夕暮れのレモンパイ
2025 6/18 修正 コメディ ↑
ロイの家の前には、
ゆっくりと、茜色の光が降りてきていた。
空は、ついさっきまで晴れていたのに。
まるで誰かが大きな筆で一気に塗り替えたみたいに、
じわりじわりと、朱に染まっていく。
遠くまで広がる果実畑も、 その夕映えに染められていた。
ほのかに甘い香りが、 ふわりと空気に滲んでいる。
それは、疲れた心をそっと包むような――今日一日を労う、
優しい匂いだった。
この光も、この香りも。
オービタタウンの人々にとっては、昔から変わらない"本物の夕暮れ"だった。
そんな夕暮れのなか、
小さな影が、体育座りをしていた。
エノコログサを手に持ち、いじけたように
地面をなぞっている。
「ミャー」
「そうですか。いいですね、猫さんは」
夕暮れの風に、スイのポニーがそっと揺れた。
膝にシリカパックを貼った彼女は、どこか拗ねたような顔で、
白猫に話しかけていた。
「スイは大変ですよ。どこにいっても居候……。
お掃除ばかりさせられるんデス」
「ミャ?」
白猫は、スイの言葉に反応するように、短く鳴いた。
背中の銀色の毛が、風になびいている。
「この怪我も、そのときに……冷蔵庫を爆発させちゃって。
スイは、昔から怒られてばかりなんデス」
「スイは昔、"自軍爆破型ジェムット"なんてバカにされてたんデス」
「ミャ~~」
「家電撃墜率1位、"ACE - Gemut" ——《水色の死神》。
メーカーが送り込んだスパイジェムットだって……、本気で噂されてたんデス」
白猫は、足先で喉を掻いていた。
土のついた、桜色の肉球がちらりと見える。
「……猫さんはどうですか?お掃除は、得意ですか?」
そういうと、スイは白猫に、半分になったレモンパイを差し出した。
上のレモンは、すでになくなっていた。
白猫は、少しだけ鼻先を近づけ、不思議そうに首をかしげた。
スイは、じぃ~っと、その顔を見つめていた。
白猫は「えっ」とでも言いたげに、小さく鼻をひくつかせた。
「……カワイイ」
そのとき――。
「お~~い、スイ!!どこいった~~??」
ロイは、慌ただしく家から飛び出してきた。
着ていたシャツには、コーヒーの染みが滲んでいた。
スイはもう一度、猫を振り返った。
「帰っても、スイはまた……、誰の役にも立てない。博士の作った、
欠陥ジェムットなんです……」
スイは浮かんでくる涙を、腕で拭った。
「ミャ~~……」
白猫は、スイに身を寄せた。
すりすりと、銀毛混じりの体を、押し付ける。
「猫さん……」
「ありがとうございます……、猫さん。スイは、
まだ頑張れるってことですか?」
「ミャン」
「もう一度だけ、頑張ってみろと?」
「ポンコツなのに、新しいマスターと出会えたんだから――
"この奇跡を、無駄にするな!!スイ!!"
って、そう言いたいんですよね?」
白猫は、返事は返さなかった。
代わりにまた、体を押し付けた。
「猫さんは、もふもふです。
スイよりカワイイなんて、ズルいです。
生きてるだけで、可愛がられるんですから」
「でも……、猫さんの言う通りです。
スイも、もう一度――頑張らないといけませんね」
白猫は、スイに何度も頭突きした。
「——では、お別れです。猫さん!
今度、猫さんにも美味しいレモンパイを持ってきてあげます!」
スイは白猫の頭をなでると、立ち上がり、くるりと背を向けた。
途端に、たたたっと小走りを始めた。
軽い足音が――やわらかな風に、さらわれていった。
水色のポニーテールが揺れるのを、白猫は、ただ静かに見送っていた。
スイは、もじもじとしながらロイの前に立った。
「お、どこいってたんだよ?! 家出したんじゃないかって、心配したぞ!!」
「だって……、冷蔵庫を壊しちゃったから。マスターも、怒ってたじゃないですか」
「いいよ、そんなのは。また買えばいいんだから!
……ほら、早く戻ってこい。腹減っただろ?」
「……また、私が食べることしか能がないジェムットみたいに」
スイは、まだ少し頬を膨らませていた。
「はいはい。——今日はな~、カンキツさんが、オレンジパイを
大量に置いてったんだよ。……勝手にな?!」
ロイは小さく肩をすくめ、苦笑した。
「お前にも食ってもらわんと、とても処理できんっ!!」
スイの瞳が、僅かに、欲望に揺らいだ。
……
「――私は、オレンジパイにもうるさいですよ?」
スイは、やや上目遣いに、ふくれっ面でロイを見上げた。
「おうっ。その息だ!!」
ロイはスイの肩に、ポンと手を置く。
二人の背が、家の中へと消える。
振り返ったとき、白猫の姿はもうなかった。
夕暮れの風に乗って、 小さな銀色の毛がふわりと宙を漂い、
やがて、果実畑の向こうへ消えていった。
オービタタウンには今日も、気ままな風が吹いていた。