果実都市と機械の少女◇トワイライトアップルへようこそ!
爽やかな甘い香りが、空気に混じっていた。
黒檀とウォルナットを基調にした、クラシカルな木造の列車がゆっくりと、線路を滑っていく。
側面には、発酵中の果実を詰めたエネルギータンク。
煙突からは、レモンと青リンゴの香りが混ざった白い蒸気がふわりと立ちのぼる。
その座席に、ひとりの少女がいた。
果実列車の窓辺に腰かけ、ゆっくりと顔を上げる。
「……もう、見えるかな」
オレンジ色の光が差し込む座席。
差し込んだ陽紅の光が、彼女の白い肌をふわりと染める。
さらりと肩をすべる長い髪もまた、やわらかな金の光に染まっていた。
「……わぁ……すっごく大きな、林檎……!」
窓の外には、空を覆うような巨大な球体が広がっていた。
浮遊型環状都市。
外周に沿って十の駅を持つ、都市型の人工空間だ。
それぞれの区画には、特色あるコミュニティや機体の街が広がっている。
浮遊都市は、夕の陽紅に染まり、幻想的な林檎のように輝いていた。
「……アビスには、こんな景色はないよね」
彼女は少し気を落としたように、席に腰を下ろした。
ふと窓の端に、どこか不自然に静まり返った人工の森が映りこんだ。
――外の世界は、かつての環境汚染によって荒廃した。
上空には霞のような粒子がたまり、地表では毒の雨が人々を遠ざけた。
人が暮らせる場所は、もう指で数えるほどしか残っていない。
トワイライト・アップルは、そんな絶望に抗うための――
空に託された居住空間だった。
球体の天井には、超高解像度のホログラムプロジェクタ層が敷き詰められている。
昼夜も、天候も、季節までも――
すべてを人工的に再現できる、空のためのパネルだ。
「……葡萄?」
彼女の前の座席には、もう一人の少女が座っていた。
列車の風にふわりとなびく、淡い青紫の髪。
人間ではない。彼女は、"体の一部が機械"だった。
「ここは、子供の楽園だからね」
窓から外を見つめながら、彼女は薄く微笑んだ。
「え?」
カタン、カタン――
静かに刻まれる線路の音が、空気に溶けていく。
「ご乗車ありがとうございます。まもなく――トワイライト・アップルに到着します」
天井スピーカーが、機械的に告げる。
「さて。行きましょうか、見習いマスター。カレン。
“世界の運命を変えに。”」
葡萄は、ゆっくりと腰を上げる。
窓の向こうには、夕陽の色に染まる球体都市が、もうすぐそこに見えていた。
「う、うん……っ!」
少女・カレンの声は小さかったが、その瞳には確かな光が宿っている。
「どうしたの?」
「……ずるいよなぁ。葡萄が言うと、ちっともクサくないんだもん」
カレンは、苦笑いを浮かべながらぼそりと呟いた。
「……」
「詩人だよね~。葡萄って」
彼女は悪意のない真っ直ぐな眼差しで、向かいの少女を見つめた。
「……こ、こほんっ」
葡萄はわずかに居心地悪そうに咳払いをし、ふいっと窓の方へ視線を逸らした。
その白い頬には、ほんのりと赤みが差していた。
「……では、もう少し標準語で……」
葡萄は咳払いひとつ。
わざとらしく声を整えると、ぎこちなく言葉を繰り出した。
「妙な刀を背負った、銀髪のジェムット。
若き天才が見込んだ相手を――我々は、探しに行くのです」
「ぷっ……あははっ! なぁにそれ! 天才って、だれのこと!」
カレンの笑い声が、車両にふわりと響く。
「……自覚がないのが、天才の最も一般的な症状なんですよ――」
葡萄は小さく呟いた。
――その日。
青の浮遊都市から訪れた、ふたりの少女。
まだ誰も知らない“物語の分岐”が、その一歩に静かに芽吹いていた。
芽吹いたばかりのその種は、やがて、果実の都市で、花を咲かせる。