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第19話:魔王の娘、スローライフを体験する

「……ん」

 計算され尽くしたタイミングで、私はゆっくりと目を開ける。

 目の前に広がっていたのは、見慣れない木の天井と、心配そうにこちらを覗き込む、数人の少女たちの顔だった。人間、エルフ、ドワーフ、獣人。そして、その中心にいる、気の抜けきった顔をした人間の男、ユウキ。

 計画通り。私の名はリリス。魔王の娘にして、父の腹心ザルガスを捜索・救出する任を帯びた、特命調査官である。


「気がついた? 大丈夫?」

 エルフの少女、シルフィが優しい声をかけてくる。

 私は、記憶を失ったか弱い少女を完璧に演じながら、おずおずと身を起こした。

「……ここは? 私は……確か、盗賊に襲われて……」

「やっぱり、そうだったのね。大変だったわね。ここは安全だから、安心して」

 よし、食いついた。私は、あらかじめ用意しておいた偽りの経歴を語る。


「私の名はリリ……。旅の貴族の娘ですの。父や母と、護衛と共に旅をしていたのですが……」

 この辺境の森で道に迷い、不運にも盗賊に襲われ、一人だけ逃げ延びたが、力尽きて倒れてしまった――。陳腐だが、同情を引くには十分な筋書きだ。

 彼らは、私の話を何の疑いもなく信じ込んだようだった。特に、リーダー格であるはずのユウキは、「そりゃ大変だったな」とあくびを噛み殺しながら言う始末。こちらの完璧な演技に対して、あまりにも無警戒すぎる。少しだけ、プライドが傷ついた。


 こうして、私は「記憶が戻るまで」という名目で、この謎の集落に滞在する許可を得た。潜入調査、第一段階は成功だ。

 だが、この時、私はまだ知らなかった。この楽園が、魔王の娘である私の常識と誇りを、いとも容易く粉砕していくことになるということを。


 最初の試練は、「食事」という形で訪れた。

「お腹、空いているでしょう? 簡単なものだけど、食べて」

 シルフィが差し出してくれたのは、木の器によそわれた、ただの野菜スープだった。魔界の美食に慣れた私にとって、人間の、それも辺境で採れた野菜など、味気ない餌に等しい。

 しかし、ここで断るのは不自然だ。私は、内心で侮りながらも、スプーンでスープを一口、口に運んだ。

. . . . . . . . . . . . . . . . . . .

 ――その瞬間、私の脳内に、宇宙が生まれた。


(なっ……!?)


 なんだ、この味は!?

 野菜の、濃厚で、深く、そしてどこまでも優しい甘み。複雑なスパイスなど使っていないのに、全ての素材が完璧な調和を保ち、口の中で生命の歓喜を歌い上げている。一口飲むごとに、身体の隅々まで、温かい生命力が満ち溢れていくのを感じる。

 魔王城の料理長が、国中の最高級食材を集めて作るフルコースですら、このスープ一杯の足元にも及ばない。


「ど、どうしたの、リリ? もしかして、お口に合わなかった?」

 私が衝撃で固まっていると、獣人の少女ミオが、心配そうに顔を覗き込んできた。

「い、いえ……! こ、こんなに美味しいもの、生まれて初めて、食べました……!」

 それは、演技ではなく、偽らざる本心だった。私は、無我夢中でスープを平らげ、気づけばおかわりまでしていた。魔王の娘としての尊厳は、すでに地に落ちていた。


 次に私は、この集落の力の根源を探るべく、ユウキに接触を試みた。

「ユウキ様は、この素晴らしい村の、村長様でいらっしゃるのですか?」

 私は、最大限の魅力を込めた笑みで、彼に問いかける。どんな男も、私のこの笑顔の前では、全てを話したくなるはずだ。

 だが、ユウキは、ポリポリと頭を掻きながら、気の抜けた返事をしただけだった。

「様とか村長とか、やめてくれよ。俺はただの、居候みたいなもんだ。この畑も、家も、なんか勝手にできちまっただけだし」

「……は?」

「勝手に、ですか?」

「うん。なんか、こう、あったらいいなーって思ってたら、いつの間にか」

 ……ダメだ、こいつ。

 話が、全く通じない。私の魔性の魅力も、巧妙な誘導尋問も、この男の「天然」という最強の盾の前では、完全に無力だった。

. . . . . . . . . . . . . . . . . . .

 夕方になり、私はシルフィに露天風呂へと誘われた。

 これも調査の一環。女同士、裸の付き合いとなれば、何か情報を引き出せるかもしれない。

 そして、私は、三度目の衝撃を受けることになった。

 ネルというドワーフの少女が作ったという給湯システムは、魔界の技術の粋を集めた魔王城の大浴場と比べても、遜色ない……いや、それ以上の快適性を誇っていた。

 満点の星空の下、完璧な湯加減の湯船に身体を沈める。

(……何、この……気持ちよさ……)

 身体の芯から、疲労が溶けていく。父上の命令も、ザルガスのことも、どうでもよくなってしまいそうなほどの、背徳的な心地よさだった。


「リリちゃんも、大変だったんだねー」

「ええ……。でも、もう大丈夫よ。ここは、本当に安全な場所だから」

 ミオとシルフィが、優しい言葉をかけてくれる。

 私は、彼女たちから情報を引き出そうと、当たり障りのない会話を続ける。

 だが、彼女たちの口から語られるのは、明日のご飯の相談や、クロの可愛い寝相の話など、どこまでも平和で、他愛のない日常の話だけ。

 陰謀も、策略も、野心も、ここには何一つ存在しなかった。ただ、温かくて、穏やかで、本物の「家族」のような時間が、流れているだけだった。


 その夜。

 私のために、またしても「いつの間にか生えてきた」という客間のベッドに横になりながら、私は、天井を見つめて、深い混乱に陥っていた。

 私は、魔王軍の脅威となりうる、未知の力を調査しに来たはずだ。

 だというのに、私は今日、人生で一番美味しい食事をし、人生で一番気持ちのいい風呂に入り、そして、人生で一番、穏やかな夜を過ごしている。


(……なんなのよ、ここは……)


 潜入調査は、まだ始まったばかり。

 だが、私の心はすでに、この楽園が放つ、抗いがたいほどの「幸福」に、侵食され始めていた。

 私の計画は、早くも、致命的な綻びを見せ始めていたのだった。

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