第13話:悪徳領主と楽園の噂
古道での一件から数日が過ぎた。
俺たちの日常は、何も変わらない。いや、ミオという探検隊長が加わったことで、行動範囲は広がり、日々の食卓にはシルフィも知らなかった珍しい木の実やキノコが並ぶようになった。ネルはそれらの新素材に創作意欲を刺激され、次々と新しい調理器具や保存食用の魔法瓶などを開発している。
平和で、穏やかで、昨日より今日が、今日より明日がもっと楽しくなる。そんな幸福な時間が、永遠に続くかのように思えた。
俺たちが、自分たちの小さな楽園の外で、ある一つの「噂」が産声を上げ、独り歩きを始めていることなど、知る由もなかった。
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辺境伯領バルド。
王都から遠く、中央の目が行き届きにくいこの地を治めるのは、子爵の爵位を持つゲッコー・フォン・バルドという男だった。贅沢で太りきった身体、蛇のように細い目、そして、その強欲さで知られる悪徳領主。それが彼だった。
「……で? 今月の税収も、またこれだけか?」
ゲッコー子爵は、執務室の豪華な椅子にふんぞり返り、目の前に積まれた羊皮紙の束を忌々しげに睨みつけた。
「は、ははっ! 領民どもも、絞りカスすら出ないほど困窮しておりまして……」
腹心の代官が、脂汗を浮かべて言い訳をする。
「やかましい! わしの知ったことか! 富とは作り出すものだ、絞り出すものだ! それができん貴様らは無能だと言っておるのだ!」
ゲッコーが机を叩いて怒鳴り散らす。彼の関心は、常に己の私腹をどう肥やすか、その一点にしかなかった。
そんな時、執務室の扉が慌ただしくノックされた。
「失礼します! 子爵様にご報告したい儀が!」
入ってきた兵士が、一人の男を伴っていた。男は小柄な商人で、ひどく興奮した様子だった。
「東の商業都市から来た商人だと? 何の用だ」
「はっ! この男、前代未聞の冒険譚を酒場で吹聴しておりまして……あまりに突飛な話ゆえ、念のためご報告にと」
ゲッコーは、退屈しのぎに、商人に話すことを許可した。
そして、商人は語り始めた。数日前に、彼が体験した九死に一生の物語を。
呪われた『嘆きの森』で、忘れられた古道を通ったこと。凶悪な盗賊団に襲われたこと。そして、絶体絶命の窮地を、どこからともなく現れた謎の一団に救われたことを。
「……彼らは、まるで聖霊のようでした! 邪悪な盗賊たちは、奇妙な奇跡の前に、戦わずして逃げ去ったのです!」
商人は熱っぽく語る。
「エルフ、ドワーフ、猫人、そして人間……ありえぬ種族が、まるで家族のように暮らしておりました。傍らには、神話の魔獣フェンリルを、まるで飼い犬の如く従えて!」
「馬鹿馬鹿しい。酒の飲み過ぎではないか?」
ゲッコーは、鼻で笑った。
だが、商人が懐から取り出したものを見て、その細い目が、わずかに見開かれた。
「これが、その聖霊様からいただいたお菓子のかけらです! どうか、一口!」
それは、ネルが焼いたクッキーの、最後のひとかけらだった。
ゲッコーは、疑いながらも、そのかけらを口に運ぶ。
次の瞬間、彼の脳天を、未だかつて体験したことのない衝撃が貫いた。
(な……なんだ、この味は!?)
芳醇なバターの香り、上品な甘さ、サクサクとしながらも、口の中でほろりと溶けていく食感。ただの焼き菓子ではない。これは、王宮の晩餐会で出されるどんなデザートよりも、遥かに、圧倒的に美味い。
ゲッコーの全身が、その美味の虜になっていた。
「この菓子……どこで手に入れた」
「ですから、森の聖霊様から……」
「場所はどこだ!」
ゲッコーの問いに、商人は震えながら、古道の場所を説明した。
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その日のうちに、ゲッコーは腕利きの斥候を二人、嘆きの森へと派遣した。
数日後、斥候たちは青ざめた顔で戻り、驚くべき報告をした。
「……報告します。商人の話は……真実でした」
「何?」
「古道を辿った先に……確かに、集落が。家、畑、工房……そして、ありえぬほど美しいエルフと、ドワーフ、獣人の姿も確認。傍らには、間違いなく……フェンリルが」
斥候たちは、クロの姿に恐れをなし、それ以上は近づけなかったらしい。だが、遠目からでも、そこが豊かで、平和な場所であることは十分に見て取れたという。
報告を聞き終えたゲッコーの執務室は、不気味な沈黙に包まれた。
やがて、ゲッコーの口元が、醜く歪んだ。
「ククク……ク、ハハハハハ!」
下品な笑い声が、部屋に響き渡る。
嘆きの森。魔境として誰も近づかぬ、治外法権の土地。それは、ゲッコーの領地でありながら、彼にとっても無価値な土地だった。
その無価値な土地に、楽園が生まれていた。
美しい亜人たち。伝説の魔獣。そして、あの天上の菓子を生み出す、豊かな大地と技術。
それら全てが、税も納めず、領主である自分に何の断りもなく、そこに存在している。
それは、ゲッコーにとって、許しがたいことであり――そして、これ以上ないほど魅力的な獲物だった。
「フェンリル、か。厄介ではあるが、しょせんは獣よ」
ゲッコーは、立ち上がった。その蛇のような瞳は、ギラギラとした強欲の光に満ちている。
「我が領地に、無断で住み着く不届き者どもだ。領主として、調査し、保護する必要があるな?」
その言葉に、代官が卑屈な笑みを浮かべて追従する。
「ははっ! まったくですな! 丁重に、お城へ『ご案内』せねば!」
ゲッコーは、私兵団の隊長を呼びつけた。
「兵を三十、やろう。お前たちで、嘆きの森の不法居住者どもを『保護』してこい」
「はっ! して、抵抗した場合は?」
「愚問だな」
ゲッコーは、醜悪な笑みを浮かべた。
「亜人どもは、傷物にならぬ程度に痛めつけろ。特にエルフは高く売れる。人間は殺しても構わん。フェンリルは……まあ、首だけでも持ち帰れば、良い飾り物になるだろう」
非道の命令。しかし、隊長は顔色一つ変えず、恭しく頭を下げた。
「御意」
こうして、悪徳領主の私兵団が、辺境の森に生まれた小さな楽園を目指し、静かに動き始めた。
彼らは、自分たちがこれから足を踏み入れようとしている場所が、どんな『奇跡』に守られているのか、まだ知る由もなかった。




