第2話:辺境の森と伝説の魔獣
勇者パーティーを追放されてから、三日が過ぎた。
俺、ユウキは王都からひたすら東へ、街道を外れて森の中を歩き続けていた。目指すは、地図上でもほとんど空白になっている「嘆きの森」。かつて魔族の瘴気が蔓延し、今では危険な魔獣の巣窟となっているため、誰も好んで足を踏み入れない場所だ。静かに暮らすには、うってつけだろう。
追放された直後の高揚感は、さすがに少し落ち着いてきた。代わりに、じわじわと現実的な問題が頭をもたげる。
「腹、減ったな……」
アレクから餞別としてもらった金貨はまだ手つかずだが、こんな森の奥深くでは何の役にも立たない。食料は、パーティーから追い出される際に持っていた携帯食が底をつきかけていた。
荷物持ちをしていた経験から、サバイバルの知識が全くないわけではない。食べられる野草やキノコの見分け方は心得ている。しかし、この「嘆きの森」は生態系が特殊なのか、見慣れない植物ばかりだった。
(さて、どうしたものか……)
ごつごつした木の根に腰を下ろし、ため息をつく。追放された解放感は本物だが、明日生きるための算段は立てなければならない。狩りをするにも、俺の戦闘力は皆無に等しい。ゴブリン一体倒せるかどうか怪しいレベルだ。
その時だった。
ガサッ、と背後の茂みが大きく揺れる。
振り返った俺の目に飛び込んできたのは、体長3メートルはあろうかという巨大な狼だった。漆黒の毛並みは闇そのものを凝縮したようで、爛々と輝く真紅の瞳が、明確な殺意をもって俺を捉えている。口元から覗く牙は、短剣のように鋭い。
(……フェンリル!?)
魔物図鑑で見たことがある。神話級の魔獣、フェンリル。単独で街一つを壊滅させる力を持つとされ、その危険度はSランク。勇者パーティーですら、万全の準備を整えてようやく討伐できるかどうか、というレベルの怪物だ。
なぜこんなところに。いや、ここが「嘆きの森」だからか。
「グルルルル……」
地を這うような唸り声が、腹の底に響く。全身の毛が逆立ち、冷や汗が背中を伝うのが分かった。
死、を直感する。
逃げられるはずがない。戦っても、もちろん勝てるはずがない。あっけなく、理不尽に、俺の自由な人生はここで終わるのか。
(ああ、こんなことなら、腹が減ったなんて思うんじゃなかった……せめて最期は、満腹で……いや、いっそ、都合よく空から巨大な肉の塊でも降ってこないかなぁ……)
死を目前にして、俺の思考は現実逃避を始めていた。どうせ死ぬなら、せめて馬鹿なことを考えていたい。そんな、ほとんど無意識の願い。
その瞬間、俺の身体から例のムズムズとした感覚が湧き上がった。
【ギャグ】スキル、強制発動。
ヒュゥゥゥゥ……ドッスゥゥゥン!!!
「……へ?」
間の抜けた声が、俺の口から漏れた。
凄まじい地響きと衝撃。目の前で土煙がもうもうと立ち上る。
何が起きたのか分からず呆然としていると、やがて煙が晴れていき、眼前の光景が明らかになった。
そこには、巨大なクレーターができていた。
そして、その中心で。
先ほどまで俺に殺意を向けていたはずのフェンリルが、白目を剥いて完全に気絶していた。
その屈強な魔獣の頭上には、どう見てもファンタジー世界にそぐわない物体が、めり込むようにして突き刺さっている。
それは、巨大なタライだった。それも、コントで頭上から落ちてくるような、典型的な金色のタライだ。
「……ははっ」
乾いた笑いがこぼれた。
まさかとは思うが、俺の「空から肉の塊でも」という願いが、スキルによって捻じ曲げられ、「空から巨大なタライが落下」という形で実現してしまったのではないか。
そして、そのとばっちりを受けた神話級の魔獣が、一撃でノックアウトされた、と。
あまりに馬鹿馬鹿しい光景に、恐怖も緊張もどこかへ消え失せていた。
俺は恐る恐る、気絶しているフェンリルに近づく。ピクリとも動かない。頭にめり込んだタライが、なんだかシュールだ。
「あの……大丈夫、ですか?」
誰に言うでもなく問いかけた、その時だった。
「動かないで!」
凛とした、鈴を転がすような少女の声が森に響いた。
ハッとして声のした方を見ると、木の陰から一人の少女が姿を現した。
陽光を浴びて輝く、プラチナブロンドの長い髪。翡翠のように透き通った瞳に、すっと通った鼻筋。そして、彼女の人間ではないことを示す、長く尖った耳。エルフだ。
森の緑に溶け込むような簡素な服をまとっているが、その美しさは隠しきれていない。歳は俺と同じくらいだろうか。
彼女は警戒心を露わにしながら、手にした弓をこちらに向けていた。矢じりが、寸分の狂いもなく俺の心臓を狙っている。
「あなたが、この子を傷つけたの?」
少女の視線は、俺と、気絶しているフェンリルとを交互に行き来している。
「いや、これはその、事故というか……」
「言い訳は無用! この子は『嘆きの森』の主。森の守り神よ。その守り神に手を出すなんて、許さない……!」
少女の瞳に、強い怒りの色が宿る。弓を引く指に、力が込められていくのが見えた。
まずい。完全に俺が悪者だ。どう見ても俺がフェンリルをタライで殴り倒したようにしか見えない。弁解のしようもなかった。
(どうする……! このままじゃ、フェンリルに喰われる前に、エルフの矢に射抜かれて死ぬ!)
