気持ちよさそうに昼寝をしていた。
「……ユウキ」
私が声をかけると、彼は、うっすらと目を開けた。
「ん……なんだ、リリか」
「……一つ、聞いても、よろしいかしら」
私は、まだ「リリ」の仮面を被ったまま、問いかけた。
「あなたは、どうして……あんなに、強いのに。もっと、大きなことをしようとは思わないの? その気になれば、世界だって、あなたのものにできるかもしれないのに」
それは、私の、心の底からの疑問だった。
ユウキは、眠たげな目をこすりながら、少しだけ考える素振りを見せ、そして、ふわりと、笑った。
「世界、ねぇ……。そんなデカいもの、俺には、よく分かんないや」
彼は、身を起こすと、ログハウスの方を、優しい目で見つめた。
「俺が変えられる世界なんて、せいぜい、ここから見える範囲だけだよ。シルフィが、安心して眠れる家を守ってやること。ネルが、心置きなく発明に打ち込める環境を作ってやること。ミオが、もう二度と、お腹を空かせないようにしてやること。ザーグが、自分の力に誇りを持てる仕事を与えてやること。……そして、リリが、美味しいって言って、パンケーキを食べてくれること」
彼は、くるりと、俺に向き直った。
「俺にとっては、あんたたちがいる、この小さな世界が、全てなんだ。でっかい世界がどうなろうと知ったこっちゃないけど、この俺の世界が、明日も、平和で、みんなが笑っていられるなら……俺は、それで、十分すぎるくらい、幸せなんだよ」
その言葉は、どんな強力な魔法よりも、私の心を、強く、深く、揺さぶった。
そうだ。私が、この場所に来てから、ずっと感じていた、温かさの正体は、これだったのだ。
私の心は、決まった。
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その夜。
私は、自室で、父上と連絡を取るための、黒水晶の通信機を取り出した。
魔力を込めると、水晶が、禍々しい光を放ち始める。父上の、威厳に満ちた声が、もうすぐ、この水晶から響くだろう。
『リリス、報告せよ』と。
私は、震える手で、その水晶を握りしめた。
そして、深呼吸を一つ。
告げるべき言葉は、もう、決まっている。
それが、魔王軍への裏切りだとしても。父上を、悲しませることになったとしても。
私は、この、温かくて、かけがえのない「私の世界」を、この手で、守り抜くと、誓ったのだから。




