第23話:嘆きの森と勇者たちの苦難
勇者アレクのパーティーが、禁断の地『嘆きの森』に足を踏み入れてから、三日が経過していた。
そして、彼らは、自分たちの決断が、あまりにも無謀で、愚かであったことを、骨の髄まで思い知らされていた。
「……ハァ……ハァ……!」
アレクは、聖剣を杖代わりに、荒い息をつく。
森の入り口に立った瞬間から、空気が違った。淀んだ瘴気が、まるで粘液のように肌にまとわりつき、気力と体力を容赦なく削っていく。空は常に暗い雲に覆われ、昼なお暗く、不気味な魔物の咆哮が、絶えずどこかから聞こえてくる。
ここは、人の理が通用しない、本物の魔境だった。
かつての彼らであれば、聖剣の加護と、パーティーの結束、そして、今となっては失われた『幸運』によって、この苦難をも乗り越えられただろう。
だが、今の彼らには、そのどれもが欠けていた。
「ゴードン! 突出するなと言ったはずだ!」
「うるさい! ちまちま進んでいては、瘴気にやられるだけだ!」
前衛を進むゴードンが、アレクの制止も聞かずに、苛立たしげに斧で茨を薙ぎ払う。その瞬間、茨の影から、巨大な鎌を持った蟷螂型の魔物、Sランクモンスター『デスサイズマンティス』が、音もなく姿を現した。
「しまっ……!」
ゴードンの反応が、一瞬遅れる。
以前なら、こういう時、なぜか魔物の鎌が枝に引っかかったり、足元がぬかるんでいて敵が体勢を崩したり、といった「幸運」が起きた。
だが、今は違う。
デスサイズマンティスの刃は、一切の障害なく、ゴードンの脇腹を正確に、そして深く抉った。
「ぐはっ!?」
ゴードンが、血を噴き出して地面に倒れる。
「ゴードンさん!」
ソフィアが、悲鳴を上げて回復魔法をかけようとするが、瘴気の影響で、聖なる光は普段の半分ほどの力しか発揮できない。
「リナ! 援護を!」
「言われずとも! インフェルノ!」
リナが放った業火が魔物を包むが、デスサイズマンティスは素早く翼を広げて炎を回避し、空からリナへと襲いかかる。
「くそっ!」
アレクが、聖剣を手に、リナと魔物の間に割って入る。
聖剣の輝きが、魔物の硬い外骨格を弾く。一対一であれば、負けはしない。だが、仲間を守りながら、この強敵を相手にするのは、あまりにも分が悪かった。
連携は、完全に崩壊していた。それぞれが、自分の身を守るのに精一杯で、パーティーとして機能していない。
一時間にも及ぶ死闘の末、彼らは、満身創痍の状態で、かろうじてデスサイズマンティスを討伐することに成功した。
だが、その代償は大きかった。
ゴードンは、ソフィアの懸命な治療にもかかわらず、意識が朦朧としている。リナは魔力を使い果たし、アレクも無数の切り傷をその身に受けていた。そして、何より、持ってきた回復薬の半分以上を、この一戦で消費してしまった。
. . . . . . . . . . . . . . . . . . .
. . . . . . . . . . . . . . . . . . .
その夜の野営は、地獄そのものだった。
焚き火の頼りない光が、絶望に沈んだ四人の顔を照らし出す。
「……もう、無理だ」
ゴードンが、呻くように言った。
「こんな森……進めるはずがない。戻るべきだ……」
「戻ってどうするのですか。私たちの居場所は、もうどこにもありませんわ」
リナが、虚ろな目で返す。
「でも、このままじゃ……みんな、死んでしまいます……!」
ソフィアの瞳から、涙がとめどなく溢れる。彼女の心は、後悔と恐怖で、とっくに限界を超えていた。
仲間たちの醜態に、アレクの中で、何かが、ぷつりと切れた。
「……黙れ」
低い、地の底から響くような声だった。
「見苦しいぞ。泣いて、喚いて、諦めて……それで、何かが変わるのか。我々は、勇者だぞ。魔王を倒し、世界を救う使命を帯びた、選ばれし者だ! こんな森に、こんな苦難に、屈していいはずがない!」
その言葉は、仲間を鼓舞するためではなく、崩れ落ちそうな自分自身に、必死に言い聞かせるための叫びだった。
そうだ、進むしかない。
あの男を見つけ出し、失った『幸運』を取り戻す。そのためなら、どんな代償も払う。
その歪んだ執念だけが、今の彼らを支える、唯一の柱だった。
. . . . . . . . . . . . . . . . . . .
さらに二日。彼らは、地獄の中を進み続けた。
そして、五日目の朝。心身ともに限界を迎え、全員が、地面に倒れ伏していた時だった。
ふと、アレクは、ある変化に気づいた。
(……瘴気が、薄くなっている?)
肌にまとわりつく、あの不快な空気が、少しだけ和らいでいる。
そして、どこからか、微かに、信じられない音が聞こえてくる。
それは、歌声だった。
複数の楽器が奏でる、楽しげな音楽と、それに合わせて、鈴を転がすように響く、美しい少女たちの歌声。
「……罠だ」
リナが、警戒するように呟く。
「ええ。森が見せる、最後の幻覚……。我々を、死へと誘うための……」
だが、その歌声と音楽は、あまりにも、楽しそうで、幸せに満ちていた。
それは、死の淵にいる彼らにとって、悪魔の誘惑そのものだった。
たとえ罠だとしても、この苦しみから解放されるなら――。
アレクは、最後の力を振り絞り、立ち上がった。
そして、仲間たちの亡骸を引きずるようにして、その音のする方へと、一歩、また一歩と、歩みを進めていった。
やがて、鬱蒼とした木々が途切れ、視界が開ける。
そして、アレクたちは、見た。
自分たちが、五日間彷徨い続けた地獄の森の、その中心に。
まるで、神々が作り上げた箱庭のように、穏やかな光に満ちた、楽園が広がっているのを。
綺麗に整えられた畑。湯気の立つ露天風呂。そして、陽気な音楽を奏でながら、笑い合う、ありえないほど多様な種族の住人たち。
その中心で、ガゼボの椅子に座り、楽しそうに手拍子を打っている、一人の青年。
見間違えるはずもなかった。
彼らが、捨てた男。
彼らが、血眼になって、探していた男。
「……ユウキ」
アレクの唇から、かすれた声が漏れた。
その瞬間、楽園の住人たちが、自分たちの存在に気づき、一斉にこちらを振り返った。
そして、勇者パーティーと、追放された元仲間は、あまりにも残酷な形で、再会を果たしたのだった。