焦りが最高潮に達した、その時。
再び、俺の身体をあの感覚が支配した。
(またかよ! 頼むから、もうやめてくれ……!)
俺の心の叫びも虚しく、スキルは無情にも発動する。
今度は、音も前触れもなかった。
ただ、俺と少女の間に、突風が巻き起こった。
風は、少女が着ている簡素なワンピースのスカートを、ふわりと真上に捲り上げた。
「きゃっ!?」
少女が悲鳴を上げ、慌ててスカートを押さえる。弓を持つ手も、当然おろそかになった。
その一瞬、俺の目に映ったのは、純白の……。
(……マリリン・モンローかよ)
あまりにも古典的で、あまりにも間抜けなハプニング。
少女は顔を真っ赤にして、プルプルと震えている。怒りよりも、羞恥が勝っているようだった。
俺は慌てて視線を逸らし、両手を挙げて敵意がないことを示す。
「ご、ごめん! 今の俺のせいじゃない! 不可抗力なんだ!」
「ふ、ふ、ふ……」
「え?」
「ふざけないでっ!! 変態っ!!!」
怒りと羞恥で完全に我を忘れた彼女が、矢を放つ。
しかし、照準はめちゃくちゃだった。矢は俺の頬をかすめ、背後の木に突き刺さる。
その衝撃で、木になっていた木の実が、ポトリと一つ、気絶しているフェンリルの口元に落ちた。
すると、フェンリルは気絶したまま、もぐもぐと口を動かし、その木の実を飲み込んだ。
次の瞬間、信じられないことが起こる。
「クゥーン……」
あれほど獰猛だった神話級の魔獣が、子犬のようなか細い鳴き声を上げたのだ。
そして、ゆっくりと目を開けたフェンリルは、俺と目が合うと、おもむろに巨大な尻尾をぶんぶんと振り始めた。その様子は、まるで飼い主に再会した犬そのものだった。
「え……?」
矢を放ったエルフの少女も、何が起こったのか分からず、呆然としている。
フェンリルはゆっくりと巨体を起こすと、頭のタライをブルブルと振り落とし、俺の足元にすり寄ってきた。そして、ザラザラした舌で、俺の手をぺろりと舐めた。
明確な、親愛の情。
「……そ、そんな……クロが、人間に懐くなんて……」
少女が信じられないといった様子で呟く。クロ、というのがこのフェンリルの名前らしい。
俺にも理由は分からない。ただ、一つだけ推測できることがある。
さっきフェンリルが食べた木の実。あれは「懐かせの実」と呼ばれる、どんな魔獣も手懐けることができる伝説級のアイテムだ。もちろん、本来はこんな森に都合よく生えているはずがない。
おそらく、俺のスキルが、少女の放った矢の軌道を微妙にずらし、偶然を装って木の実をフェンリルの口に運んだのだろう。
結果として、俺は神話級の魔獣を手懐け、美しいエルフの少女の敵意を(別の感情に上書きする形で)逸らすことに成功した。
「……あなたが、何者なのか分からないわ。でも、クロがあなたを認めたのなら……」
少女はまだ頬を赤らめながらも、ゆっくりと弓を下ろした。
「私の名前はシルフィ。この森の番人よ。……あなたの名前を、聞いてもいいかしら?」
翡翠の瞳が、今度は警戒ではなく、純粋な興味を宿して俺を見つめていた。
こうして、役立たずと追放された俺の、辺境でのスローライフは、伝説の魔獣と美しいエルフの少女という、予想外すぎる仲間(?)との出会いから始まることになったのだった。