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第15話:敗走とさらなる欲望

ゲッコー子爵の執務室に、重苦しい沈黙が垂れ込めていた。

 床にひれ伏し、ガタガタと震えているのは、歴戦の傭兵上がりであるはずの隊長、ボルマン。そして、その背後には、同じようにみすぼらしい姿でうなだれる兵士たちがいた。

 彼らの鎧は泥にまみれ、武器のいくつかは紛失していた。だが、何より異常なのは、彼らの誰一人として、まともな傷を負っていないことだった。彼らが負ったのは、肉体的なダメージではなく、それを遥かに凌駕する、精神的な屈辱と、理解不能な恐怖だった。


「……それで? もう一度、言ってみろ。ボルマン」

 ゲッコー子爵の声は、地を這うように低く、静かな怒りに満ちていた。

「は、はひぃ……! も、申し訳ございません! あれは、その……森の呪いです! 我々は、悪霊の類に襲われたのでございます!」


 ボルマンは、必死に言い訳を並べ立てた。

 鎧が勝手に分解したこと。意思とは無関係に、兵士たちがサンバを踊り出したこと。そして、地面から飛び出した巨大な拳に、自分が殴り飛ばされたこと。

 その報告は、あまりにも荒唐無稽で、聞いているゲッコーの額には、青筋がみるみると浮かび上がっていった。


「……貴様、わしを愚弄しているのか?」

「そ、そんな滅相もございません! 事実なのでございます! 兵士たちも、皆、見ております!」

 ボルマンが助けを求めるように背後を振り返ると、兵士たちは皆、幽霊でも見たかのように青ざめた顔で、コクコクと激しく頷いた。


 ゲッコーは、眉間に深い皺を刻み、思考を巡らせる。

 嘘を言っているようには見えない。集団幻覚か、あるいは、強力な精神魔法の使い手がいるのか。

 だが、どんな魔法であれ、三十人を超える武装した兵士を、一人の負傷者も出さずに無力化するなど、常識的に考えて不可能だった。

 しかし、ゲッコーの思考は、常識では測れない「欲望」という一点に収束していく。


(……それほどの力を持つ魔術師。そして、あの天上の菓子を生み出す技術。美しい亜人の女たち。伝説の魔獣)

. . . . . . . . . . . . . . . . . . .

 彼の脳裏に、斥候と商人の報告が蘇る。

 失敗したことで、彼は諦めるどころか、その獲物に対する執着を、さらに燃え上がらせていた。

 あれほどの力を持ちながら、なぜ森の奥に隠れ住む? 国や領主に仕えれば、莫大な富と名声を得られるはずだ。

 答えは一つしか考えられない。

(世間知らずの、愚か者どもよ)

 ゲッコーは、心の中でせせら笑った。

 彼らは、自分たちが持つ力の価値を、全く理解していないのだ。それは、赤子の手に余る至宝。自分のような、賢く、抜け目のない支配者が、正しく「管理」してやるべきなのだ、と。


「……ボルマン」

「は、はいっ!」

「兵を立て直せ。今度は、百人だ。そして、ギルドからBランク以上の魔術師を数人、金で雇え。精神攻撃への対策をさせろ」

「ひゃ、百人、でございますか!?」

 ボルマンが、信じられないといった顔で聞き返す。領内の治安維持を考えれば、動かせる兵力の限界に近い数だ。

「そうだ。わし自ら、出陣してやる」

「し、子爵様が、自ら!?」

 その言葉に、ボルマンだけでなく、その場にいた全員が驚愕した。

 強欲ではあるが、同時に臆病でもあるゲッコーが、自ら危険な森へ赴くなど、前代未聞だった。


 だが、ゲッコーの決意は固かった。

 これは、単なる不法居住者の討伐ではない。彼の人生における、最大のチャンスなのだ。

 あの楽園を、そこに住まう者たちを、全て自分の支配下に置くことができれば。

 亜人の女たちを奴隷として売りさばき、天上の菓子を独占販売し、強力な魔術師を駒として使う。そうすれば、いずれは伯爵、侯爵へと成り上がり、中央の政治にさえ影響力を持つことができるかもしれない。

 彼の頭の中では、すでにバラ色の未来予想図が完成していた。

. . . . . . . . . . . . . . . . . . .

. . . . . . . . . . . . . . . . . . .

 ゲッコーは、立ち上がり、窓の外を見つめた。その視線の先には、暗く、不気味にそびえる『嘆きの森』があった。

「……待っていろよ、聖霊様とやら。このゲッコー・フォン・バルドが、直々に貴様らの楽園を『保護』し、その全てを、わしのものとしてくれるわ」

 その醜く歪んだ笑みは、自らの破滅へと続く道が、すぐ目の前に開かれていることに、全く気づいていない愚か者のそれだった。


 数日後、辺境伯領バルドの城門から、百人を超える重装備の兵団が、静かに出陣した。

 先頭に立つのは、豪華な鎧に身を包んだゲッコー子爵その人。

 領民たちは、一体何が始まるのかと、不安げにその物々しい行列を見送るだけだった。


 彼らが目指すのは、世界で最も平和で、そして、世界で最も無慈悲なギャグが待ち受ける、聖域。

 悪意と欲望に満ちた軍靴の響きは、確実に、俺たちの小さな楽園へと近づきつつあった。

 そして、その日は、俺たちの穏やかな日常に、最初の大きな転換点をもたらすことになるのだった。

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