第21話:魔王の娘、土いじりに目覚める
私が「リリ」として、この奇妙な楽園に潜入してから、一週間が過ぎた。
そして、私の調査は、完全に行き詰まっていた。
中心人物であるユウキは、信じられないほどの「普通」だった。彼をいくら観察しても、魔力の流れも、策略の気配も、何も感じられない。ただ、あくびをしながらお茶を飲み、時々、私たちの様子を見て、気の抜けた笑みを浮かべているだけ。他の少女たちも、ただただ毎日を幸せそうに暮らしているだけだった。
(ありえない……! これほどの異常事態を維持しながら、これほどまでに気配がないなど……!)
私の焦りは募る一方だった。父上への定期報告も、「現在調査中。特異点多数なれど、敵意は確認できず」という、曖昧な内容を送るのが精一杯だった。
このままでは埒が明かない。私は、より核心に近づくため、この集落で最も不可解な奇跡の源泉である、あの『全自動畑』の調査に乗り出すことにした。
「あの……私にも、何かお手伝いさせていただけませんか?」
私は、か弱い少女を完璧に演じ、朝食の席でユウキに申し出た。
「畑仕事に、興味があるのです。土に触れることは、生命に触れることだと、父も申しておりましたので」
もちろん、魔王である父上が、そんな牧歌的なことを言うはずがない。真っ赤な嘘だ。
「へえ、リリは感心だな。いいぜ、やってみるか」
ユウキは、あっさりと許可した。そして、こともなげに、こう続けたのだ。
「やり方は、ザーグが教えてくれるから」
「……は?」
私の耳を、疑った。
ザーグ。それは、私の父の腹心、魔王軍四天王ザルガスが、この場所で与えられた偽りの名。
魔王の娘であるこの私が、父の部下……それも、記憶を失って腑抜けた裏切り者(仮)に、手ほどきを受けろと? これ以上の屈辱があるだろうか。
だが、潜入調査中の身。断ることはできない。私は、表情を引きつらせながらも、笑顔で「よろしくお願いいたしますわ」と、頭を下げるしかなかった。
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そして、私の人生で最も奇妙な農業実習が始まった。
「リリ殿! 農業の基本は、まず土への感謝から! ユウキ様から賜った、このありがたい大地に、まずは一礼!」
ザーグは、なぜか教官役として、異様なまでに張り切っていた。彼は、畑を前に、深々と頭を下げる。
(……こいつ、完全に洗脳されている……!)
私は、内心で悪態をつきながら、仕方なく彼に倣って頭を下げた。
ネルが私のために作ってくれたという、驚くほど手に馴染むクワを手に、私は、人生で初めて、土に触れた。
魔族の姫として、土いじりなど、考えたこともない。汚らわしい、下賤な行為だと思っていた。
だが。
(……温かい?)
クワを通して伝わってくる土の感触は、驚くほど柔らかく、そして、生命力に満ちて温かかった。ネルのクワは、力を入れなくとも、すっと土を掘り起こしていく。
ザク、ザク、というリズミカルな音。額にうっすらと浮かぶ汗。それは、決して不快なものではなかった。
「リリ殿、筋がいいですな! では、次に種を蒔いてみましょう!」
ザーグに促され、私は小さな種を、耕したばかりの畝に落とす。
すると、私の目の前で、信じられない光景が繰り広げられた。
種が、芽を出し、ぐんぐんと成長し、青々とした葉を広げ、可憐な花を咲かせ――そして、見る見るうちに、艶やかな赤い実をつけたのだ。
完璧な、宝石のようなトマト。
「……」
私は、その奇跡に、言葉を失っていた。
これが、この楽園の力の根源。生命そのものを、意のままに操る、神の如き御業。
(これを、解析しなければ……!)
私は、当初の目的を思い出し、そのトマトに手を伸ばし、もぎ取った。
太陽の光を浴びて、温かい。ずしりとした、生命の重み。
解析のためには、まず、その性質を知る必要がある。私は、意を決して、その赤い実に、かぶりついた。
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次の瞬間、私の全身を、経験したことのない衝撃が駆け巡った。
(――ッ!?)
甘い。酸っぱい。瑞々しい。
そんな陳腐な言葉では、到底表現できない。
凝縮された太陽の恵みと、大地の生命力が、私の口の中で、交響曲を奏でている。
魔力とは違う、清らかで、純粋なエネルギーの奔流が、私の身体を満たしていく。
魔族である私の身体は、本来、瘴気や負のエネルギーを糧とする。だが、このトマトが持つ、圧倒的なまでの正の生命力は、私の魂の根幹を、心地よく揺さぶった。
美味しい、という感情の、遥か先。それは、幸福そのものを、食べているような感覚だった。
私は、調査のことも、父上の命令も、全て忘れて、夢中でそのトマトを頬張っていた。
一日中、私はザーグと共に、畑仕事に没頭した。
土を耕し、種を蒔き、実った野菜を収穫する。その単純な作業の繰り返しが、信じられないほどの充実感を、私の心に与えてくれた。
魔王城での、権謀術数が渦巻く、息の詰まるような日々と比べて、なんと満ち足りた時間だろうか。
その日の夕食。
食卓には、私が収穫した野菜を使ったサラダが並んでいた。
自分で収穫した野菜の味は、また格別だった。
私は、食卓で笑い合うユウキたちの顔を、ぼんやりと眺めていた。
私を警戒する者は、誰もいない。皆、私を「リリ」として、仲間として、温かく迎え入れてくれている。
私の任務は、ザルガスを救出し、この楽園の脅威を排除すること。
だというのに。
(……本当に、ここは、排除するべき脅威なの……?)
私の心に、初めて、迷いが生じた。
ひょっとしたら、ザルガスは、洗脳されているわけではないのかもしれない。ただ、私と同じように、この抗いがたいほどの「幸福」に、その魂を奪われてしまっただけなのでは……?
そして、恐ろしい考えが、私の頭をよぎった。
(父上を裏切るつもりは、ない。でも……もし、この任務が終わっても、ここに……もう少しだけ、いられたら……)
潜入調査は、大失敗だ。
私は、敵の正体を探るどころか、自分自身の心が、この楽園に囚われ始めていることを、認めざるを得なかった。




